島津義久の九州統一戦と豊臣秀吉の九州討伐戦
龍造寺氏を倒した島津氏は、北九州の勢力も傘下に加え、九州統一を着実に進めます。一方で、島津氏に初戦でやられ、大人しくしていた大友氏は龍造寺氏の崩壊に乗じて、立花道雪を派遣し、北九州の旧龍造寺領へ侵攻します。
立花道雪の留守を狙い秋月氏の軍勢が攻めてきましたが、名将【立花宗茂】が追い返します。立花氏の活躍により北九州の支配地を取り戻しつつありましたが、陣中で立花道雪が病死。彼の死の影響で、大友氏による北九州の領土拡大は頓挫しました。
大友宗麟の臣従と島津氏の侵攻
大友宗麟は、中央で天下を収めようとしていた【豊臣秀吉】に島津氏との和睦の仲介を要請します。これを受け、豊臣秀吉は和睦交渉に乗り出しますが、島津氏はこれを拒否します。
これにより、豊臣氏と島津氏の緊張が走ります。
秀吉にも屈しない島津氏に、もはや単独で対抗できない大友宗麟は、1586年に高価な茶器を手土産に大阪城に向かい秀吉に謁見し
【豊臣家の傘下に入るので、島津から守ってほしい】とお願いしました。
こうして、大友氏は豊臣秀吉に臣従します。
島津VS大友の戦いは、天下人秀吉VS九州の覇者島津へと移ります。
秀吉が九州に介入するのを知った島津氏は、急いで北上の準備をしました。しかし、当主・島津義久は、大友氏の領地をどのように攻めようか悩んでいました。
大友攻めで、最短のルートは日向国を通る事でしたが、秋月氏からは【北九州の占領するには諸勢力が混在している筑前・筑後・肥前などを先に押さえた方が良い】と進言を受けていました。
島津義久は日向の東ルートか筑前・筑後の西ルートを半年近く悩み、1586年6月に東ルートをメインに、別働隊を西に派遣する2方向からの侵攻作戦が決定させました。
決断に半年の時間を要した事で、大友側に十分な準備期間を与える事になりました。
東ルートは、当主・義久と義弘・家久が率いる3万の軍勢で、西ルートは島津忠長が大将を勤める2万の軍勢でした。西側では、途中で北九州の勢力たちが次々と合流し、最終的には5万の軍勢に膨れ上がりました。
東側の義久は、西からの軍団と同時に大友領に攻め込むため、日向の地で一旦停止し、7月に西から進む島津軍は北九州に入り、大友家の拠点である岩屋城を包囲します。
大友側の岩屋城にいた兵力は、わずか800人足らずでしたが、ここを守っていたのは、大友家の名将【高橋紹運】でした。立花城を守っていた紹運の子【立花宗茂】は、あまりの兵力差に自分達と合流して対抗しようと勧めますが、高橋紹運は【自分達が命の限り戦えば2週間くらい持ちこたえ、そのうち豊臣軍が援軍に来る】と決死の覚悟で食い止める決意でした。
こうして、高橋紹運は島津軍の降伏勧告を断り5万の兵を相手に岩屋城で待ち構えました。島津軍5万は、一斉に攻撃を開始。攻撃側は数にものを言わせて攻めかかりますが、城を守る高橋紹運の兵たちの防戦は凄まじく、城は全く落ちませんでした。
時間がかかるにつれて、島津軍の損害は大きなものになって来ましたが、急がなければ豊臣軍が来てしまうので、持久戦はできず数に物を言わせて力攻めが続きます。開戦から10日たった頃、さすがに大友軍も疲労の色が見え始めますが、徹底抗戦を続けます。
そして、13日目についに城は落城…城兵800人全て戦死し、高橋紹運も自害します。しかし、攻撃側の島津軍も5000人くらいの被害を受け、この場所で半月近くも足止めを食らいました。
その後、島津軍は立花宗茂が守る立花城に進軍して行きますが、先の戦いで疲弊と疲労が重なっており、さらに宗茂の詐降の計略※にかかり苦戦します。
※投降を偽って近づき奇襲する計略
