日本の年功序列文化は江戸時代の儒教教育にあった!?
日本では昔から年長者が偉いという年功序列があり、上下関係を重んじる文化があります。現在では変化しつつありますが、まだ多くの人たちや団体が年功序列文化を重んじるのが残っていると思います。
このような年齢での上下関係を重視する日本の考え方は、国際的に見ても珍しい文化です。
これまで、年功序列で年齢が上がれば給料が自動的に上がっていくシステムが多かった企業ですが、最近では自分の実力で評価されるシステムを採用している企業が増えました。
そこで今回は、年功序列の考え方が日本でどのように浸透していったのか、この記事で考えてみたいと思います。
武家制度による上下関係の絶対化
年長者を敬うのは人間として当たり前なのですが、間違ったことを目上の人に指摘できないと言うのが日本人にはあります。相手を敬うからこそ、目上に恥をかかせないと言う遠慮から生まれているのでしょう。
日本の歴史の中で社会的地位の格差は古くからありました。
古くからある公家社会はその典型的ですが、これはごく一部の支配階級における社会の格差であって、日本全体の文化ではありませんでした。
この社会格差を一般的に浸透させたのは江戸幕府でした。
江戸幕府は封建的身分制度を打ち出して、武士を支配階級に据えてそのほかの農工商を被支配階級として武士の下に位置付けました。こうして、上下関係をハッキリさせて身分の固定化をさせました。
街の中では武士が何事も優先され、武士への侮辱行為は「切り捨て御免」などの言葉によって成敗されることもありました。
大名行列が通過する際には、平伏して通り過ぎるのを待つなど厳然たる身分格差が当たり前のように浸透していったのです。
江戸幕府による儒教『朱子学』の推進
幕藩体制の支配と秩序維持の合理化にふさわしいとして儒教から派生した朱子学を幕府の思想・教育の基本としました。
儒教は平安時代には伝わっていましたが、当時は僧侶やごく一部の知識人に取り入れられていた程度でした。思想として日本人の精神文化に根付いたのは江戸幕府の享保の改革からでした。
徳川家康は、戦国時代を終わらせ平和な時代を築く為に道徳が必要だと考えました。そこで儒教から派生した朱子学を学者から教わります。
後に、林羅山は幕府専門の学者となり、朱子学を教える私塾を創設します。
そして、松平定信による寛政の改革の学問統制で、朱子学が推奨された事で幕府直轄の学問所へ昇格し、江戸時代通して朱子学が武士の学ぶべき学問として選ばれたのです。
江戸幕府主導で朱子学が官学となると、諸大名や藩校や寺子屋まで朱子学の思想が広まり、朱子学が日本の実践する学問・道徳となっていったのです。
武家・民衆も幼少期から朱子学を学ぶ
武士の家に生まれた男子は、7歳くらいになると父親から学問を学びます。
手本とされるのは儒教の経書である『論語』や『大学』でした。
学問として学ぶと同時に、躾として体で覚えていきました。一通り覚えると朱子学を教える学問所に入学し深く学んでいくことになります。江戸時代、学問を身に着けるのは、武士だけではなく民衆もまた、子供に学問を身に着けさせるために寺子屋に通わせました。
寺子屋は、習字を学ぶことが主体の教育機関でしたが、年齢や立場に合わせて読書や算術も教えていました。民衆の教育機関でありながら、朱子学の基礎も学ぶことが出来ました。
こうして朱子学が日本人の躾となり道徳となって一般民衆にも定着し、幕末期には10万近くの寺子屋が全国にあったと言われ、日本人の学習意欲の高さがわかります。
明治期に来日した外国人は、日本人の識字率の高さに驚いたと言いますが、高かったのは識字率だけではなく、朱子学によって身に着けた道徳意識も高かったのです。江戸時代の250年の間に日本人は生まれながらにして、朱子学の道徳が当たり前のように浸透していったのでした。
朱子学の大本【儒教】とは??
儒教は、中国の孔子を開祖とする思想で、人間が従うべき道徳意識を説いています。
教えの主軸に【五倫(ごりん)】と【五常(ごじょう)】があります。
- 五倫…父子の親・君子の義・夫婦の別・長幼の序・朋友の信の事で、君主や家族との関係の道徳となります。
- 五常…仁・義・礼・智・信で、社会生活の中で人として行うべき基本道徳
この二つが人間社会の身分秩序を支えている自然的なものであると言う思想が儒教です。
これには家族道徳から国家道徳も含んだ教えであり、幕府による武士教育だけではなく、家父長制度や家元制度などに影響を与え、君子の道徳的意義も説いています。
身分制度を押し付けるのではなく、思想・道徳として日本人の精神を支える基礎として儒教が根付いていきました。社会には、身分の秩序があり、それに従う事こそ正しいと言う教えが江戸時代に確立したのです。
武家社会の格式を重んじる制度
武家社会では、個人の序列だけではなく家同士の序列も重視され、格式・家格によって江戸幕府に組み込まれています。
大名は徳川家の血を引く親藩、関ヶ原以前から仕えていた大名を譜代、関ヶ原以降に仕えた大名を外様と分け、殿中での待遇や衣装、江戸屋敷の門構え、行列の仕方など周囲からハッキリとわかるような格差待遇を決めていました。
格差を明確にするのは、権威を振りかざすことではなく、儒教の教えである身分秩序を保つことになります。また、格差待遇を多くの人に見せつけることによって、権威を示し支配体制の維持に繋げました。
明治以降の日本人の道徳教育
明治以降は江戸幕府によって構築された身分制度は廃止されます。
武家も解体されて、武士はいなくなりました。
その後、道徳は学校で教えるべき教科として修身科として教えられていきます。
修身科は明治初期には重要視されていませんでしたが、1890年に教育勅語が発布されると、最重要科目となり忠孝や忠君愛国などの思想が強化されます。
修身科は天皇への忠孝の思想が軸とした絶対的性格を帯びていきました。
江戸時代に庶民に愛された儒教とは程遠い、権力を伴った思想として国民を誘導・洗脳していったのです。結果的には、第二次世界大戦後のGHQによって修身科は廃止されます。
明治期に儒教道徳は廃止されたと書きましたが、日本人が大切にしてきた人を敬う思想が、現在ないとは考えられません。人を敬う儒教道徳は、道徳教科として現在の日本の教育にも根付いています。
儒教と言う意識はなくても、人を敬う美徳を日本人は今でも持っていると思います。
中国の三国時代の後漢政府は、ゴリゴリの儒教政治を行っていました。そのため、礼儀・礼節を重んじ、家柄で政府の重要ポストが決まっていました。
最近は、三国志関連の記事も増やしているので読んでくださいね。