大化の改新と乙巳の変の背景と律令国家への道
古墳時代ー飛鳥時代、豪族の対立に至るまでの経緯を調べてみるにあった豪族同士の対立…最終的には大化の改新まで至ったという話でしたが、今回はその大化の改新が始まるまでの状況、更にはその先の出来事に焦点を当ててみます。
実は教科書で必須の出来事に関わらず「大化の改新」の実態は未だに掴めていません。
軽皇子と皇極天皇の姉弟黒幕説や中臣鎌足黒幕説…と様々ある中、今回は蘇我氏が悪い人達じゃなかった説を取り上げていこうと思います。
大化改新とはどんな出来事??
最近「大化の改新=中大兄皇子と中臣鎌足による蘇我入鹿暗殺事件」ではなく、蘇我入鹿・蝦夷が暗殺された出来事はその干支から「乙巳(いっし)の変」と呼ばれることが多くなりました。基本的に大化の改新とは、基本的には蘇我氏宗家滅亡後の政治改革を指しています。
- 乙巳の変 : 蘇我入鹿の暗殺し、蘇我宗家を滅ぼした事件
- 大化改新 : 乙巳の変以降の政治改革
当時の日本の状況をおさらいしてみよう
当時の日本を取り巻く環境は周辺諸国からの影響も強く受けていましたので、まずは周辺諸国から探っていきましょう。
現・中国周辺と朝鮮半島事情を見てみよう
【6世紀以降の近隣諸国】
国境線が変わり、百済は高句麗と隣り合わせではなくなった
突厥と高句麗が結ぶことを恐れて侵攻
高句麗への度重なる侵攻等がたたって隋が滅亡
少しずつ唐国内の情勢が安定していく
日本書紀の記述から推測されている。他の年に行った説もあり。
大乱が原因で百済の豊璋が倭国に行った説もある
唐が高句麗を討とうとしていたため、国内の再編を計ろうとした
代わりに新羅の女王を廃して唐の王室から新王を立てることを迫り、新羅国内は新唐派と反唐派で二分した
6世紀後半に入ると中国では隋という統一王朝ができました(蘇我氏が一つ抜け出た時期から遡って6年前の出来事です)。これを受けて周辺の情勢も大きく変化します。
隋は北方に突厥(とつけつ)という異民族との問題を抱えていました。そこで高句麗と突厥が結ぶのを恐れ、3度高句麗に攻め込むも失敗。ここで新羅が益々力をつける事になったのです。
百済は552年に新羅に裏切られて以降高句麗とは面していないので、新羅程影響を受けません。
圧倒的な国が近くに出来た事実は、想像以上に近隣諸国に重くのしかかったことでしょう。もちろん隋や唐に備えよう、あるいは関係を築いて利用しようと各地でクーデターが起こる事態となりました。
倭国の内部事情を見てみよう
さて、先ほど倭国周辺の事情をお話しましたが、百済と新羅間は連携したり敵対したりを繰り返していた一方、倭国は百済と良好な関係を築いていました。
百済からすれば倭国との連携で陸の孤島化を防げますし、倭国にとっては鉄や先進技術を手に入れられるwin-winの関係だったと思われます。
対隋戦を繰り返した高句麗が力を失い、新羅の力がついたということで、百済は新羅に対抗する術を持つ必要が生じてきているとなると、百済寄りの倭国も対応を迫られかねません。
隋とも関係を築く…あるいは、情報を仕入れる必要が出て来るのも不思議ではありませんね。これが遣隋使派遣に繋がっていきます。
百済の方は隋建国以前から既に近隣諸国との関係が重要でしたから、自国の存続にかかわるため倭国との関係を深めておこうと考えたのか、積極的に倭国へ文化や技術を伝えていました。
そんな文化や技術の中には538年(552年とも)の仏教伝来も含まれています。
同じ価値観を築き上げていくために有効だったのかもしれません。倭国側も国内の権力争いと絡まって積極的に仏教を取り入れようとする勢力が出て来ました。いわゆる『崇仏派』と呼ばれる勢力です。
仏教伝来による対立とは?
崇仏派の代表といえば、当時の有力豪族にのし上がりつつあった蘇我氏。
一方、既得権益側だった物部氏は排仏派として対立姿勢を露わにします。その結果、587年に崇仏派の蘇我氏が権力を得ることに成功。蘇我氏は渡来人を支配下に置き、周辺諸国の動向に相当詳しかったとも言われています。 この物部氏との争いの際に決着をつけた中心人物が蘇我馬子(そがのうまこ)と厩戸皇子(うまやどのおうじ=聖徳太子)でした。
※ 蘇我氏が台頭した経緯は下の記事に書かれています。
推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子が行った政治とは??
