安土桃山時代

徳川家康はどうして江戸を本拠地として選んだのか??

歴ブロ

1590年に関東の北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、徳川家康を関東地方にを治めるように命じました。元々、家康の本領は三河で岡崎城を拠点としていましたが、長年の努力により遠江・駿河・甲斐を治める大大名になっていました。

豊臣秀吉の命により、徳川家康は慣れ親しんだ土地を離れ、東の端に転封されることになります。

織田信長の死後、1584年に家康と秀吉は小牧・長久手の戦いで一戦を交え、家康優勢に見えましたが、秀吉の政治的大逆転により家康が屈する事になりました。そのため、関東転封劇は、秀吉が家康を遠ざけるためと考えられています。※諸説あり

 

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豊臣秀吉の命で遠隔地に飛ばされた大名

家康と同じように秀吉の命で遠隔地へ飛ばされた大名に佐々成政と蒲生氏郷がいます。

佐々成政は、秀吉の元同僚で柴田勝家の与力として北陸地方を転戦していました。本能寺の変後は、そのまま柴田勝家に従いますが、勝家が秀吉に滅ぼされると一時は秀吉に臣従しますが、小牧・長久手の戦いが始まると家康と通じ再び秀吉に背くことに…

徳川家康が秀吉に屈すると、佐々成政は秀吉の裁きで一命はとりとめたものの、ほとんどの領地を没収され、大坂に移住させられ御伽衆として秀吉に仕えました。

1587年に秀吉が九州征伐を行うと、成政は肥後に転封を命じられるのですが、地元の国衆が反乱を起こし、その責任を秀吉に問われ自害に追い込まれました。この佐々成政の例は、秀吉に逆らった為に僻地に飛ばされ、排除されたと考えられています。

 

一方で蒲生氏郷は、織田家に仕え、秀吉に従った頃に頭角を現し、伊勢松坂を治め将来を有望視されました。北条討伐の後は会津に転封を命じられ、その5年後に若くして病死します。この転封は、秀吉が氏郷の力量を恐れたと考えられることが多いようです。

 

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関東の本拠地を江戸に決めた理由

転封の際に家康は、関東の本拠地を決める事になりました。

その候補地には、すでに都市として完成されていた小田原と鎌倉もありました。しかし、家康が選んだのは、当時は辺ぴで田舎町でしかなかった江戸でした。

では、どうして家康は、大都市・小田原、鎌倉ではなく政治の中心大坂より更に東の江戸に本拠地を置くことになったのでしょうか?

 

それは、転封の際に秀吉からこのような言葉にあったようで…

 

豊臣秀吉
豊臣秀吉
貴殿に関東一帯をあげるから、三河・遠江等の旧領は召し上げるね。あと、小田原は、あんたでなくて家臣に守らせ、江戸に本拠地を置くといいよ~

 

徳川家康
徳川家康
ええっ~~!! まじすっか!?            

江戸は、超~~田舎っすよ~!!なんもないじゃん!!

 

この頃の江戸と言えば、ヨシの生い茂る低湿地帯で、わずかに寒漁村が点在するだけの未開の地でした。※左はヨシ(アシ)の写真

しかし、江戸が寒魚村だったと言うのは、家康を持ち上げるための創作で、この頃すでに一定規模の街はあったようですが、まだまだ開発の余地はあったのは間違いないようです。

さらに、政治・経済の中心である京都・大坂から遠ざかるばかりで、これを聞いた家康は絶望を感じたに違いありません。

しかし、この秀吉の言葉は、強制するものではなく、家康には小田原や鎌倉を本拠地にする選択肢はあったのだと言います。そこをあえて家康は、秀吉の言う通りに江戸に本拠地を置くことにしたのです。

 

では、本題の家康は、どうし江戸を本拠地に決めたのでしょうか??

秀吉の関東転封が命じられる前の家康の石高は、三河・遠江・駿河・信濃・甲斐の五か国を有する150万石の大大名でした。それを召し上げ、北条氏の旧領、武蔵・伊豆・相模・上野、上総、下総、下野、常陸の関東8国の250万石で大幅加増になるのですが、中央から遠ざけられるので徳川家の影響力低下は避けられないと考えられました。

 

小田原は、北条氏の本拠地として長く繁栄し、先の小田原攻めの際にも城自体ほとんど無傷の状態でした。

しかし、徳川家と隣接していた地域柄、家康アレルギーが強く、前君主も善政を敷いていたので、治めるのが非常に難しい地域でもありました。

※写真は小田原城

一方、鎌倉も、かつては幕府が置かれており武士にとっては、『聖地』の由緒正しい場所でしたが、三方山に囲まれ、縄文時代~弥生時代の遺跡群もあり奈良時代からの建造物も多くあることから、都市の再開発がやりづらかったのかもしれませんね。※個人的な考え方です。