8月下旬になり、ついに豊臣秀吉から援軍、毛利氏の【小早川隆景】の軍勢が北九州に上陸します。その報告を受けた西ルートの島津忠長は、これ以上の進軍を断念します。
島津軍の後退を聞き立花宗茂は追撃を開始し、北九州の島津に落とされた城を奪還し、降伏していた龍造寺氏も豊臣軍に参加します。こうして、島津氏の西回り作戦は、失敗に終わり、北九州は豊臣・大友軍の勝利となりました。
大友・豊臣VS島津の初戦・戸次川の戦い
一方で、東ルートの島津義久は、大友攻めを日向国からの攻める作戦の一本に絞り、タイミングを図る事にしました。9月にはいると、四国の大名・長宗我部氏らが豊臣方の援軍として豊後の大友氏の本拠地に入ります。
この援軍は、まだ先に駆けつけた先発部隊に過ぎませんでした。豊臣本隊は、まだまだ兵を集めて準備していました。そこで、秀吉は、大友・豊臣軍に本隊が到着するまで堅く守り軽率な行動をとらぬようにと厳重な命令を与えていました。
しかし、この命令は大友軍にあっさりと破られます。
大友宗麟の子・義統が豊前の反乱を抑えようと、四国の仙石秀久と共に豊前に向かってしまいました。これを聞いた島津軍は、10月に日向と肥後の2方向から進軍を開始します。こうして、九州の東側でも大友・豊臣VS島津の戦いが始まりました。
戦況は、大友氏の若き武将達の活躍で島津軍を押していきます。
さらに、普段は引きこもって祈りを捧げていたばかりだった大友宗麟も自ら指揮を取り、ポルトガルから輸入した2門の大砲【国崩し】を発射し島津軍に炸裂します。
大友氏の国崩しの効果と仙石秀久の帰還で島津軍は、軍勢を再編成する事に…
そして、12月に大友氏本拠地【府内城】へ向かって進軍を再開し、途中の【鶴賀城】を方位を開始します。兵力差が1万以上ありましたが、城の兵士は2000の兵で頑なに抵抗していました。
秀吉に無理な戦闘を控えるように言われていましたが、仙石秀久はこの城の救援に向かうと主張し、反対する長宗我部元親と十河存保を無理に連れ出し鶴賀城の救援へ向かいます。
島津家久は、城の包囲を解き戸次川で、豊臣軍を待ち構えました。
戦場に到着した豊臣軍の仙石秀久は、川に渡り敵を蹴散らそうとし、長宗我部元親と十河存保に反対されますが、結局は川を渡り攻撃をする事になります。
それでも、四国・土佐の兵は強く島津の第一陣は壊滅状態になり、序盤戦は豊臣軍が有利に運びました。島津軍も、第二陣を繰り出し長宗我部軍を押し返し、第三陣も繰り出し豊臣軍を側面から攻撃します。
しかし、寒い冬に川を渡った影響もあり、豊臣軍は次第に不利になって敗走状態まで陥る事になります。この時、長宗我部元親の長男・信親が四国の兵を逃がそうと奮戦し、戦死してしまいます。この嫡男の死で、後日長宗我部氏では後継者争いが起き、没落の一途をたどる事になります。
また、十河存保も戦死し、仙石秀久は逃げるように四国に帰っていきました。その後、秀吉の怒りを買い領地を没収され、高野山でしばらく隠棲する事になります。
こうして九州の豊臣VS島津の初戦・戸次川の戦いは、島津義久の勝利で終わる事になりました。
豊臣軍本隊の到着
1587年1月、ついに豊臣秀吉の本隊が九州への進軍を開始。全国の豊臣傘下の大名家の軍勢が、次々と中国・四国地方を経由して九州へと上陸していきます。3月には秀吉自身も九州に到着し、豊臣軍の総勢はなんと20万人に…
この大軍を前に九州の諸勢力たちは、次々と豊臣氏に臣従し、北九州での戦局は、一気に豊臣軍に傾きました。この圧倒的な豊臣の大軍を前に、兵力が分散していては勝ち目がないと考えた島津氏は後退を開始し北九州方面から撤退します。
島津氏と共に抵抗していた秋月氏も、3月末に豊臣軍の蒲生氏郷に包囲されます。
