なぜ安保闘争が起こったのか??
1960年と1970年と二度にわたって行われた安保闘争。今でもテレビなどで学生運動の映像が流れてきます。
この安保闘争は日米安全保障条約をめぐる大規模なデモ運動でした。この記事では、どうしてデモが起こったのかを書いて行きたいと思います。
安保闘争とその背景。
世界が冷戦真っ最中の1959~1970年頃に日本では、2度の大規模なデモ運動が起こりました。それが安保闘争で1960年の60年安保、1970年の70年安保とも呼ばれています。
これらの運動に参加したのは、日本社会党・日本共産党などの左翼政党や日本労働組合評議会などの労働者や共産党から分派した共産主義者同盟と彼らが主導する全日本学生自治総連合会の学生なども居ました。
この安保闘争の背景には、日米安全保障条約の存在がありました。
1951年9月8日にアメリカのサンフランシスコで、日本はサンフランシスコ平和条約を締結しました。この条約により日本の独立が認められることになり、本来なら日本に駐留していた占領軍が撤退するのですが、条約の条項に【軍の撤退もするけど、日本との協議で軍を駐屯させても良いよ~】的な内容が盛り込まれていました。
アメリカはこの条項を根拠に日米安全保障条約を結び、引き続きアメリカ軍は日本に駐留する事が可能になりました。
1950年代に日本経済は朝鮮戦争の好景気に沸き持ち直し、高度経済成長期へといこうしていきます。政治も自民党と社会党の二大政党による55年体制が構築され安定期に入りました。
ところが、1957年にアメリカ兵による日本人射殺事件が起こると、その裁判権を巡り日米安全保障条約の不平等さが問題視されるようになりました。
ときの総理大臣・岸信介が、日米安全保障条約の不平等さを解消するために、条約の改定を目指すと、日本社会党が猛反発。市民単位でも、改定後に再び戦争の危機感を抱くようになり、大規模なデモ運動が起こるようになります。
1960年に安全保障条約の改定法案は無理やり可決した事で、岸信介内閣は総辞職。日本各地で左翼運動【60年の安保闘争】が起きました。1970年の安保改定でも大規模デモが行われましたが、日本における左翼運動自体が低迷し、日本社会党が衰退していくのでした。
安全保障条約とは?
日米安全保障条約とは条約を結んだ後に国が攻撃された時に条約を結んだすべての国が介入して助けると言う軍事条約です。
日本とアメリカに限らず、安全保障条約が結ばれる前後には他にも有名な軍事条約が結ばれています。西欧諸国の連帯を強めたのが1949年の北大西洋条約、東側の連携を強めたのが1955年のワルシャワ条約。それによって作られたのが北大西洋条約機構(NATO)とワルシャワ条約機構です。
日本とアメリカの間で結ばれたのが日米安全保障条約でした。
サンフランシスコ平和条約で独立を果たした日本ですが、当時の防衛体制は非常に脆弱なものでした。1950年8月の警察予備隊が創設されるも、その数は75000人にすぎません。
世界では、朝鮮戦争に代表されるように東西の冷戦が激化しており、日本が後方基地・補給地点としての活用を見込み、日米安全保障条約の締結をしました。
日米安全保障条約の締結
1951年に日本はサンフランシスコ平和条約によって独立が認められ、西側諸国の一因として認められました。しかし、世界は冷戦の最中で憲法で戦争を放棄して戦力を持っていなかったので、他国の侵攻を問える手段がありませんでした。
そこで、アメリカは日本が攻撃された時にアメリカ軍が助けるようにする日米安全保障条約をサンフランシスコ平和条約と同じ日に締結したのです。
条約の内容を簡単に書くと…
- GHQが解体されてもアメリカ軍が日本に駐留する事を認める
- 日本はアメリカが認めない第三国への基地提供を禁止する
等が盛り込まれ、日本はアメリカに頼らなければいけない状態となっています。
さらにアメリカは日本を必ず助けるとは決められておらず、日本にとっては大変不平等な条約でもありました。