3人体制の中、588年には飛鳥寺の建立開始。これは飛鳥に都を作るための布石と見られ、蘇我氏が主導しています。飛鳥は防御のしやすい天然の要塞のような場所。百済の扶余という拠点とよく似ているため「周辺諸国の動向を考えての遷都だったのでは…?」という可能性が指摘されています。
更に592年には当時の天皇・崇峻天皇が暗殺されました。蘇我馬子により推薦されて即位した天皇でしたが、事実上の実権は蘇我氏が持っており不満を感じるようになっていました。これが拗れて暗殺という出来事にまで発展したとされています。
ところが、暗殺の1か月後には宮を移して推古天皇が即位…なんて状況だったため推古天皇(即位前は吹屋姫)はじめ、他の皇族や豪族らも関与していたのでは?と言われています。
その1年後には聖徳太子が摂政(=天皇の補佐役)となって蘇我氏と共に積極的な外交政策に乗り出し、600年に第1回の遣隋使を送ります。この時には隋に軽くあしらわれたなんて話も残っています。そのような事態を受けて、朝廷は天皇の権威を高めて国内の制度を充実させる方針となりました。
その代表的な制度が
- 冠位十二階の制度
- 憲法十七条
特に冠位十二階の制度は、それまでと違い個人が昇進可能な制度となっています。なお、この対象となったのは大夫(まえつきみ)層以下の階層であって、蘇我氏や王族、地方豪族は冠位授与の枠外にあったそうです。
その後の蘇我氏
後継者指名をしていなかった推古天皇が崩御すると次の王選びが始まります。その候補者が山背大兄王と田村皇子(後の舒明天皇)でした。
- 山背大兄王 → 父:厩戸皇子 母:蘇我氏の娘
- 田村皇子 → 父:押坂彦人大兄皇子 母:糠手姫皇女(ぬかでひめのひめみこ)
ということで、両者のうち蘇我氏に近いのは山背大兄王です。
が、この時は結局
- 推古天皇が山背大兄王に「未熟者」という類の遺言をした(当時まだ若かった)位危なっかしかった
- 蘇我氏系の天皇を続けないことで反蘇我勢力との対立を防ぎたかった
以上のような理由(どれもハッキリとしているわけではありません)から、推古天皇の後継者として田村皇子が舒明天皇として即位することとなりました。
推古天皇の後に皇位を継いだ舒明天皇は、蘇我氏の娘たち、更に舒明天皇の異母弟の娘・寶女王(=たからのみこひめ、後の皇極天皇、斉明天皇)と婚姻関係を結びました。その際、蘇我馬子の娘との間に古人大兄皇子を、皇極天皇との間に中大兄皇子(後の天智天皇)、第40代の大海人皇子(後の天武天皇)をもうけています。
この舒明天皇崩御後も後継者選びが難航。この時の候補は赤字の4人…
- 古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)
- 軽皇子(かるのみこ)
- 山背大兄王
- 中大兄皇子
でした。中でも最も皇位に近かったのが山背大兄王でしたが、皇位継承者が複数候補いることもあって舒明天皇崩御後は一時的に皇極天皇が皇位につくことになりました。勿論、皇極天皇が皇位に就くのは皇位継承問題を先延ばしに過ぎません。
そんな矢先に山背大兄王を蘇我蝦夷の後を継いだ蘇我入鹿が自害へと追い込みます。この事件が起こった理由を『藤氏家伝』では
皇極天王即位に絡んで謀反を起こすかもしれない
と入鹿が他の皇族と謀ったため、と書かれているようです。
ですが、先程も話した通り、山背大兄王は蘇我氏と非常に近い人物。つまりは、蘇我氏にとっても皇室とのパイプの一つが途切れることを意味します。
入鹿の独断ではなかったものの(父・蝦夷は山背大兄王を追い込んだ事件について「馬鹿なことを…」みたいに言ってたそうです)蘇我氏内部では山背大兄王を推すグループもあったため、宗家と他の一族の間に溝も生まれてしまいました。
蘇我氏の専横が酷いと言われたのは何故?
山背大兄王を自害へ追い込んだ結果、「蘇我氏=専横が酷い」という印象がついてしまいました。さらに蘇我氏の専横を実しやかにさせたのが
- 天皇の宮を見下ろす位置に邸宅を建て、武器庫と屈強な武士を配備していた
- 日本書紀でひどく書かれていた
このような事実です。日本書紀に関しては、後に蝦夷殺害・入鹿自害へ追い込んだ中臣鎌足の関係者が纏めているので反蘇我氏寄りのスタンスになるのは理解できるのですが、なぜ宮を見下ろす位置に邸宅を建てたのか?次はそこを探っていくことにしましょう。
蘇我氏が甘樫丘に邸宅を築いた理由とは?