秋月種実は、本拠地の城で守り時間を稼ごうとしますが、破棄した城を豊臣軍が1晩で修復し、ここを拠点に豊臣軍が攻撃を開始します。この一夜城で、豊臣家の兵力・財力を見せつけられた 秋月種実 は、それから間もなく豊臣氏に降伏しました。
秋月氏の降伏で、秀吉はよいよ本格的に島津攻めを始めます。豊臣軍は軍を2つに分け、豊臣秀長が率いる軍勢が九州の東側、日向方面から南下します。
一方、秀吉自身は西側の肥後を通って、南下しました。
4月に、島津軍は、かつて耳川の合戦で大友氏の大軍を退けた、日向の南にある難攻不落の城、高城付近に兵力を集め、ここで豊臣秀長の軍勢を待ち受ける事にします。
島津軍は3万5千の兵力を集め、南下してくる大軍を再び撃ち破ろうと考えていました。しかし、8万以上の大軍を擁している豊臣秀長の軍勢は高城を包囲すると、力攻めをせずに周囲に陣地や砦をいくつも作り、持久戦の構えを取ります。
時間が経つと西側から秀吉の軍勢が南下しているから、島津氏にとっては都合が悪く、そのまま睨み合いを続けていると、島津家の本拠地・薩摩に攻め込まれてしまいます。
難攻不落の高城とはいえ、そのまま大軍に包囲されていれば、いずれ陥落してしまいます。待ったの効かなくなった島津軍は、4月中旬に、高城を救援すべく根白坂の豊臣軍の砦にせめます。
負ける前提での攻撃だったので、島津家久は反対していたのですが、だからと言ってこのままジッとしている訳も行かないほど島津氏は、追い詰められていました。
高城の南、根城坂で激しい戦闘が開始されます。
島津義弘や島津家久など、島津軍の歴戦の猛者が先頭に立ち、2万の軍勢が根城坂の砦を急襲します。しかし、対する豊臣軍の軍勢も、柵や堀で砦の周囲を固め、さらに多数の鉄砲隊が配備されていて、襲いかかる島津軍を次々と砲撃で撃ち崩します。
鉄砲は、島津氏もあったのですが、秀吉軍の鉄砲は改良が重ねられており、連射性能が高く、必至で柵を押し倒して突破しようとする島津軍は次々とその餌食になっていきました。
疲弊した島津軍に、藤堂高虎が率いる500人の少数部隊が巧みな指揮で、島津軍を撹乱。浮き足だった所を、豊臣軍の小早川隆景と黒田官兵衛の軍勢が攻撃に参加すると、兵力差と歴戦の雄達の前に島津軍は勝ち目はありません。
大被害を被った島津軍はそのまま敗走し、そして4月中旬、高城も総攻撃を受けて落城。1587年5月、島津氏の本拠地・薩摩に迫る豊臣家の大軍を前に、ついに島津義久は降伏を決意します。
頭を丸めて豊臣秀吉の元に謝罪に向かった島津義久は、秀吉に絢爛豪華な宴会で迎えられ、盛大なもてなしを受けた後、降伏を受諾され、同時に島津氏の薩摩・大隅の領土を保証する約束を行いました。
これらは豊臣秀吉が天下統一のため、豊臣家に敵対することの愚かさと豊臣家に従属することの利点を世間に訴えるための、政治的なアピールだと考えられています。
一部、島津義弘などの武将は徹底抗戦を訴え、その後も戦闘を継続していましたが、義久の説得によって降伏し、5月の下旬には完全に戦いは終結します。
こうして、九州の各地の勢力も全て豊臣家の傘下に入り、九州の三国志物語は終わりを迎え、それから3年後の1590 年に豊臣秀吉により日本は天下統一される事となります。
その後の九州地方
天下統一後の1592年からは秀吉による朝鮮出兵が開始され、九州はその前線基地となったため、多くの兵士が駐留することとなります。
朝鮮出兵で大きな活躍をした、島津義弘、立花宗茂、加藤清正、小西行長は、 九州に領土を秀吉から与えられました。しかし、大友宗麟の跡継ぎ大友義統は、朝鮮出兵中に誤報を信じて城を捨てて撤退してしまうと言う失敗を犯してしまい、領地を没収されてしまいます。
宗麟は秀吉が九州に侵攻した頃にはすでに病死しており、これにより実質、大名として大友氏は滅亡する事となります。
