戦国時代

尾張守護大名斯波氏と守護代織田家の関係

歴ブロ
f:id:miumaga:20161108114115j:plain

以前、織田信長の記事を書いた時、織田と名前のつく人物がたくさん出てきて、誰が誰だかわからなくなったので今日は、織田家について調べましたので書いていきます。

織田氏はもともと、尾張の守護大名斯波(しば)氏の家臣の家柄です。

尾張守護斯波氏のもと、その守護代として清須城にて尾張の国を統治していました。

織田氏は斯波氏の代理として尾張を統治していたのです。

では、尾張の国の歴史を見ながら斯波家と織田家の関係を見ていきましょう。

スポンサーリンク

尾張国守護大名・斯波氏と守護代

斯波氏は足利将軍の有力一門の畠山・細川に並ぶ管領に命じられるほどの守護大名です。1400年頃、斯波義将は越前・越中の守護大名でした。息子の斯波義重が尾張守護に着任すると、父義将から越前の守護職を譲られ兼任することになります。最終的には尾張・遠江・越前の守護として戦国時代に至るまで約150年間斯波氏の領国となります。

この時、斯波氏の家臣であった甲斐氏は越前と遠江の守護代に、織田氏は尾張の守護代としてそれぞれの地に赴き統治をしました。

尾張守護代を代々世襲してきた織田宗家は、代々伊勢守と称していたので主君である斯波氏とともに京にて生活をしていました。そのため、尾張には守護代の代理として、代々大和守を称する一族を配置して統治をしていました。

やがて応仁の乱が始まると、東の大和守家と西の伊勢守家が対立します。

  • 1467年 応仁の乱が始まる 東の大和守織田家と伊勢守織田家が対立 
  • 1479年   幕府の介入によりその対立は終結の時を迎える
  • 1483年 斯波義寛が京から清須へ入城
  • 1494年 美濃守護 土岐市の家督争いが起きる

応仁の乱終結後、1479年に幕府の介入により大和守家と伊勢守家の対立が終結します。その時に、尾張上四郡【丹羽、葉栗、中島、春日井】を伊勢守家、尾張下四郡【愛知、知多、海東、海西】を大和守家を統治するという事で和睦します。

1483年に斯波義寛が京から清須へ入城して、守護斯波義寛守護代織田敏定(大和守)で落ち着くことになり、ひとまず一連の騒動は終結しました。

しかし、1494年に美濃守護の土岐氏の家督争いが起きると、伊勢守家織田寛広斎藤妙純に付き、石丸利光織田敏定(大和守)が付き再び対立することになります。

この抗争で、再び尾張の情勢が乱れることになります。

そのすきをついて駿河守護今川氏の家臣北条早雲が遠江と尾張への侵攻をします。

これをきっかけに、斯波氏は今川氏と抗争状態になっていきます。

この戦いで、美濃の家督争いで斎藤妙純が戦死をしてしまったので、後ろ盾を失った伊勢守織田家は急速に力を失っていくことになります。

今川の侵攻で斯波氏は、遠江奪還を掲げ度々遠征を行うことになります。それに異を唱えたのが、当時の守護代・織田達定で斯波氏に反旗を翻すも返り討ちにあいます。

織田達定のクーデターを打ち返した守護斯波義達は、再び今川へ遠征するも決定的な負けを期して捕虜になります。守護斯波義達が捕虜になり、尾張守護を失脚してしまった事で、わずか3歳の斯波義統が跡を継ぐことになり、ここで斯波氏の権威が失墜していくことになります。

織田弾正忠家の台頭

その中で台頭してきたのが、清須大和守織田家の家老一族の弾正忠家 織田良信、信定親子です。(織田信長の曾祖父と祖父)

織田良信親子は、海東部に居城を構え交易を押さえて、海西部も侵略して勝幡城を築城しています。

  • 1527年 織田信定が織田信秀に家督を譲る
  • 1532年 信秀が今川氏豊の那古野城を奪う
  • 1534年 織田信長誕生
  • 1542年 三河守に任ぜられる
  • 1547年 美濃の斎藤道三を攻める
  • 1548年 犬山城織田信清を服従させる

織田信秀今川氏豊から那古野城を奪った頃に信長が誕生します。

那古野を奪ってから信秀は京都に上洛して朝廷に献金をして、従五位下備後守になります。さらに当時の13代将軍足利義輝に拝謁も果たしています。

信秀はさらに那古野城から勝幡城に居を移し、近場の商業都市津島や熱田などの経済流通拠点を支配して、経済力を蓄えていきました。

織田信長の父というイメージが先行する信秀ですが、自身も知勇に優れた武将であり【尾張の虎】の異名がありました。

うつけと呼ばれた信長を後継者と言い続けていたところを見ると、親子関係はとても良かったと推測されます。

こうして織田信秀は、織田弾正忠家の基礎を作っていき、主家の大和守家の主従関係を一応保ちながら、地位や権威は主家やその主君である尾張守護斯波家よりも上回ることになります。

織田信長の誕生

織田弾正忠家の勢力は、主君である清須大和守織田家守護代織田信友より力を持っていました。しかし、信秀が病死すると、織田信友は弾正織田家の家督を弟の信行に継がせて実権を握ろうと信長と対立し、信長暗殺計画を企てます。しかし、信友の傀儡となっていた守護斯波義統が計画を密告します。これにより、信友は斯波義統を殺害します。

斯波義統の嫡男義銀は、信長に協力を求め、織田信友を討ち滅ぼし、織田大和守家は滅びることになります。こうして、信長は居城を那古野から清須に移し名実と共に織田家の頭領となりました。

その後の流れは、別記事に信長について書いてありますので参考にしてみてください。

スポンサーリンク
ABOUT ME
歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
記事URLをコピーしました