平安時代

治承三年の政変までの流れと後白河上皇と平清盛の関係

歴ブロ

平氏が滅亡したとして有名な壇ノ浦の戦いは、源平の間で富士川の戦いや倶利伽羅峠の戦いなど何度も起こった争乱の果てに起こったものです。これらの戦いは総称して治承・寿永の乱と呼ばれています。治承・寿永の乱はクーデターを起こした平清盛ら平氏を討とうと始まったのがきっかけです。

クーデターを起こさなければならないほど後白河院と平清盛の仲が悪化したのは延暦寺に対する政治方針の違いがきっかけです。後白河院は延暦寺を介して経済的ダメージを受け、平清盛は逆に経済的な恩恵を受けていました。そのため後白河院は延暦寺に厳しめの、清盛は甘めの方針となっています。

今回は平氏らがクーデター(=治承三年の政変)を起こすまでの流れを分かりやすくまとめていきたいと思います。

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延暦寺と後白河院、平清盛の関係

ということで、延暦寺と後白河院・平清盛との関係を最初に見ていきましょう。

8世紀には既に始まっていた貨幣経済でしたが、清盛が活躍する前の時代には銅不足がたたって物品経済に逆戻りしているという状況でした。

ところが、農業生産量の増加や治安悪化により物品経済では限界が見え始めます。そこで宋の銅銭に目をつけ、貨幣として流通させたのが清盛です。宋銭を大量に輸入する事としたのです。

銅銭を輸入した後の後白河院清盛の関係を簡単に表すと以下のようになります。

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仲介役をしていたのが清盛の妻の妹滋子建春門院だったのですが、彼女の死を境に表面化していなかった後白河院清盛、他の貴族達との関係が一気に崩れていきます。

結果、貴族たちは平氏打倒を計画するまでに至ります。これが所謂1177年に起きた鹿ヶ谷の陰謀です。

鹿ケ谷の陰謀のきっかけになったのは山門強訴と呼ばれる強訴がきっかけです。後白河院が平氏に延暦寺の討伐の命を下したのです。

れきぴよ
れきぴよ

院近臣を一掃するためあるいは延暦寺の討伐を回避するための清盛の自作自演説もあります。

鹿ケ谷の陰謀でうやむやになった延暦寺の討伐ですが、仏罰が恐れられていた時代に平氏に延暦寺追討を命じたことが後白河院に対する清盛らの感情を悪化させたと言われています。

高倉天皇と徳子の間に第一皇子が誕生

後白河院平滋子の間に誕生した高倉天皇と政略結婚したのが清盛の娘徳子。1171年のことでした。この頃は後白河院の寵姫滋子が存命で、高倉天皇の治世を案じて入内を薦めたそうです。

しばらく子を授からなかった高倉天皇徳子でしたが、1178年11月には念願の皇子が誕生、すぐ立太子します。皇太子の周囲は平家で固められ院近臣は排除。これが後白河院の警戒を強めることになります。

後白河院が平氏を警戒して行ったこと

こうした平清盛の行動に後白河上皇が警戒し、平氏に対して以下の事を行いました。

1)摂関家領横領事件でうやむやになっていた摂関家領を後白河院が接収

清盛には娘が何人かいます。そのうち一人は後白河院と滋子の間の子・高倉天皇(六条天皇の次代天皇)の元に嫁いだ徳子、別の一人は摂政の近衛基実の元に嫁いだ盛子です。ところが、近衛基実は二条天皇の崩御後に後を追うように薨去。まだ幼い(というか赤ちゃん)六条天皇の摂政として支えていこうという時期でした。

近衛基実の息子もまだ幼く摂政を務める実力はありません。弟が摂政として跡を継ぐ事になったのですが・・・

本来なら弟に基実の遺産が行くはずが「本来の跡取りは基実の息子。弟(現・摂政)は息子の中継ぎでしかない」の立場をとった清盛達。摂関家の家人で平家と親しい者が、1166年に基実の遺産を盛子に相続するよう画策し、実際に盛子が一手に遺産を引き受けます。そうは言っても盛子はまだ子供だったので実際の管理は清盛が行いました。この一件は摂関家領の横領と呼ばれています。

憲仁擁立を目指していた後白河院が平氏との連携を模索していたため、 摂関家領横領について後白河院はスルー。もちろん、息子の即位を阻む二条天皇・六条天皇を支える摂関家を衰退させる狙いもありました。

この13年後の1179年のこと。基実の妻盛子が若くして死去。以前は情勢が情勢だったために平氏の好きなようにさせていた後白河院。ですが、情勢が変わり政治スタンスの違いで清盛との対立を深めていたこともあって氏長者領のみを基実の息子に渡し、残りをすべて自身の管理下へと移したのです。

2)平重盛の知行国を没収
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清盛の嫡男で保元・平治の乱でも活躍しました。平氏の中で最も後白河院に近い存在だったと言われています。

清盛の後継者として期待されましたが、鹿ケ谷の陰謀での逮捕者の娘を正妻にしており、義父の処罰軽減を清盛に促すものの最終的に義父が殺害され面目丸潰れに。疎遠になり始めた後白河院との関係改善を期待しての処罰軽減要求でした。

れきぴよ
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清盛側には重盛が後白河院と近い立ち位置のため『重盛を無力化』させる意図があったとも言われている

この事件をきっかけに重盛は表舞台にはあまり立たなくなり、1178年には病で臥せがちとなります。そして7月の終わりついに死去。

この重盛の知行国・越前(現・福井県の辺り)を後白河院は没収。 越前は北陸道の中でも随一の大国で、本来ならば重盛の息子の維盛が継承するはずの国でした。後白河院に長年仕えた重盛に対するかなり冷淡な仕打ちと言えます。

3)摂関家の故・近衛基実の嫡男を差し置いて基房の嫡男を優遇

清盛は基実の嫡男基通の元にも自分の娘を嫁がせていました。当時の関白松殿基房はあくまで中継ぎという形だったはずです。それを基通の・・・まだ8歳の嫡男を位につかせた人事は見事に清盛の神経を逆撫でさせることになります。

治承三年の政変の発生

後白河院からの数々の挑発の結果、清盛は1179年11月治承三年の政変(クーデター)を起こします。重盛の知行国没収や摂関家の人事から約一か月後のことでした。

清盛は軍勢を率いて上洛し、人事を掌握。反平氏の院近臣達の排除に成功します。摂関家の人事でも基房らを解官させ、基通を関白に任命することに。肝心の後白河院は鳥羽殿へ幽閉させています。

院近臣らは逮捕され、所領没収。後白河院の第三皇子以仁王も同様に所領を没収されており、これが原因で以仁王の挙兵に繋がります(源平合戦に通じていくので別の記事で書かせてもらいます)

クーデターが発生して3か月後の1180年2月。高倉天皇は息子に天皇の位を譲位。安徳天皇が誕生し、平氏の強い影響下で高倉院政が開始することになりました。さらに、平氏の知行国が倍近くに激増したことで全国各地で国衙権力を巡る争いが一触即発の事態となっていきます。

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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