 

徳川家臣一同は、小田原か鎌倉に本拠地を置くだろうと誰もが思っていました。しかし、蓋を開けてみればまさかの江戸、家臣達は非常に落胆したに違いありません。

前述したように、当時の江戸は、湿地帯が多くそんな土地に新しく城や町を作るのは、非常に難しいと誰もが思っていたのです。しかし、山に囲まれ敵に攻め込まれにくい小田原や鎌倉の方が逆に、都市の発展を阻害させると家康は考えたようです。

その反面、関東平野の真ん中に位置する江戸は、海に面しているうえに関東に流れるいくつもの川の終着点でもありました。物資の流通が都市の発展に直結すると考えていた家康は、この江戸の地が物流に最適だと判断したのです。

江戸の河川は、度々氾濫をしており厄介だったのですが、この問題をクリアーすれば勝算があると考えました。

 

江戸の街作りと江戸文化の誕生

海が近い江戸の街は、井戸を掘っても真水が出ず、飲み水の確保が優先されました。

家康は、大久保忠行に、江戸の上水工事を命じます。

大久保は江戸の中の水源でも特に質の良い「井の頭池」に目を付け、この池から水路を造り、江戸城に水が流れるようにしました。これが、江戸に初めて造られた水道で、家康の期待に応えるため、大久保はこの大工事をわずか3ヵ月で完成させたといわれています。

並行して、家康は粗末であった江戸城の改築工事に着手しました。必要な物資は、城から江戸湾まで水路を作り利用しました。

 

城下町を作るのには、広大な敷地が必要で、今の皇居まで食い込んでいた海を駿河台の南端の神田山を切り崩して埋め立て、敷地を作りました。この時に埋め立てられたのが、現在の日比谷公園や新橋周辺でした。

1594年には、河川の氾濫で洪水被害をもたらしていた利根川の付け替え工事に乗り出します。江戸湾に流れ込んだ利根川の流れを、太平洋に面した銚子へと移すと言う途方もない一大事業で、31年もの歳月がかかりました。

この工事により、江戸における水害工事を防ぎ、湿地帯を農作地に適した土地に変わりました。また、江戸と太平洋が直結した事で、利根川の水運を大動脈として機能させることに成功しました。

 

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また、街に人々を呼び込むために、現在の大手町や丸の内がある地域に住宅街を作り、そこへ各地域から医師などの生活に欠かせない役割を持つ人を呼び寄せ、街のイメージアップも図りました。

こうした家康の努力が功を奏し、江戸には徐々に人が集まるようになり、家賃の安い集合住宅や裏長屋が誕生します。そこでは6畳程度の部屋に各家族が住み、住宅やトイレ、ごみ収集所などを共同で使っていました。

これは、江戸ならではの独自の住宅文化で、公衆浴場である銭湯が生まれたのもこの時代だったといわれています。

 

こうして、連帯意識が養われていった住人たちは、『江戸っ子』と呼ばれ、地域特有の文化が花咲いていきます。

中でも、食文化は発展し、『寿司』や『てんぷら』と言った食事から、佃島の漁師たちが考えた『佃煮』も名物となりました。

 

この江戸転封は、徳川家康に思わぬプラスをもたらしました。

はるか東の関東と言うことで、朝鮮出兵に兵を出さなくてよくなり、結果的に他の大名より国力の温存が図れ、秀吉死後の政権争いに大きな影響を与える事が出来ました。

そして、1600年に関ケ原の戦いに勝利すると、諸大名に河川の改修や上下水道、道路、運河建設などのインフラ工事を大名持ちで命じました。これが【天下普請】と言われています。

参勤交代同様、これには諸大名の経済力を削ぐ目的があり、特に外様大名などは、家康に忠誠心を示すために、死に物狂いで工事に当たったようです。こうして、江戸の都市化が着々と進み、1616年に徳川家康は豊臣家の滅亡を見届けその生涯を閉じました。

 

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現在の東京に繋がる江戸の街

家康死後も、江戸の街の成長は続き、現在の首都・東京へとつながっていきます。

江戸幕府が開かれ400年後の現代の東京の街の土台を作ったのは、間違いなく江戸幕府・初代将軍・徳川家康でしょう。今でこそ世界的な大都市となった東京が、家康が初めて目にしたときは荒れた湿地帯だったことなど、誰が想像できるでしょうか?

この家康から始まった、街作りの魂は、これからも受け継がれていく事でしょう。

 

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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