仙台藩初代藩主までになった伊達政宗の生涯 ①
歴史小説やドラマ、今ではゲームでも織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に負けないくらい人気の伊達政宗。以前、伊達氏について政宗の事を少しだけ書きましたが、人気が人気だけにひとつの記事にしようと言うことで人物伝として、伊達政宗にスポットを当てていきたいと思います。
伊達政宗の人物像
わたしは【一番好きな戦国武将は?】と聞かれると、伊達政宗と答えるほどの政宗好きです。その魅力と言えば、軍事的才能・情熱的な野心家・波乱万丈の人生だと思います。
政宗の家督相続直後は、【人取橋の戦い】【大崎合戦】【郡山合戦】と父の外交政策の反対に舵取りをし、ところかまわず戦いを仕掛けフルボッコにされていました。
しかし、【摺上原の戦い】では、蘆名氏以外の奥羽連合を無効化し、蘆名氏一本釣りをして各個撃破し見事な戦を見せました。
努力が実り、奥州一の大大名までのし上がりましたが、時すでに遅し【生まれた時代を間違った英雄】とはよく言ったものです。すでに、全国を掌握しつつあった豊臣秀吉の奥州仕置により大減封されることになり、さらに葛西・大崎一揆を扇動し秀吉に露見されさらなる減封処分されると言う始末…
そんな天下人にも屈しない野心家であった政宗でしたが、晩年は領国経営に勢力を注ぎ、伝統芸能・文化などを保護するなどの文化人として活躍を見せます。戦国時代の少ない生き残りとして、徳川秀忠・家光からは【伊達の親父殿】と慕われあの情熱的な野心はすっかりなくなっていました。
天下人に対し、一揆を扇動してまで領土欲があった野心家が、晩年野心をすてて新しい世を作るためにまい進して言ったのです。書けばきりがありませんが、政宗の人生から【人は成長し変化していくもの】と言うのがピッタリな気がします。
好きすぎて、前置きがとても長くなりましたが、今日は伊達政宗の人生を家督を継いだ頃から書いていきたいと思います。
伊達政宗の元服と二頭体制の終焉
伊達家は稙宗以降、足利将軍から一字拝領していました。
- 伊達稙宗→足利義稙
- 伊達晴宗→足利義晴
- 伊達輝宗→足利義輝
- 伊達政宗→??
しかし、政宗が元服した1577年は15代将軍・義昭が信長によって追放されて室町幕府が滅亡していました。そこで、伊達家中興の祖・九代目政宗と同じ名を付けました。再スタートを切ると言う輝宗の思いが感じられます。
1584年10月に伊達輝宗は、家督を政宗に譲りました。
輝宗自身まだ41歳と元気なうちの隠居でしたが、当時では北条氏や佐竹氏でも普通に行われてたそうです。そうなると、伊達氏の記事でも書いたように、前当主と現当主が治める二頭体制が敷かれることになります。
当然、政宗程の人物ですから親の言うことは聞くはずもなく、家督相続後にこれまでの外交方針を転換させます。
それは20年もの間、友好関係を築いていた蘆名氏との同盟の解消でした。
この同盟の解消は、対立していた大内氏と田村氏の和睦交渉の決裂から始まりました。この両氏は、大内氏は蘆名氏、田村氏は伊達氏の支援を受けていました。
人取橋の戦い
1585年に蘆名氏が大内氏を支援していると言う理由から、蘆名氏へ攻撃開始。続いて大内氏への攻撃も開始します。大内定綱は、小浜城を放棄して二本松城の畠山義継の下へ身を寄せます。
続けざまに、政宗は畠山義継への攻撃を開始しますが、輝宗の仲介で畠山義継と和睦交渉に入ります。しかし、二本松の所領安堵の件で御礼に来ていた義継を見送りにきた輝宗を畠山義継が突然拉致します。
この時、政宗は鷹狩りに出かけているところ急遽戻り義継を追撃し、その過程で父・輝宗ごと畠山義継を射殺します。一部の研究者の間では、【鷹狩りの一行がなぜ鉄砲を武装していたのか?】と言う理由から、政宗の父殺しの陰謀だったのはないかと言う見方もされています。
政宗は、父・輝宗の初七日が明けると、畠山氏の居城・二本松城を攻め立てました。
城には、畠山義継の遺児、国王丸を擁して城に立てこもりました。二本松城の救援の為に、佐竹氏を初めとする、南奥羽諸侯が挙兵し政宗に接近し、伊達軍と連合軍が瀬戸川に架かる人取橋の付近で激突します。
その軍、伊達軍7000人に対し連合軍30000人と4倍以上の兵力差がありました。
戦況は、連合軍の一方的な攻勢に伊達軍は潰走し、政宗自身も弾丸5発・矢を1筋受けました。伊達軍は、政宗を退却させるために、宿将・鬼庭左月斎が殿を見事に勤め上げ討ち死に、また伊達成実も踏みとどまって時間を稼いでくれたため、政宗は本宮城に逃れることができました。
