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徳川家康の関東移封は左遷か?栄転か?家康・秀吉の思惑はどこにあったのか?

歴ブロ

現在の東京の礎を築いたのは徳川家康で間違いないでしょう。

三河の国衆・松平家に生まれ、幼少期は今川家の人質時代を過ごし、独立後は織田信長と同盟をして、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃国を治める大名までに成長しました。

しかし、織田信長死後、豊臣秀吉が天下を治めるようになると、秀吉の命で旧領は没収の上、関東八州が与えられ、江戸の地に移り住みます。その後は、江戸周辺で多くの大工事を行い、現在の東京の基礎を作り上げていきます。

そこで今回の記事では、江戸幕府の設立のきっかけとなる徳川家康の関東移封について書いて見たいと思います。

 

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小田原征伐時にはすでに家康の関東行きは決定!?

小田原を本拠地とし、関東一帯を支配していた北条氏政・氏直親子は、秀吉の上洛要請を拒み続けた【惣無事違反】だった事から、全国統一事業の総仕上げとして小田原討伐を決行します。

1590年4月に小田原城に籠城する北条氏政親子を16万の大軍で取り囲み7月初旬には陥落させました。

徳川家康は、娘を北条氏直に嫁がせていたので、北条氏とは姻戚関係で秀吉と北条との架け橋となって和解を調整していたが、討伐が決定すると立地等から先鋒に命じられ豊臣方として小田原征伐に参加しました。

家康の関東入りが決まったのはその陣中と言われており、徳川幕府公式記録【徳川実紀】を紹介しましょう。

 

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関東移封は左遷か?栄転か?

小田原陥落前のある日、秀吉は家康を見晴らしの良い所へ呼びました。

そこで…

小田原城が陥落したら北条家の旧領を徳川殿に明け渡したいと思っているが、どこに御隅になるつもりか?

と尋ねた秀吉に家康は…

さしあたっては小田原城に住もうと思っています。

と答えたが、秀吉が

それは非常によくない。ここは東国の喉ぼとけなので家臣の中で軍略に優れたものを守らせ、徳川殿自身はさらに東国の江戸城を本拠地にさせると良い。地図を見ると中々いい場所である。

と言ったそうです。

この記述通り、家康の江戸入りを決定したのは、豊臣秀吉だった事がわかります。

徳川の旧領は、三河・遠江・駿河・信濃・甲斐の五ヶ国で150万石だったが、北条氏の関東の旧領で240万石が見込まれている事から、関東移封は栄転に思えます。

しかし、豊臣政権の中枢である京都・大坂からは離れる形になり、さらに小田原より東の江戸を本拠地としたら地理的には左遷とも受け取れます。

 

この関東移封は秀吉のどのような意図があったのでしょうか??

 

やっぱり徳川家康は面倒な存在

ハッキリとした史料が無いので想像でしか書けませんが、【家康に敬意を称しつつ遠ざける場所が江戸】だったのではないかと考えられます。

秀吉と家康の元々の関係を見ると、秀吉は織田家の家臣で、家康は信長の同盟相手で上司の盟友でもあります。秀吉に臣従した織田・豊臣恩顧の大名とは違い、家康の顔が立つように豊臣政権内でも厚遇する必要がありました。要するに面倒な存在であった。

北条氏も滅び、今や豊臣家に次ぐ実力を持った徳川家康が機嫌を損ねて謀反を起こせば、豊臣政権も無事では済まされない。この危機感は、豊臣政権中枢の前田利家も同じ認識だったと言います。

利家の家臣が記した史料によれば、いつか必ず家康と敵対する事があるので、その時に北条家の遺臣が前田家に味方するように手なずけておく必要があると語っていました。

 

豊臣政権の脅威となる家康が小田原に居てもらっては都合が悪いのは、小田原は上記のような東国の喉仏、箱根峠に隣接しているからと言われています。

関東の定義が、足柄峠と箱根峠の東とされているように、箱根峠は陸上交通の要所中の要所とされています。そこで秀吉は、小田原には家康の家臣・大久保忠世に入るように指。これも家康の謀反を想定して、豊臣方に有利な動きをするような人選をしたと言われています。

 

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ここで【なぜ江戸なのか?】と言う事になりますが、この地は赴任先として決して悪い場所ではないことを説明していきます。

古くから東国と西国の水上物流の拠点である事はもちろん、陸上交通の要所でもあったのが江戸でした。相模国・中原街道・鎌倉街道などでつながり、さらに奥州の街道も繋がっていました。

秀吉は、小田原討伐後に奥州大名たちの仕置を構想していたので、奥州へ向かう街道確保のためにも江戸は重要地点だったと考えます。

こうした戦略拠点の江戸を任せる事で、豊臣政権内で家康の力量を最大限に評価しつつ、合法的に政権中枢から地理的に引き離せることが出来るのが、この江戸の地だった訳です。

 

徳川家康は江戸の潜在能力を見抜いていた

秀吉の思惑は紹介しましたが、転居する家康自身はどうだったのでしょうか??

