江戸時代の身分制度と人々の暮らし
現代では、世界的に見ても当たり前のように人権が主張されていますが、人権が保障されるようになったのはつい最近のことで、日本でも人権を持たない人達が歴史的に見ても存在しました。
江戸時代は、支配階級である武士を筆頭に農民・商人・職人などの身分によって住む場所などが決められていたとされています。
今回は、そのような江戸時代の身分制度とその人たちの暮らしなどを書いていきたいと思います。
江戸時代の身分制度は士農工商ではない!?
江戸時代の身分制度と言えば士農工商の用語が頭に浮かぶ方は少なくないでしょう。
しかし、近年では士農工商は身分制度を表すものではなく単に職業名を表す用語だと言われるようになっています。元をたどると、中国の四文字熟語で一般民衆という意味なのだそうです。
これを読んで驚いたのは私だけではなないはずで、たしかに私は当時小学校で江戸時代に人々を支配するために士農工商と呼ばれる身分制度を作ったと習っていたからです。
しかし、現在の小学校の社会科の教科書には士農工商の単語が見当たりません。
現在の教科書には以下のように書かれています。
「江戸時代の社会は、支配者である武士をはじめ、百姓や町人など、さまざまな身分の人々によって構成されていました」
「また、百姓や町人とは別に厳しく差別されてきた身分の人もいました。これらの人々は、差別の中でも、農業や手工業を営み、芸能で人々を楽しませ、また治安などをになって、社会を支えました」
東京書籍「新しい社会6」
同じく、明治維新によって江戸時代の身分制度が廃止されたことで四民平等になったと教えられてきました。この四民が士農工商と思い込んでしまったと現在では考えられています。
たしかに武士は支配階級ではありましたが、農工商の間には序列がなく、士農工商という言葉は全国民という程度の言葉でした。そのため、農工商の下の立場と言うとらえ方は根本的に間違っています。
さらに、江戸時代は封建社会でした。差別されない側の身分と思われる武士達も自由に結婚できるとは限りませんし、仕事も選ぶこともできませんでした。
私も含む多くの人が、教科書で江戸時代の身分制度をピラミッド型の士農工商という図式をもとに士農工商を習ったと思います。
しかし近年、研究は進み教科書も大きく変わりました。この研究の結果、武士・農民・町民と3つの区分で身分を分けた方が実情に合っているという事でした。
江戸時代の身分制度と人口割合
実際に江戸時代には身分制度は存在していたとされ、幕府は人々を武士・百姓・町人と区別する制度を定めたとされています。
町人というのは、江戸のような比較的大きな城下町に住む住人と言われています。
百姓とは主に農民で、江戸時代の全人口の80%以上が農民でした。町人たちは大都市に住んでいる商人や職人(大工等)でした。武士や町人は原則として、その家の親から長男に代々受け継がれました。
また、それぞれの身分を勝手に変えることはできませんでした。この身分や職業により住む場所も決まっており、それ以外の場所で済むことは原則できません。
また、身分や職業や家柄などによって、住む場所がほとんど決められており、それ以外の場所に住むことは原則的に出来ませんでした。
身分別の人口割合
江戸時代の総人口: 3200万人
百姓 : 約85%
武士 : 約 7%
町人 : 約 5%
僧侶・公家・えた・ひにん : 約 3%
武士の特権と居住地
武士は江戸時代の支配層の身分で、その頂点に立つのが将軍です。足軽も幕府の役人も将軍も身分的には武士となります。武士の特権として、名字を名乗ったり、刀を持つ事(帯刀)が許されていました。
また、切り捨て御免という特権も与えられており、身分が下のものが武士に対して非礼を働いた場合には切って良いという特権を持っていました。
武士の住む場所は、主に城下町でも城に近いところに住むように定められていました。
町の政治にも関わる町人達
城下町に住む武士階級の消費生活を支えていた商人や職人たちは町人と呼ばれ、全人口の5%ほどでした。特に、町の政治にも関わっていた持家町人と呼ばれる階層は、一定の税金と仕事と引き換えに強い発言権をもっていました。
優れた技術を持つ職人や豊富な資金を持つ商人たちは、武士をも圧倒する面も見せ、独自の町人文化を形成するまでにまりました。
町人には、表通りに家屋を所有し店を構える資本家階級である旦那衆や裏通りの下層町人まで、階級格差があり富裕層は町政や公事にも参加し選挙権や被選挙権も持っていました。
富裕層の社会的役割として、賃貸し長屋をわずかな賃料で店子に貸す習慣がありました。そして、そこから大家を雇い店子からの賃料の徴収や長屋の管理を任せていました。
百姓とその住まい
