鎌倉時代

美男子の義経と醜い義経 ~二人の源義経~

歴ブロ

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平家を倒し、鎌倉の地に幕府を開いた源頼朝の弟・義経は、色々な逸話のある人物です。

源頼朝の平氏滅亡から鎌倉幕府設立、謎の死までの53年の生涯 鎌倉幕府を開いた人物として日本史では、必ずと言っていいほど教わる源頼朝は、武家政権のパイオニアとしていかにも立派な人物のイメージ...
鎌倉殿の弟・源義経がどうして最後は頼朝に討たれることになったのか?? 鎌倉殿の13人でも源頼経と頼朝感動の再開を果たした場面がありましたが、頼朝が鎌倉殿と呼ばれ始めると徐々に、その確執の片りんが見え...

その記述は様々で、美男子と言うものと醜いと言うものとで評価は分かれています。

 

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二人の義経

源平盛衰記】と言う書物では、【色白で容姿端麗、動作優雅】と絶賛されており、【義経記】でも【眉目秀麗にして世に類なし】と記されています。さらに、義経を襲った盗賊たちが義経の事を【楊貴妃】と思ったとも書かれていて、義経は多くの女性にもて誰もが憧れる存在とされています。

一方で【平家物語】では、【平家の公達と比べればその一番の屑より劣る】と記され、【チビで出っ歯】と厳しく描写されています。【幸若舞曲】でも、【サルの眼で反っ歯に赤ひげ】と手厳しい評価です。

 

そんな両極端な評価の中で、一つの仮説が立てられました。

この時代には、源頼朝の弟である義経と別の源義経が存在していました。

その義経とは、山本義経と言う人物で【源義光】の流れをくむ【近江源氏】で、近江長浜にある山本山城の城主で非常に戦上手な武将として知られた人物でした。彼も立派な源氏の血筋であり本名は【源義経】と本家義経と同姓同名でした。

山本義経は、宇治川の戦い木曽義仲の軍勢に加わり、源義経と刃を交えました。この戦いで、木曽義仲は法皇幽閉に始まる一連の行為により人望を失い、義仲につき従う者が離れ、戦いに敗れてしまいます。

木曽義仲
木曽義仲【源義仲】勝者になれず源頼朝に討たれた武将の生涯 木曽(源)義仲と言うと、【粗野な田舎者】【戦好き】【女性好き】と言った三拍子の人物像を思い描く事が多いのは、平家物語で好戦的で怒...

一方の木曽義仲の軍勢に加わった山本義経は、この戦い以降の公式の記録が無く、消息不明となっています。

宇治川の戦い以降の源義経の活躍は皆さんの知るところですが、合戦経験がほとんどなかった源義経がどうして屋島や壇ノ浦の戦いで活躍できたのでしょうか?

ここで仮説が立てられおり、宇治川の戦い後、木曽義仲の元を離れた山本義経が、何らかの形で源義経軍勢に加わったのではないかと考えられています。琵琶湖での水上戦経験を持つ山本が義経の軍師的役割を持っていたとしたら、戦の経験不足だった源義経の活躍の合点がいきます。

 

奥州から逃げたのも源義経ではなく山本義経だった!?

兄である源頼朝との溝が深まり、奥州の藤原秀衡のもとに身を寄せていた源義経でしたが、秀衡の死後、子である泰衡に襲われて源義経は平泉の衣川の館で自刃します。

この時、義経は逃亡して大陸に渡り、【チンギスハン】になったと言う説や蝦夷地(北海道)に渡ったとされる伝承もあります。北海道には、約110箇所で義経の伝承が残されているそうです。

その他にも、東北各地で義経にまつわる伝承が残っていると言います。

しかし、もし源義経が奥州藤原氏から上手く逃げられたとしても、幕府の威令が全国に行き届いた後では、さすがの義経も逃げ切れるものではなく、やはり奥州平泉で自刃したと考えるのが普通です。

 

奥州藤原氏の最盛期を築いた藤原秀衡は源義経を養育していた 源義経とも深いかかわりがある奥州藤原氏の藤原秀衡。死の直前、3人の息子に義経の指示に従い鎌倉に備えよと遺言を残したほどでした。 ...

 

そうなると、どうして東北各地に義経の伝承が残っているのでしょうか?

そこで出てくるのが山本義経です。

奥州藤原氏から逃げ出したのが源義経ではなく、山本義経だとしたらつじつまが合いませんか?

その後の義経による東北各地に痕跡を残した説明も出来ますし、山本義経であれば源義経ではないので、幕府の捜索はスルーされることでしょう。

 

もう一つの理由として、東国には山本の頼る人物が居ました。

それが、源義業が始祖の佐竹家で、当主・佐竹秀義は頼朝と対立して奥州へ逃亡をしていました。その後、源頼朝に許され、奥州合戦で武功を挙げた佐竹秀義は、改めて御家人として認められています。

 

御家人とは??鎌倉時代に始まった新制度を見てみよう 御恩と奉公を将軍と御家人の間で結んだ制度があったことは有名ですが、そもそも『御家人』自体が鎌倉時代になって初めて登場した名称。 ...

 

藤原氏から逃れて奥州に潜んでいた山本が、藤原氏討伐で奥州に居た佐竹秀義を頼ることは十分に考えられますし、武芸に秀でていた山本が秀義に迎え入れられた可能性は高いと思われます。

もしかしたら、東北各地を転々としたのち、蝦夷地に渡り伝承通りにアイヌの神様になったかもしれません。

元々、伝承や作り話が多い源義経ですから、今回書いたことが絶対ではありません。

これらは全て仮説にすぎなく、これもまた伝承の一つして楽しんでいただけたらと思います。

 

https://rekisi-daisuki.com/entry/2015-05-15-094139

 

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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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