中世のイギリス史<~ノルマン朝成立編>【各国史】
中世ヨーロッパ各国史第2弾!イギリスの歴史について見ていきます。
イギリスの封建社会の始まりはウィリアム1世の征服によるノルマン朝に端を発します。土着していたアングロサクソンの貴族の土地を接収して王朝が始まったことから、神聖ローマ帝国含む他のヨーロッパ諸国と比較して最初から王権が強い体制でした。
そのノルマン朝が100年も経たずに断絶すると、血縁の関係でフランス王家臣のアンジュー伯ヘンリ2世によるプランタジネット朝が始まっていきます。このプランタジネット朝で議会政治のベースが確立しました。
今回はイギリスの歴代王朝のうち、ノルマン朝の成立までを見ていきます。
イギリスの歴史について勉強する前の注意点!!
高校で学ぶイギリス史は主にイングランドの歴史です。他のスコットランドやウェールズ、アイルランドでは異なる歴史・文化を有しています。
なお、現在の日本ではグレートブリテン及び北アイルランド連邦というのがイギリスの正式名称となっています。
簡単なノルマン朝以前のイギリス史
紀元前55年にローマ帝国のユリウス=カエサルがイングランド南部の平地・ブリタニアに侵入。この時には完全な支配下に置かれることはありませんでしたが、後43年にはローマ帝国の属州となっています。
やがて、ローマ帝国が衰退してブリタニアが放棄された頃、ゲルマン人の一派アングロ人、サクソン人、ジュート人が移住(元々ブリタニアに在住していたケルト系民族ブリトン人が圧迫されて大陸に渡り移住した地を『ブルターニュ』と呼んでいます)するように。
移住したアングロ・サクソン人らはケルト人を征服し20程の小国家群を形成させ、その後、6世紀末頃までに七王国まで統合されていきました。こうしてケルト系の氏族との同化が進んでいきます。
※なお、ウェールズ・スコットランド・アイルランドまでゲルマン人は浸透せず、ケルト人はイングランドから追いやられました。その後、各地ではケルト人による国家が継続されており各々独自の歴史を築くようになっています。
やがて9~11世紀になると、西ヨーロッパで第二の民族大移動が始まり、イギリスではデーン人(北方ゲルマン人、ノルマン人の一派)の海賊活動に悩まされ始めます。
このデーン人に対抗するのに七王国でまとまる必要が出てきたためエグバートが先頭に立ち初めて緩やかな形で統一しますが、長くは続きませんでした。
このエグバートの孫がウェセックス朝のアルフレッド大王であり、デーン人との協定までこぎつけてキリスト教を布教させ融和をはかって何とか独立を保っていたのですが...
中世初期のイギリスに起こったこととは??
10世紀末に入ると、単なる海賊活動ではなくデンマーク王国を拠点とした組織的な攻撃に変わっていきます。
そして、1016年、ついにイングランドはデンマーク王子クヌートによって征服されてしまいました。このクヌートがイングランド王に即位し、デーン朝を成立させています。
このクヌートによるイングランド征服や崩壊の経緯までを次の章でまとめていきます。
クヌートによるイングランド征服を詳しく
イングランド征服までの経緯を知るのに、クヌートの父親スヴェンが活躍していた時代まで遡って見ていくことにしましょう。当時のイングランドは、数々の侵略により七王国のうちアルフレッド大王の系譜によるウェセックスだけが唯一の生き残りとなっていました。
ウェセックス朝の王・エゼルレッド2世は978年に10歳で王位について以降、ずっとデーン人によるイングランド侵入に悩まされ続けます。
デーン人の侵入にはウェセックス以外の地域も頭を抱える事態になっていて、アルフレッド大王時代に取られていたデーンロウだけでなく、西フランク王国が9世紀末にノルマン人のロロに封じたノルマンディー公国なんかも誕生する原因となっています。
このノルマンディー公国はグレートブリテン島の近くに位置しており、イギリス-フランス間で最も距離が近い約34㎞のドーヴァー海峡より距離はありますが行き来しやすい。
ここを拠点にされてしまうと挟み撃ちされ兼ねず、かなりマズい事態に陥ります。