こうして、安保条約が結ばれることになるのですが、先述した通りその内容は不平等な条約で、日本は日本はアメリカの属国として見られてもおかしくないものでした。そこで、当時の首相・岸信介は何とかして対等な安全保障条約を結ぼうと目指していました。
こうしてアメリカとの交渉が始まりました。
アメリカも当時、朝鮮戦争やベトナム戦争でアジアの社会主義化を抑えるために、韓国と並び西側諸国の日本に軍事力を持たせたいと考えていました。
そして、1960年にアイゼンハワー大統領は日本との安保条約の改定を了承したのです。
その内容が…
- 日米両方が憲法に従って日本を防衛する
- 日本とアメリカのどちらかが攻撃されたらその片方の国も協力する
- 日米両国がお互いに経済協力して発展することに努める
- 安保条約は10年ごとに条約を更新する
前回とは違い、日本とアメリカが対等な条約改定をすることに成功しました。
安保闘争の勃発
こうして安保条約が改定されて終われば良かったのですが、そうはいきませんでした。
日本での条約締結や改定には、国会での承認を受けなければ成立しません。さらに、岸信介首相自体が太平洋戦争時の閣僚であり、A級戦犯に認定されていた事から、国内では「もしかしたら日本がまた軍国主義に戻るんじゃないか?」と思う人が出てきます。
また、左翼政党の反アメリカ派であった日本共産党と日本社会党がこの改定に猛反発。共産党から離れた学生たちの中心組織であった共産主義同盟や全日本学生自治連合会も安保条約に反対するデモを行ったことで安保闘争が始まりました。
安保条約の反対デモが起こり始めている中、アメリカとの決めごとを何とか可決させたい岸信介は安保条約に反対する社会党と共産党を国会から排除して、無理やり新安保条約締結を衆議院で可決。
こうした無理やりの強行採決に、我慢の限界に達した安保改定阻止国民会議は全国各地で反対デモを起こし、さらに30万人以上のデモ隊が国会議事堂を取り囲み反対デモを行いました。
デモ活動の矛先はアメリカにも向けられ、アイゼンハワー大統領の訪問日程を調整するために来日していたアメリカの報道官をデモ隊が囲み動けなる事件も発生しました。さらに、右翼団体などの衝突によって樺美智子が圧死する事件も起きたことによって、学生が暴走化し始めました。
また、右翼団体による社会党襲撃事件も起きて、当時の委員長だった浅沼稲次郎が暗殺されてしまいます。
一連の事件を受けて岸信介は声明を出し、さらには治安部隊が出動する事態にまで発展しました。しかし、ここまでのデモを起こしても国会の決議は変わることはなく、衆議院可決から30日後には参議院も通過し、安保条約は成立しました。
一連の安保闘争が終わりを迎えたのは、岸信介内閣の総辞職を持って幕が引きました。
1970年安保闘争
岸信介内閣の安保条約の改正が成立して約9年後の1969年。安保条約の項目にある10年ごとの更新の年がやってきました。
この頃の日本は、学生運動が盛り上がりを見せており、安田講堂事件や日大闘争などの事件が多発していた時期でした。こうした、学生運動は、安保条約更新にも及び再び安保条約更新の反対デモが起きます。
しかし、このデモも国会の運営には影響はなく、安保条約更新は何事もなく決定されることになりました。
特にこの頃は、左翼団体などは成田闘争やベトナム反戦運動なども行っていたので、疲弊していました。しかも、各地で内ゲバや衝突が起き、さらに連合赤軍があさま山荘事件などのテロ事件や犯罪行為をやってしまったこともあり、日本全体で共産主義者=テロリストのイメージが定着してしまいます。
こうした事情で社会主義に対する反感が起きてしまい、1969年の総選挙では自民党が大きく議席を伸ばす一方で、社旗主義を掲げた社会党は50議席も失うと大敗北を喫してしまいます。
その後も社会党はリクルート事件を起こし、マドンナ旋風が起こる1990年の躍進まで低迷期に入っていきます。
一方で安保条約をめぐる反対運動は今でも続いており、日本における新左翼運動に繋がっています。