歴史コラム

徳川家康はどうして260年続く天下泰平の基礎を作ることが出来たのか?

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織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3人は戦国時代と言う怒涛の時代を生き抜きました。

そして、最終的には徳川家康が天下をとり260年続く江戸幕府を開くことが出来ました。信長、秀吉にもできなかった安定的な政権をどうして家康は実現することが出来たのでしょうか?

今日は、なぜ家康が天下泰平を築くことが出来たのか書いてみたいと思います。

信長は人材を大切にしなかった事による【家臣の裏切り】

当時、戦国大名が一番恐れていたのは【家臣の裏切り】です。親兄弟でさえ、いつ裏切られるかわからない下剋上の時代、戦国大名たちは家臣にとても気を使ってました。

そんな中、徳川家康は【古くからの信頼できる家臣】が多かったのが挙げられます。

織田家は、元々古くから尾張を支配していたわけでないので、信頼できる譜代の家臣が少なかった。そのため、勢力を拡大しつつ新しい配下を増やしていきました。

実際、尾張を統一する過程で、弟の裏切りが何度もあり粛清したりと、家臣の統制に苦労をしています。

 

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信長の革新的なアイディアとカリスマ性で新しい家臣たちもしばらくは上手く回っていました。しかし、天下が見えてくると比叡山焼き討ち等の残虐性が見えるようになり、荒木村重などの謀反が起きてしまいます。

ここで、なぜ謀反が起きたのかを検討して、行動を改めればよかったのですが、その後も林秀貞や佐久間信盛などの古参の家臣を追放して行きます。その結果、明智光秀による本能寺の変が起こってしまうのです。

諸説ありますが、人材(家臣)を大事にしなかったことが本能寺の変に繋がったのではないかと思います。

豊臣秀吉は身内も信用しなかった

一方で豊臣秀吉は、農民での成り上がりなのでそもそも譜代の家臣いませんでした。

しかし、持ち前の人たらし能力で、どんどん有能な家臣を登用していきました。また、秀吉は家臣たちのコミュニケーションを大切にして信頼関係を築くのにとても気を使ったそうです。

 

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その人柄に惚れた、竹中半兵衛黒田官兵衛などの優秀な武将が集まったのです。

このように優秀な人材を登用して天下を取りましたが、信頼できる家臣は最後まで少なかったようです。一番信頼できるはずの身内の豊臣秀次までも信頼できず粛清をしてしまいます。

忠誠度の高い信頼できる石田三成のような子飼いの家臣もいましたが、これらの武将たちは元々武士ではなかった者が多く、彼らにも譜代の家臣がいませんでした。そのため、家臣自身が優秀でも、その末端の家臣がまったくの素人が多い烏合の衆だったのです。

そのため、秀吉が亡くなるとその弱点を突かれた形で、家康があの手この手で天下を狙っていくのです。

松平家は室町幕府初期の頃からの武家の名門

家康は、岡崎城城主松平宗家9代目で、松平氏は室町幕府初期のころからの武家の名門です。古参の家臣も150年前から譜代の家臣で、長年の付き合いで主君の信頼も深っかた。

徳川家の軍勢も【三河武士】と呼ばれるように、戦闘のプロがそろってました。家康は実際に野戦では武田信玄以外には負けたことがありません。それだけ徳川の軍勢は優秀だったという事になります。

このように家臣に恵まれた家康だったのですが、石川数正のように見切りをつけた重臣もいたので、いかに当時の人心掌握が難しいかが伺えます。

関が原の戦いでの勝ちで天下を取った後も、どうしたら家臣に裏切られないかを非常に考えました。その対策として、信頼できないもの、古くから臣従していない大名は、【外様大名】として江戸から遠くに配置しています。

 

わかりやすい関ケ原の戦いの経緯と合戦までの流れ 織田信長の突然の死によって天下統一の機会を捉えた豊臣秀吉は、子飼いであった旧信長の家臣をも取り込み、見事に天下統一を果たします。 ...

 

当然、関東は徳川譜代の大名で固めています。

また、江戸に大名の妻子とその重臣の妻子までも人質として住まわせていました。

各大名を、江戸と国元に一定期間ずつ交代で居住させた制度の参勤交代も各大名たちの財力を削ぐために有効な手段でした。

こうして家臣への裏切りを警戒する事で260年の長い間、その政権を維持することに成功するのです。

なぜ徳川家康は、天下泰平の世を作ることができたのか?

関東の転封を逆手に取った

北条討伐後、家康は秀吉の命で関東に所領が移されます。

これは、秀吉による家康を京から遠ざけるのが狙いです。しかし、家康はそれを逆手にとって密かに関東の開拓に励みます。その結果、250万石以上の強国に成長させることが出来ました。

また、その間に朝鮮出兵などもあったが、のらりくらりと出兵を控えて戦力と財力の温存に務めました。それにより、諸大名が疲弊していく中、徳川家は潤って行ったのです。

過去の失敗を反面教師にした

徳川家康は天下を取るまで、人質時代、信長、秀吉時代の様々な経験を積んできました。当然、信長や秀吉の政策の良いところ悪いところを見ています。

信長の政策を秀吉が参考にして発展し、それを家康も参考にして大きくして江戸の政策に一役たってます。

また、関ヶ原の戦いでは、小牧長久手の戦いのように大義名分が失われないように、打倒豊臣家を巧妙に打倒三成にすげ変えて味方を増やしていきました。

実際に、東軍(徳川)には、秀吉の子飼いの武将、加藤清正、福島正則、加藤善明までもが味方に付きました。

石田三成をあえて殺さず、豊臣家分裂の道具として泳がしておいたのです。

長生きは三文の得!?

最後は、家康が長生きしたということです。

秀吉は62歳で、家康は72歳で亡くなっています。家康は健康マニアだったらしく、自分で薬を調合して健康維持に務めていたとあります。

実際に家康は秀吉より13歳長く生きています。もし、同じ年で亡くなったら1603年です。豊臣家は衰退したとはいえまだ65万石の大名、影響力もまだ残っている中、秀忠の力だけで徳川政権を維持できたかは疑問が残ります。

秀吉は天下を取った後、最後まで徳川家を粛清しませんでした。しかし、家康は関ケ原後も影響力を持っていた豊臣家を完膚なきまでに粛清しています。この差が、自分亡き後の政権が存続できるかの分かれ道だったかもしれません。

この長く生きた13年間で、豊臣家を粛清でき盤石な徳川政権が達成できたのです。

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miumaga
歴史好きが高じて、日本史・世界史を社会人になってから始めました。史実を調べるのも好きですが、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。いずれ歴史能力検定を受ける予定。どうぞよろしくお願いします。