そこで、エゼルレッド2世は最初の妻が死去していたこともあって、ノルマンディー公の娘エマと2回目の結婚。ノルマンディー公国との友好を築いて後顧の憂いを断つことにしたのです。
※ノルマンディー公の娘・エマとの間にはエドワード懺悔王他2名ほどの子が誕生
さらにエゼルレッド2世は国内のデーン人が侵略者と呼応することを恐れて虐殺しますが、この出来事はデンマークによるイングランド侵略の口実を与えてしまいました。
結局、侵略が激化してデンマーク王のスヴェン1世に王位を奪われたためにエゼルレッドは『無思慮王』『無策王』と散々な仇名を付けられています。
なお、デンマークによる侵略の激しさにエゼルレッド2世は幼少の息子・エドワードを含む子供たちを妻の実家のあるノルマンディーに亡命させています。
ところが、スヴェン1世は王位についた翌年に死去。
イングランド南部を完全に掌握していない中の急死だったため、スヴェンの息子クヌートは王位につけず、エゼルレッド2世はイングランドへ戻り再度返り咲くことに成功しました。
※当然のようにクヌートは父の方針・イングランド進出を継承しています。
エゼルレッド2世は無策王なんて言われていますが、奪われた王朝を取り返したり、教会の十分の一税のうち三分の一を貧民救済に当てるよう命じたり...実際にはやる時はやる人だったので最近は再評価されるようになっています。
そんなエゼルレッド2世も即位から2年で死去。その後、王位についたのはエゼルレッド2世の一度目の妻との間の子・エドマンド2世という王様でした。この王様『剛勇王』とあだ名がつけられるほどに強かった。
勿論、デンマークのクヌートもかなり強くて良い勝負を繰り返し一進一退の攻防を繰り広げていました。そんな中、両者がぶつかったアシンドンの戦いでエドマンドが決定的な大敗を喫します。
それでも、どうにか一方的な占領ではなく和平交渉までこぎつけ
こうした約束も取り付けた結果、先に亡くなった(暗殺説もありますが)エドマンド2世の領地がクヌートのものとなり、クヌートがイングランド王となりました。
なお、イングランド支配を正当化させるため、ノルマンディー公の娘で既に亡くなったエゼルレッドの2番目の奥さんエマを妻にしています。
こうしてクヌートはスコットランドの一部やデンマーク、スウェーデンなどを含む北海帝国を作り上げ支配しました。が、クヌートの死去で後継を巡り少々ややこしい事態に陥ります。
北海帝国の瓦解
クヌートは生前、本来ならばハーデクヌーズを王位につけようとしていたのですが...
クヌートの死によってデンマーク支配を良く思っていなかったノルウェーやスウェーデンに本拠地が攻め込まれ、ハーデクヌーズが現地入りできなかったのです。
そこで実際に統治できなかったハーデクヌーズに変わって最初は摂政の地位に就き、後にイングランドの有力者達から推され王となったのが異母兄のハロルド1世でした。
混乱に乗じて王位を継承し死ぬまで王位についたため、ハーデクヌーズはハロルドを恨むようになっていきます。
ハロルド1世が亡くなるとハーデクヌーズがようやく王位を継げたのですが、ハロルド1世に怨みを募らせていたため、自身に子がいない状況でもハロルドの息子に王位を継がせるわけがありませんでした。
異父兄のエドワード懺悔王にその地位を譲れるように、エドワードを亡命先のノルマンディーから連れ戻し共同統治につけています。
クヌートの死後わずか7年でハーデクヌーズも死去し、帝国は瓦解。ハーデクヌーズの思惑通り、エドワード懺悔王が王位につくことになりました。
ハーデクヌーズの治世下には重税が課せられていた中で、マーシア伯のゴディバ夫人が自らを犠牲に夫を諫めて税を軽減させた伝説は、彼の治世下の出来事とされています。
チョコレートのGODIVAは、そんな彼女の高潔な精神に感銘を受けてつけられた名前だそうです
ところが、このエドワード。根っからの修道士で戦いにも統治にも向いてません。亡命先のノルマンディーの貴族達を贔屓してしまいます。
この事態に対してエドウィンは義父のウェセックス伯ゴドウィンをはじめとする他の貴族との対立を招くことになり、ゴドウィンはイングランドからの亡命を余儀なくされています。
- エドワードがノルマンディー貴族を優遇した理由とは?