朝鮮出兵の最中の豊臣家中の文治派と武断派の家臣の対立が深刻化すると、肥後の武断派の加藤清正と文治派の小西行長との両者の対立が激化。
加えて豊臣家の軍師で野心家でもあった黒田官兵衛も九州に領土を与えられており、没落した大友義統も、黒田官兵衛と協力してお家再興の機会を伺っていました。
1597年に豊臣秀吉の病死によって、朝鮮出兵は終了しますが、文治派と武断派の対立はさらにエスカレートし、豊臣家の文治派のトップ 石田三成が率いる西軍と、武断派を味方にした徳川家康が率いる東軍の関ヶ原の戦いに発展します。
各九州大名の関が原
黒田官兵衛は、この動きを早くから予期していて合戦の準備を整えていたため、関ヶ原の戦いの勃発と同時に挙兵。官兵衛 は関ヶ原の戦いを利用して九州に一大勢力を築き、天下への野望を持っていたとも言われています。
官兵衛は東軍への参加を宣言し、九州の西軍側の城を次々と攻略。加藤清正も東軍として挙兵し、西軍の首謀者の一人となった小西行長の領地に攻撃を開始します。
一方、立花宗茂は【 秀吉公の恩義を忘れ東軍に付くことなど出来ない】 と語り、西軍への参加を宣言し、関ヶ原の戦いに参加するため近畿地方へと出陣します。しかし、龍造寺氏の実権を握っていた鍋島直茂は東軍への参加を宣言し、立花宗茂の領地へ攻撃を開始します。
秀吉に没収された大友義統はお家再興のため、黒田官兵衛と協力する予定でしたが、旧知の間であった西軍の大将・毛利輝元の説得を受け、西軍への参加を宣言し大友氏の旧臣と共に挙兵し、毛利氏の援助でお家再興を狙うことにします。
これにより、黒田官兵衛は大友氏の力を借りれなくなり、まずは、敵となった大友義統を攻めることになります。一方、薩摩の島津氏は東軍に参加するために、島津義弘を近畿地方に派遣しますが、東軍に合流できず、義弘は石田三成の説得を受けて、西軍に参加することになります。
こうして九州は、各々が東軍と西軍に分かれてしまい、当然のように各地で同時多発的に戦闘が発生し、九州は大乱戦の様相を見せる事となります。九州の三国時代の様に、九州がそのまま戦乱に巻き込まれると思われましたが、そうではありませんでした。
なんと関ヶ原の戦いが短期間で決着し、西軍のトップである石田三成・小西行長なども処刑され、戦後処理も早いうちに片付いしまったのです。
肥後の小西行長の領土は加藤清正によって制圧され、後に加藤清正は肥後全土を治める大大名となります。
さすがの黒田官兵衛も、関ケ原が早期に終了すると思わなかったようで、占領した西軍の領地を全て徳川家康に献上し、以降歴史の表舞台には出ませんでした。関ヶ原の戦いで活躍し徳川家康 から褒美をもらった息子・黒田長政が帰ってきた時、【なぜ家康を刺してこなかったのか?】と言ったという逸話は有名です。
立花宗茂も西軍が敗れたため撤退し、仇敵だった両者は和解すると、共に並んで九州へと帰りました。しかし、鍋島直茂が立花氏へ進攻中でした。宗茂は鍋島直茂に決戦を挑むと、1300人程の部隊で鍋島軍3万の軍勢を一時撃破しますが、兵力が違いすぎて結局 押し込まれ、城で守りを固めることになります。
これに対し、島津氏が立花氏へ援軍を派遣し、戦乱はさらに拡大しそうになりますが、徳川家康からの停戦命令が各勢力に届けられたことと、加藤清正の説得もあり立花宗茂は降伏します。
こうして関が原の戦いの裏で行われた九州地方での戦乱は、あっけなく幕を閉じることとなります。東軍として活躍した鍋島直茂は正式に龍造寺氏を継ぐ事となり、以後は鍋島氏に変わり、佐賀・鍋島藩の藩祖として江戸幕府の藩主となりました。
こうして、1603年に徳川幕府が開かれ、時代は江戸時代に入り、260年の泰平の世が続くことになります。