城へ逃れたその夜に事件が起きます。
佐竹義重の叔父に当たる将・小野崎義昌が陣中で殺害される事件が発生し、さらに本国に北条氏と里見氏が攻めてくると知らせが入り、佐竹軍は撤退を余儀なくされました。
優勢な状況から30000の軍勢が撤退したことは、さまざまな憶測を呼び、【佐竹氏の本国急変は政宗の裏工作があったのではないか?】と言う説もあるようです。
こうして佐竹氏を中心とした連合軍の撤退で辛くも勝利した伊達政宗ですが、父の死によって二頭体制が終焉を迎えることになりました。
奥州探題(自称)・伊達政宗と羽州探題・最上義光
輝宗の死後、しばらく(1年くらいは?)政宗は積極的な行動を起こしませんでした。
1586年になると、大崎氏のお家騒動に武力介入します。これは、もう伊達家のお家芸と言わざるえません。
しかし、この武力介入はスムーズに行きませんでした。
大崎氏への武力介入は羽州探題・最上義光が支援に入ってきたことにより、伊達家は反撃に合う事になります。当主・大崎義隆は、最上義光の正室の兄であり、彼にとっては義兄でもあったのです。
昔から最上氏と伊達氏はそれほど険悪ではなく、上方軍が奥羽や羽州に侵攻してきた場合は、最上と伊達が連携する手はずになっていました。この件については、大崎氏の分家でもある最上氏が伊達氏の武力介入を許さずとして起こりました。
伊達氏と最上氏の小競り合いの後、政宗の母・義姫(最上義光の妹)の仲介の下、両家に和議が成立します。
伊達政宗を語るときは、必ず最上義光が出てきて互いにライバルだった描写がありますが、これはドラマの演出であって武田信玄と上杉謙信のような熱いものではありません。
互いに探題職として【奥羽の秩序を守るのは我々探題の役目である】と言うところがあり、助力を求められれば援軍を送り、逃げ込んだものがいれば匿い、争っているものがいれば仲裁するのが役目でした。
寒冷で人口が少ない東北地方には、相手を完膚なきまで倒すことはしないと言うやり方があったようで、彼らなりに最良の方法を探っていたのです。ある意味、伊達と最上のこうしたやり方は「惣無事」の原型ともいえるでしょう。
その後両者は、争うことはありませんでした。後述する、長谷堂合戦ではお互い協力し合って合戦を乗り切っています。
南奥州覇権を確立した摺上原の戦い
蘆名氏では1584年に蘆名隆盛が暗殺され、佐竹義弘の子で隆盛の養女を娶った義広が当主となっていました。若年で他家からの養子だった義広は、家臣たちを掌握することができず家内は混乱していました。
1589年に長年の宿敵・蘆名氏に摺上原の戦いを挑むことになります。
序盤は、強風などの天候に恵まれず劣勢でしたが、天候の回復と共に伊達家の片倉小十郎が蘆名軍を混乱に落としいれます。蘆名軍の劣勢がわかると、二階堂氏や石川氏などの蘆名の主力が撤退を始めました。
蘆名軍は総崩れ状態となり敗走するのですが、この時に悲劇が起こります。
撤退する蘆名軍は日橋川を渡り、居城である黒川城へ逃げようと、川に架かる橋へ殺到します。大将の蘆名義広は橋を渡れたものの、富田氏実は自軍が渡ったのを確認後、橋を落としてしまいます。
そのため、残りの蘆名軍は退路を絶たれ、川に落ちて溺死する者や覚悟を決めて敵軍へ突撃する者も出ました。結果的に、蘆名軍は川で溺れた者も含め、5000名以上の兵が戦死し、壊滅的なダメージを受けました。
一説によると、富田氏実と政宗は繋がっていて、あらかじめ仕組まれた作戦とも言われています。
敗走した蘆名義広は、居城へ逃げ込みましたが兵士不足により篭城を断念。そのまま城を放棄し、実家の佐竹義重の下へ敗走します。こうして、戦国大名としての蘆名氏は滅亡することになります。6月11日には、会津の黒川城を制圧しここを居城としました。
しかし、石川氏や二階堂氏などの蘆名の有力重臣たちが抵抗をしたため、すべてを鎮圧するのにさらに半年の時間をついやしました。
こうして、政宗は南奥州の覇権を握ることになりました。
蘆名氏への武力行使は、対外交政策の失敗が背景とされています。
跡継ぎが途絶えた蘆名の後継者として、政宗は弟の小次郎を据えようとしましたが失敗します。代わりに佐竹氏から義広を迎え入れられました。こうして、政宗は蘆名氏を武力行使するしか権力の拡大をできなかったのです。
南奥州の覇権を握った伊達政宗ですが、豊臣政権下では不遇の扱いを受けることになるのですが、長くなったので分けて記事を書きたいと思います。
②へ続く…