全人口の8割以上の百姓の大半が農民でしたが、漁業や林業を行うものも含まれています。彼らは主に、城下町より離れたところの農村に住まわされ第一次産業に従事していました。
農民には土地を持つ本百姓と土地を持たない水呑百姓に区別されていました。
百姓は、収穫高の40~50%を年貢として取り立てられ、年代によっては60%も持っていかれることもあったとか。江戸時代通して50%の【五公五民】が多かったようです。
この年貢となる農作物は、主に米でしたが地域によって特産品に代わる事がありました。
年貢の納める場所は、藩が本百姓の中から人選し、その者が【名主】【組頭】【百姓代】などと呼ばれ集めていました。名主のことを=【庄屋】とも言われこちらの方が耳なじみがあるかもしれません。
えた・ひにんについて
江戸時代は、武士・百姓・町人のほかに【えた・ひにん】という身分が定められていました。
【えた】とは、穢れ(けがれ)から来ていると言われ、その名の通り穢れた職業についている人の事を指していると言われています。例えば、死んでいる動物の皮を加工している者や祭事に穢れを落とす職業、罪人を処刑するものなど様々な仕事がありました。
一方で【ひにん】は、戦争に負けた側の人々や罪人や奴隷としてさらわれた人々が主な構成者で、ひにん間で生まれた人も該当しました。西日本が歴史的に古い事からその構成者も多く複雑だったとされています。
えた・ひにんの人々は、そのため差別的なことを受けており、一般人との結婚が許されず住む地域も限定されていました。
江戸時代の身分制度の目的と背景
この時代に身分制度を設けた理由として、将軍や藩主と言った武士階級が一般の町人たちを管理しやすくするためだと言われています。また、徳川幕府は、過去の武家政権の失敗を反面教師にしていたといいます。
その失敗とは、鎌倉時代の【元寇】と室町時代の【応仁の乱】です。
元寇では、元が日本に攻めてきて御家人たちの活躍で見事撃退したのですが、その後の恩賞を与えることができずに不満が爆発し鎌倉幕府は滅びる要因となりました。
室町時代の応仁の乱では、将軍の権威が失墜し、大名たちの統制が取れず各地で一揆なども頻発していました。最終的には、各地の大名が力を持ち始め1573年に織田信長によって室町幕府は滅ぼされています。
この過去の武家政権の失敗を参考に、江戸幕府では大名・農民、諸外国に対した政策を行うことに力を入れました。
江戸幕府の主な対策
これらの過去の幕府の失敗に対して気をつけていた江戸幕府は、様々な対策をおこなっていきます。
- 対外政策 ⇒ 鎖国
- 大名政策 ⇒ 武家諸法度
- 民衆政策 ⇒ 身分制度の制定
この身分制度こそが、農民たちを統制するための政策でした。人口割合で圧倒的に多い農民たちが団結して一揆など起こされると幕府としてはほっていはおけません。そこで、百姓や町人たちの下にえた・ひにんなどの最下層を作ることによって、農民たちの不満をそらす事にしたようです。
慶安の御触書
さらに、農民たちの生活を統制するためにお触書を出しました。
法律を守り、代官や名主の事を尊敬すること
酒や茶を買って飲まないこと。妻子も同じ
農民たちは雑穀を食べ米を多く食べないこと
農民は麻と木綿のほか着てはいけない
早寝早起きをし、朝は草むしり、昼は田畑を耕し夜は縄を縫い仕事に励むこと
男は農耕、女房は機織りに励み夜なべして働くこと…
煙草を吸わない
内容的には、百姓は質素倹約をし夜なべして働けと、現代では信じられないくらいの超絶ブラックぶりです。
キリスト教の広がりと鎖国政策
こうして、幕府は武士や町人・百姓の統制にひと段落つきますが、この制度が覆される出来事が日本で起こり始めました。
それが、キリスト教の広がりでした。
キリスト教の教えでは人類は皆平等のため、この教えが広まると身分制度自体が危ぶまれると幕府は考えました。そこで、キリスト教を禁止し、儒学を奨励していきますが、すでにキリスト教が広まっており、キリシタン大名と呼ばれる人物も現れ始めました。
そこで、キリスト教を取り締まるために、1612年に幕府は幕僚達に対してキリスト教禁止令を出し、それでも信仰を捨てない者を罰しました。
また、長崎では絵踏みや寺請制度を設けてキリスト教を弾圧していきました。徳川家光は、1635年に、日本人の渡航を禁止し、朱印船貿易も停止しました。長崎に住んでいたポルトガル人を出島に移し、日本人との交流を制限しました。
こうした、キリスト教への迫害と厳しい年貢の取り立てにより、島原や天草地方の民衆が天草四郎を大将に一揆を起こした島原の乱が起こります。この乱の後、幕府はポルトガル人を国外に追放し、貿易を中国船とオランダ船のみと制限しました。
こうした、外国との交流を制限した政策を鎖国と言います。
この鎖国政策で日本は、独自の文化を作り歩んでいくことになります。