関東移封を知った直後は驚いたかもしれませんが、実際に江戸赴任が濃厚となった頃から江戸に強い関心を持ち、家臣を江戸城に何度も派遣し様子を探らせていました。

この江戸城を作ったのが室町時代の智将・太田道灌で、誅殺された後は紆余曲折を経て北条氏の支城となりました。

 

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小田原征伐直後の1590年には、江戸は北条氏の新たな重要拠点として整備が進み、都市して発展する新しい段階を踏んでいある状態でした。家康は北条氏と友好関係を築いていた事から、江戸の都市化に関する最新情報は秀吉以上に持っていた可能性が有ると言います。

そもそも関東一円を支配するには、小田原では西によりすぎている事から、関東平野の扇のかなめの位置にある江戸の方が地理的にも理がかなっていました。また、水上・陸上交通の良さをみれば、全国統一事業が完成され大名間の領土的障害が無くなればさらなる発展も見込まれる事からその潜在能力は無限大です。

家康にとっても、京都・大坂を拠点とする豊臣政権と距離を保ちつつ、秀吉に対抗しうる大きな力を蓄えるのに江戸は最適な場所でした。

 

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ここでも噂の天海が!?

ここで見逃せないのが、小田原征伐時に家康の陣中にいたのが南光坊天海

天海は家康の陣中に滞在中、小田原に浅草寺の別当を呼び寄せ、江戸城の鬼門に位置し、源氏とゆかりが深い浅草寺を徳川家の江戸の祈願所にするようにと家康に進言しました。

この出来事は、小田原征伐が本格的始まる4月前の事で、家康は天下の助言を経て水面下で江戸入りの準備を進めていた事になります。天海と言えば徳川家に仕え、方位学を駆使した江戸の町造りの中核を担った人物で何かと噂の多い人物。

 

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その天海が、織田話征伐の陣中にいたのなら、家康に江戸城が四神相応に叶い、方位学的にも幕府を開く、本拠地を置くのにふさわしい場所であると言うお墨付きを与えた可能性が高いでしょう。

こうした天海の助言もあり自身の関東移封の意思を固めた家康でした。

ともかく、秀吉と家康のお互いの思惑の落としどころが江戸なのは確かで、小田原城が落城すると家康は秀吉の指定通りに江戸城に入りわずか2か月で旧領から関東への領地替えを完了しました。

あまりの速さに豊臣秀吉も【早いにもほどがあるだろう】と突っ込みを入れたとか入れないとか…

 

関東移封による家臣達の心境

徳川家康は故郷である三河を捨て、関東を拠点とする決意を決めたのですが、徳川家についてくる三河武士たちの心境はどうだったのでしょうか??

当時の武士たちは兼業農家で親戚たちに農民も多い事から、高給取りになるが故郷と個人財産を失い親族と生き別れる、関東移封には反対者が多かったと言われています。

しかし、徳川家康は口では三河を失うのは悲しいと言っておきながら、土豪出身の三河武士たちをそれぞれの土地から切り離すことに好都合だった関東行きを大歓迎していました。

家康にとっては、先祖の土地として上野国や源頼朝が幕府を開いた鎌倉を治めることが出来るのはまさに武士としての誉れでもあります。

 

この時代、大名家も領国の中央集権化に苦労しており、特に厄介だったのが先祖代々の土地を支配していた土豪達。彼らが地元にいる限り、君主と家臣の上下関係にするにはとても難しい事でした。

そのため、関東への引っ越しはチャンスで、家臣達の序列改革を好きなように変えることが出来ます。秀吉は家臣達の知行や配置まで家康に指示した事を利用し、自身が仕方なく従った風に三河衆たちの知行を決めます。

筆頭家老・酒井忠次が良い例で、彼自身はすでに隠居していたが、息子に与えられたのが3万石。逆に新参者の井伊直政がその4倍の12万石が与えられました。秀吉の具体的な指示があったとは言え、この処置は三河にいたころでは考えられない事です。

これは、成長企業が本社を移すときも同じで、新しい風を吹かせるには古参幹部を退陣させて新しい風を吹かせる必要があったのです。

 

徳川家康を支えた家臣団・徳川十六神将を簡単に予習しよう!! 徳川家の家臣団の中には、【徳川十六神将】と呼ばれる三河の一大名の頃から仕え、家康の天下統一に力を尽くした家臣達が居ました。 ...

 

こうして、関東に移った徳川家康は東海道時代に培った軍事力強化や自身の政策を関東においても実践しました。関東においても大きな改革を施し、年貢の安定、軍事力強化をし、旧北条家臣団もすっかり家康に定着していきました。

そして、家康は大阪から離れていた事が幸いし、朝鮮出兵の際の国力低下も避けることが出来て、関東一帯の絶大なる支配者となっていったのです。

 

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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