NHK大河ドラマ

甥っ子の徳川家康と織田信長を繋いだ清州同盟のキーマン・水野信元の悲しい人生

歴ブロ

Wikipediaより転載:水野氏家紋

 

徳川家康の叔父・水野信元は、尾張と三河の間の知多半島に勢力を有した戦国大名です。

元信の父の代は、松平宏忠と歩調を合わせ今川氏についていましたが、元信の代になると織田氏に臣従します。織田信秀の三河攻略に協力し、信長と家康の清州同盟にも関与しました。

最盛期は、24万石も有するそこそこの国力を有した事で、織田信長が危険視した事で、殺害されたとも言われています。

 

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織田信秀時代からの協力者・水野信元

こうして、織田氏に協力する形でその地位を確立していく水野元信ですが、三河に侵攻してくる今川義元の対応に追われる半生でした。

1549年に安祥城を今川勢に奪われると織田勢は不利な状況に立たされ、元信の刈谷城も一時占拠される事態に。この時は、織田・今川双方で和解が成立し、水野信元は一時的に今川方として刈谷城に戻りました。

1551年の織田信秀が死去すると、三河の国堺に近い尾張の領主たちが次々と今川方についてしまい、織田勢が不利な状況になりました。一方で、現在の愛知県豊田市一帯を治めていた松平氏の分家が織田側に付くと一緒に元信も織田氏に帰参した様です。

しかし、刈谷城の周りの領主たちは次々と今川に臣従。今川義元は、刈谷城攻略のために村木砦を作り、着々と準備を行います。さすがの信元も織田信長に援軍を要請。

信長は、舅・斎藤道三に自分の城を守らせる奇抜な策を講じて、水野信元に援軍を出し村木砦を攻略します。これ以降、水野信元は織田氏の臣従は一層深くなったと言われています。

1560年の桶狭間の戦いでは、戦場が領地という事もあり、近くの砦に家臣達を配置して今川勢に備えています。この時の信元の行動はわかっていませんが、おそらく家臣達ともに砦で警戒をしていたんだと思われます。

 

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家康の相談相手の良い叔父さん

水野信元と家康の生母・於大の方は兄妹で、信元は家康ともかかわりが深い関係です。信元の代になり織田氏に臣従した関係で、家康と母は生き別れとなってしまいます。その責任を感じてかはわかりませんが、何かと家康を気にかけた行動をしています。

関ヶ原の戦いでは、今川義元亡き後に松平元康が大高城から撤退する時に、こそっと手助けをしていました。

 

元康が独立を果たすと、信元の仲介で信長と家康による清州同盟が締結されます。

その後も家康の色々と相談相手になっており、よき叔父さんぶりを発揮しています。しかし、水野兄弟は仲が悪く、弟と従兄弟が揃って家康に出奔しています。

三河の一向一揆で、苦戦を強いられた時にも家康に援軍も出し、和睦も仲介しています。

 

水野氏最盛期を築き上げる

水野氏が治めた知多半島

 

子がいなかった水野信元は、亡き兄の子・信政を養子にして家督を譲りました。

この時の石高が最高の24万石とも言われています。

その後は、1570年姉川の戦いに参じ、佐和山城を攻撃。1572年三方ヶ原の戦いでは、徳川家康の援軍として浜松城へ軍を率いています。長嶋の一向一揆や長篠の戦にも参戦しています。

が、足利義昭から内々に武田勝頼と協力して信長を討てとの密書を受け取っています。

密かに、足利義昭とのパイプも持っており、こうした関係から内々に信長包囲網に参加しないか?とオファーがあり密書も受け取っています。また、永禄六年諸役人附の史料には、外様衆と記名されている事から、幕府直臣の地位も得ていたようです。

 

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水野信元の悲しい最期

1576年に織田家臣・佐久間信盛が、武田家臣・秋山信友と内通して、武田軍に兵糧を送った者がいると信長に報告。

1575年に織田信長が信玄に奪われた岩村城を取り戻す際に、兵糧攻めで城を落とすように、佐久間・水野両氏に命令。しかし、岩村城外で城内の金品と食料を交換すると言う裏切者が発生。

その裏切り者が、水野信元と信盛がうその報告をしました。

 

この報告に、信長は水野信元とその息子・信政を切腹させるように家康に言い渡します。

家康は、母・於大の方の夫・久松俊勝を通じ、元信に接触。大樹寺に呼び出し、石川数正と平岩親吉に命じて二人を斬りました。

 

佐久間信盛の嘘がばれる

処刑された水野氏の領地は、佐久間信盛が治めることになりました。

ところが、信元の死後に佐久間と水野との確執が発覚し、信盛の報告が嘘と判明。織田信長は、水野信元を失ったことを後悔し、出奔して徳川家に居た弟・水野忠重を刈谷城主に任命し、水野家を再興させました。

 

しかし、水野信元が殺されたのは、他の説もあります。

家康の叔父で、今や24万石の大名となった水野元信を織田信長が危機感を覚え、佐久間信盛を利用して信元を死に追いやったと言う説です。たしかに、ウソがばれて信盛がなにも音沙汰内ないのは少し違和感を覚えます。

真意はわかりませんが、どちらにせよ信盛が絡んでおり、織田家に尽くしてきた水野信元でしたが、信長に信じてもらえなかったと言うのは同じかもしれませんね。

 

信元を斬った平岩親吉は、【個人的な恨みはないが主君の命でやむをえず斬って申し訳ない】と涙ながらに詫び。案内を申し受けていた久松俊勝は、【家康のした事を深く恨み、もうやってられない】と出奔して、佐久間信盛の与力となりました。

一方で、夫に出奔され、兄を殺された於大の方とその子たちは、家康の下に引き取られますが、於大の方は石川数正を深く恨み、これが後の信康事件や石川数正の出奔の火種となっていくと考える研究者もいるようです。

 

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自分の代になり、今川を裏切り織田方に付いた水野元信。

これがキッカケで、家康と母が生き別れになりました。しかし、この行動が無ければ、徳川家康と織田信長の清州同盟が無かったかもしれません。

母親の件で、家康は元信をよく思っていなかったかもしれませんが、桶狭間の戦いで敵ながら、家康を逃したり、三方ヶ原の戦いでも死闘を繰り広げたところを見ると、水野元信にとっては大切な甥だったのかもしれません。

 

最後は、甥っ子に粛清された人生でしたが、死んでもタダで起きないのが水野信元。

1573年に、生まれた末子が信元死後、家康の計らいで土井家に養子となった事で、後の徳川秀忠治世の老中・土井利勝とも言われています。徳川実記には、家康の御落胤(隠し子)と言う記録もあり、利勝の出生はあまりはっきりしていないのも事実です。

 

追伸

少し、宣伝じみて申し訳ありません。

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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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