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エドワードはスヴェンによるイングランド侵攻の時に亡命して以降、25年以上ノルマンディーの修道士たちと共に過ごし、人格形成に大きな影響を受けました。エドワードの『懺悔王』の称号は迫害に屈せず信仰心が篤かったことからつけられた異名です。
それでもエドワードはウェセックス王になってもおかしくない人物。デーン人に国を奪われ、王位奪還を目指すのは当然の流れでした。弟と共にハロルド1世の治世下でイングランド侵攻を企て、弟がゴドウィンに捕らえられています。
ゴドウィンはエドワードが後に即位3年後に結婚した妻の実父…エドワードにとっては義父になる人物(当時のゴドウィンは王であるハロルド1世側についていました)です。
そのゴドウィンにより弟がハロルド1世に引き渡されると盲目にさせられ、その傷が原因でそのまま死亡しています。
盲目にした部分に関わったかまでは定かではありませんが、エドワードとの関係に食い違いが生じるのも無理もない出来事でした。
こうした軋轢もあった中でも、ゴドウィンはイングランド内の有力者だったため、エドワード懺悔王は彼の娘を妻にすることで協力を仰がなければなりませんでした。
ここを割り切れる人物であれば統治も上手くいったのでしょうが、権力基盤を盤石にするために義父と協力する方向ではなく、ノルマンディーから貴族達を呼び寄せる方向に進んでいきました。
また、エドワード懺悔王は厳粛に教義を守る人物でもありましたから、貴族である以上結婚はしても子供まで作らなかった。形だけの結婚である以上、関係回復にまでは当然至らなかったわけです。
両者の仲が決定的になったのは、1051年に起きたエドワード懺悔王の妹の再婚相手(妹自身は1047年あるいは49年に死去)で拠点をフランスに置くブローニュ伯ユースタス2世と義父ゴドウィンとの諍いです。
ユースタス2世がゴドウィン伯領に滞在した際に、その領内で彼の家臣が殺害されてしまいました。
この時にエドワードはマーシアやノーサンブリアの貴族と共に義弟側についてしまいます。ゴドウィン自身は、ウェセックスの地元勢力者として大陸勢力を危惧し折れることはありませんでした。
が、この時点では懺悔王の方が優位な立場にいます。結局、ゴドウィン一家はイングランドを脱出し亡命。エドワードの王妃・エディスも修道院に幽閉されることに。
このような経緯から、ますますノルマンディーとの関係を深めて地元勢力を抑えざるを得なくなっていったのです。
その後、エドワード懺悔王の最有力支持者であった母親のエマが亡くなると、地元貴族を抑えきれなくなっていきます。亡命先からもゴドウィンらが軍を編成してイングランドへ侵攻。和平を結び、エドワード支持派は失脚せざるを得なくなりました。
それでもエマの死後14年ほどエドワードは王として君臨しますが、アングロ=サクソン系の王朝を確実に残せる土台を残せぬまま死去。ゴドウィンの息子ハロルド2世がイングランド王を称するようになっていきます。
エドワードが政敵のゴドウィン方に王位を考えるはずもなく、本来は甥っ子(エドマンド剛勇王の息子)エドワード・アシリングを後継に...と考えていたのですが、既に彼は死亡。その息子のエドガーは幼かったため、ハロルド2世がイングランド王と周囲から認められたのです。
このゴタゴタをチャンスと見てイングランド侵入したのがノルウェー王ハラールでした。
ハロルド2世はノルウェーを何とか撃破したものの、更にその隙をついてイングランドへ侵入したのがノルマンディー公・ウィリアムです。
ノルマン朝の成立
ハロルド治世下、
「自分は前王の亡命中に王位継承の指名を受けていた」
という大義名分を掲げて大軍でイングランドへ侵攻したウィリアムはエドワードの遠縁にあたる人物です。エドワードが母の縁からノルマンディーへ亡命中に仲良くなっていたのでした。
彼は騎士軍を率いてハロルド2世を「ヘースティングズの戦い」で敗死させると、ウィリアム1世として1066年に即位。ノルマン朝を開くこととなります。
この一連の征服活動をノルマン・コンクエスト(ノルマンの征服)と呼んでいます。
暫くの間はアングロ=サクソン系の貴族による反乱が続きますが、それを抑え込むと、元々ノルマンディー出身ということもあってフランスで一般的となっていた封建制度を導入し支配を進めていったのです。
こうした「侵略による統治」ということで、他のヨーロッパ諸国よりもずっと強い王権を有していたわけですね。ここがイギリス王朝の大きな特徴と言えるかと思います。