西方イスラーム世界とレコンキスタ<北アフリカ・イベリア半島史>【11〜15世紀】
イスラーム世界の中でも中央アジアや中東ではトルコ系民族の建国する国による支配が増えていましたが、北アフリカやイベリア半島では勝手が違っていました。
今回はそうした西方イスラーム世界とレコンキスタについてまとめていきます。
北アフリカでのイスラーム勢力
北アフリカでは11世紀半ばごろからベルベル人がその覇権を握っています。熱心なイスラーム宗教運動を起こし、ムラービト朝(1056〜1147年)を建国しました。
ジハード(聖戦)を唱えて南下。ガーナ王国を滅ぼしてスーダンのイスラーム化を推し進めたりイベリア半島の一部まで支配したりしたのですが、宗教的な熱狂が収まるにつれて国力も衰退することになっています。
続いてムラービト朝が衰退した頃からモロッコに起こったのがムワッヒド朝(1130〜1269年)でした。ムラービト朝を倒した後は同王朝が支配していたイベリア半島南部にまで支配下に収めています。
経済基盤が貿易路の支配にあり、交易の商品になるような手工芸なども発達していきました。また、貿易が盛んになれば人も集まったことでしょう。哲学や医学、文学などイスラーム文化も大いに栄えています。
イベリア半島でのイスラーム勢力
8世紀前半にイスラームの侵入により、イベリア半島でキリスト教国家の西ゴート王国が倒れます。この時に勢力を拡大したのがウマイヤ朝です。
が、元々がキリスト教世界だったため統治は簡単にいかず、ウマイヤ朝に対する反撃の動きレコンキスタ(国土回復運動)が行われていくことになります。
当時のヨーロッパでは温暖化が進み人口が増加。新たな土地を手に入れるために膨張傾向になっていたようで、その一環でレコンキスタも起こったと言われています。
そうした中でウマイヤ朝が倒れて後ウマイヤ朝が起こります。こちらはイスラーム帝国の形成と分裂でお話しした通りなので割愛させてもらいます。
レコンキスタによるイベリア半島からの撤退
北アフリカで勢力を維持していたムワッヒド朝。ウマイヤ朝や後ウマイヤ朝が成立してから既に始まっていたキリスト教勢力によるレコンキスタ熱の高まりもあって、実際にキリスト教勢力とぶつかることに。
この【ラス=ナバス=デ=トロサの戦い(1212年)】でムワッヒド朝は敗北し、イベリア半島での影響力を落とし衰退していきました。
その後イベリア半島でイスラーム勢力で最後まで残ったのはナスル朝(1230〜1492年)です。が、グラナダとその周辺地域のみの支配に留まっています。
1479年には当時レコンキスタの中心となっていたアラゴンとカスティリャと呼ばれるキリスト教国家2カ国の統合によってスペイン王国が成立し、レコンキスタの圧力はますます強まりナスル朝はますます追い込まれることに。
※統合してスペイン王国と言っていますが、実際には諸侯連合だったようです。ただし、勢いのある時期だったので、スペイン帝国と呼ばれることもあります。
※過去記事でグラナダがどこら辺にあるか描いた地図があったのでおいておきます。ちなみにヘンリー7世はバラ戦争を終結させたイングランドの国王でエリザベス1世の祖父、ヘンリー8世の父に当たります
ちなみに、この時アラゴン王国とカスティリャ王国が結びついた際に両国の国王と女王が結婚したのですが、彼らの子供がキャサリン=オブ=アラゴン。
イングランドテューダー朝のヘンリー8世(エリザベス1世の父親でイングランド国教会の生みの親)の1人目の結婚相手です。ちなみに彼女の最初の結婚相手はヘンリー8世の兄アーサーでした。
こうして1492年にはスペイン国王がグラナダに入城、イスラーム教徒たちは北アフリカに引き上げるとイベリア半島でのイスラーム時代に終わりを遂げたのでした。
今でもスペインにはアルハンブラ宮殿など華麗な建築様式と繊細なアラベスク模様といったイスラーム文化が残っており、キリスト教国家でありながらイスラームの歴史も感じられる場所となっているようです。