織田信長と仲良しだった近衛前久は行動力のある関白だった!?
戦国時代は、武家を中心に日本が動いていたので、逸話が多くなるのは必然の事です。
家の生き残りをかけた戦いは、なにも武家だけに限らず【公家】の世界でもあり、いかに名誉を保ちつつ、武力行使せずに家を守るかに知恵を巡らせていました。
今回は、たびたび出てくる五摂家の一つ【近衛家】の近衛前久について書いてみたいと思います。
近衛前久の家柄
1536年に藤原北家の流れを汲む、五摂家の一つ近衛家の長男として生まれた前久は元服後、12代将軍・足利義晴から【晴】の字を賜り【晴嗣】を名乗るようになります。
1541年には、従三位に叙せられ公卿に列すると、1547年に内大臣、1553年には右大臣、1554年には関白左大臣となり藤原長者に就任しました。さらに、次の年には従一位に昇叙し【晴】の字をあっさりと捨て【前嗣】と名乗ります。
公家としては、19歳で超スピード出世を果たした前久は、関白と言う地位でありながら自ら北陸や関東まで足を運び上杉謙信の関東進出の手助けをしています。
臣下のトップに君臨しておきながら、自分の足で現地へ赴くフットワーク軽さや、将軍からもらった【晴】の字をあっさりと捨てる度胸の良さは、他の公家と比べると面白い人物だったようです。
将軍暗殺を疑われ朝廷を追放される
上杉謙信と個人的な交流を深めながら、謙信の関東進出の手伝いをするなど公家らしからぬ、行動がほかの武家に信頼された要因かもしれませんね。しかし、謙信の関東平定は中々上手くいかず京へ戻ると、永禄の変がおこり足利義輝が暗殺されていました。
しかも、暗殺の実行犯である松永久秀が時期将軍の後押しを前久に頼みに来る始末でしたが、時勢上逆らう事も出来ず渋々、三好一派と手を組むことになりました。
ところが、1568年に織田信長が足利義昭を奉じで、上京してきました。
その時義昭が【永禄の変】は三好一派はもちろん、近衛前久も一枚かんでいると疑い、前任関白だった二条晴良も同調したため、将軍となった義昭は前久を朝廷から追放をしました。
朝廷から追い出され、関白の地位を失った前久は、縁戚の赤井直正や本願寺に身を寄せる事になりました。
こうして15代将軍・足利義昭と対立色を強めますが、前久は織田信長とは対立する気はありませんでした。義昭と信長との仲が険悪になり信長包囲網が形成される頃には本願寺から出ていきます。この辺りは、先見の明があったのでしょうか、前久のすごいところです。
年が近いからか、前久と信長は仲が良く共に鷹狩りを趣味としていた事で公私ともに親しくなることが出来ましした。鷹狩りの成果を互いに自慢し合っていたそうです。
光秀と仲が良いために本能寺の疑いをかけられ…
こうして織田信長の信頼を経た前久は、その顔の広さで九州の大名や本願寺との橋渡し役を任されることになります。特に本願寺との和睦を見事取りまとめたことで、信長からは【私の天下になったら近衛家に一国を与えよう】と言われました。
その後も、甲州討伐に同行したりと、もう信長と前久は親友であり盟友・戦友でとても深い仲になっていました。
しかし、それも長くは続かず1582年に起きたのが本能寺の変――。
仲良しこよしの信長を失ったショックが大きかったのか、前久は髪を落として仏門に入りました。
ところが、羽柴秀吉や織田信孝から【近衛家の家から明智軍が発砲したようだ】と疑いをかけられ、徳川家康の仲介で誤解を解いてもらう事になりました。しかも、自分の足で浜松の地まで行ってお願いしていることから、フットワークの軽さはこの頃でも変わっていなかったようです。
しかし、小牧・長久手の戦いで秀吉と家康が争うと、奈良に身を寄せ和議が成立するのを見計らって帰京しました。
隠居後の近衛前久
1587年以降は、足利将軍家ゆかりの慈照寺東求堂を別荘として、静かに隠居暮らしをしていたそうです。一つ目立った動きとしては、信長の七回忌があります。
織田信長を悼んで「なむあみだぶ(ふ)」の一字ずつで始まる六首の歌を詠んだのは有名な話です。
前久から信長への追悼歌
- (な)嘆きても 名残つきせぬ 涙かな なお慕わるる 亡きが面影
- (む)睦まじき 昔の人や 向かうらむ むなしき空の むらさきの雲
- (あ)あだし世の 哀れ思えば 明け暮れに 雨か涙か あまる衣手
- (み)見てもなお みまくほしきは みのこして 峰に隠るる 短夜の月
- (た)尋ねても 魂(たま)のありかは 玉ゆらも たもとの露に 誰か宿さむ
- (ふ)更くる夜の 臥所あれつつ 吹く風に 再び見えぬ ふるあとの夢
短歌の文章の初めがすべて同じ文字で始まるのがなんとも技巧的な歌ですが、親しい友の死を嘆く、前久の素直な心情が詠まれている感じがします。
前久は藤原氏嫡流の五摂家らしく、和歌・連歌に優れた才能を発揮しました。
更に、馬術や鷹狩りにも精通しており、「龍山公鷹百首」という鷹狩りの専門的な解説書を兼ねた歌集も執筆し、秀吉と家康に写本を与えています。また、江戸時代に入ってから、親交のあった津軽家の姫が無くなった際にも【なむあみだぶ】で始まる歌を詠んだと言われています。
そのことから、近衛前久はかなり情の厚い人物だったのかもしれません。