蘇我蝦夷・入鹿親子の邸宅は644年に天皇の宮を見下ろす甘樫丘と呼ばれる丘の東側に谷を埋め立てて造られたと言われています。長い石垣と城柵が設置され、武器庫も完備されていました。
一方、当時の天皇・皇極天皇の宮が板蓋宮です。642年に夫の舒明天皇が崩御したあとに即位し同年に造られたのですが、この宮は甘樫丘から見下ろせる場所に位置していました。
大勢の人を使って谷を埋め立てる程の大きな工事をし、軍事力を備えた邸宅を構えたことは反蘇我氏グループに
- 天皇を蔑ろにしすぎだろ
- 天皇家に取って代わろうとしている
という口実を与えたのですが、『眼前に見下ろす場所に天皇の宮があった』事実は
不測の事態になった時に発見しやすい
という別の側面から見ることもできます。
何しろ、蘇我親子は政治の中心人物で海外事情にも非常に詳しかった。618年の中国では隋が滅びて唐という国が建国され海外情勢がかなり変化し、唐が朝鮮半島を手中にいれようと動いていたこともあって、倭国に攻め入る最悪の可能性まで蘇我親子は考えていたのです。
その一方で、蘇我親子は唐が非常に先進的な国という情報も手に入れており、当時の百済重視の姿勢だけでは立ち行かなくなることを危惧していました。
乙巳の変
蘇我氏の政治スタンスは先ほどのような立場だったのですが、当時の政治の中心の人物たちの中には決定的に異なる政治スタンスを持っているような人も存在していました。それが中大兄皇子です。両者それぞれの政治的立場は以下のような形になります。
- 蘇我入鹿
飛鳥の防衛を固めつつ百済以外に唐との融和路線を図る
(飛鳥周辺の寺の配置や難波の港整備の痕跡などから推測) - 中大兄皇子
百済重視の保守的なスタンス
ということで、外交スタンスの違いから蘇我氏が推すのは古人大兄皇子のみとなり、中大兄皇子の立場は非常に厳しくなってしまいます。更にこの時期には百済から倭国に王子が来ていたため、本人あるいは周辺の百済人から朝鮮半島でクーデターが頻発している情報も仕入れていたと思われます。
こういった状況が蘇我氏が暗殺された 乙巳の変 に繋がっていったと考えられるのです。これが蘇我氏の専横が原因ではなく、外交スタンスの違い・後継者争いが乙巳の変の原因とする説となります。
乙巳の変後
結局、乙巳の変の後には軽皇子が孝徳天皇として即位することとなりました。実際に皇極天皇が位を譲ろうとしたのは中大兄皇子だったと言われていますが、即位を辞退しています。若かったからというだけでなく暗殺に関わっただけに、皇位を継承するのも難しかったのでしょう。
こうして実際に乙巳の変の後に天皇にまで即位した状況証拠から、軽皇子・皇極天皇黒幕説が実しやかに囁かれています。また、乙巳の変のもう一人の中心人物・中臣鎌足は軽皇子時代に接近していたという話も残っています。
孝徳天皇は654年まで在位。崩御後は再び斉明(皇極)天皇が655年ー661年までを在位期間としています。この間にあった大化改新と関係の在りそうな出来事(直前も含む)を整理していくと
蘇我氏宗家が滅亡
=新しい施政方針を示したもの
あり得ないほど周到に用意されているのが分かります。おそらく蘇我氏の暗殺事件は上層部では織り込み済みだったのでしょう。この時、軍師のような働きをしたのが中臣鎌足ではないかとされているようです。
646年に改新の詔を出した際に、公地公民制や租庸調の税制、班田収授法が確立したことを『日本書紀』は伝えています。ところが、後に詔の内容は後世に書き足したものだと判明。この改新の詔の時に…つまりは大化の改新で一連の政治改革は行われたけれども、律令制の方針が明らかにされた訳じゃないことが分かってきています。
では、日本が律令国家の道へと進んでいったのは何がきっかけだったのでしょうか?その答えが白村江の戦いではないかと言われているのです。
日本の律令化は白村江の戦いがターニングポイントだった?
大化改新である程度政治体制を整えると孝徳天皇が崩御(654年)。この辺りで中大兄皇子が陽の目を見るかと思いきや、皇極天皇が重祚して斉明天皇として即位することになりました。宮中を血で染めたのは想像以上に尾を引いていたのではないかと思います。
他にも重視したはずの百済が滅亡(660年)したり、斉明天皇が崩御(661年)したりと混乱が続いた中、百済奪還のため663年に出兵。この時の戦いを白村江(はくすきのえ)の戦いと呼び、唐と新羅の連合軍に大敗してしまいます。
この戦いがあって以降、各地に堤や山城を築き国土防衛を強化し、豪族のを取りまとめて序列化するために甲子(かっし)の宣を出して国政改革を断行。飛鳥にある宮から大津宮へ遷都した中大兄皇子は668年、天智天皇として即位しました。
その後、日本で初の全国規模の戸籍を作成したり班田収授法が実際に発足されたりして律令国家の礎を築いていきます。
わざわざ外国である百済の領地奪還を目指して大国と戦争まで起こしたのは、乙巳の変で蘇我氏を滅ぼしたのが間違いだったと認めるわけにいかなかった。そんな理由もあったのではないでしょうか。
今回の記事を書くに当たって読んでみた『大化の改新』隠された真相ー蘇我氏は本当に逆臣だったのか?と言う書籍を見ると、
- 大化の改新で律令国家になったわけでなく実際は白村江の戦いが分岐点だった
- 乙巳の変では蘇我入鹿だけが悪党だったわけではなく後継者争いの一つだった
ということが大体書かれていました。この流れなら何となく律令国家へ転換せざるを得ない状況が分かる気がしますので、私自身はこの説はありかと思います。