戦国時代の天才軍師、竹中半兵衛と黒田官兵衛の絆
戦国時代の天才軍師といえば、竹中半兵衛と黒田官兵衛の戦国二兵衛が有名です。
私がイメージする軍師像は君主の側にいて、戦などの戦術や作戦を練ったり、その君主が困った時の相談役というイメージがあります。しかし、当時の信頼できる文章の中に軍師という表現の役職はなく、かわりに軍配者という言葉が出てきます。
戦国時代は軍師と呼んでいなかった!?
軍配者とは兵の配置や分担などを支持をした役割の人を言い、参謀に近い者だと考えられます。その指示は、陰陽道や占いで吉凶を判じた結果決められていたそうです。そういえば、中国三国時代の諸葛亮孔明が祈祷や占いで物事を決めていましたね。
この時期の日本で参謀のような地位にいた人達には戦の作戦などを指導しても、軍の指揮権がありませんでした。そこを考えると、半兵衛や官兵衛は、自前の手勢を率いて軍を指揮しており参謀とは少し違います。
これらを考えると、半兵衛や官兵衛は軍配者でもなく、参謀でもないことが分かります。半兵衛や官兵衛は戦の戦略・戦術を自分で考えて現場で指揮している事を踏まえると、一番しっくりくるのは軍略家と表現した方が良いかもしれません。
前置きが長くなりましたが、今回は日本で天才軍師と呼ばれた竹中半兵衛と黒田官兵衛の深い絆について書いてみたいと思います。
稲葉山城乗っ取りで有名になった竹中半兵衛
竹中半兵衛を世に知らしめたのは稲葉山城の乗っ取り事件です。
当時の稲葉山城は、斎藤龍興の居城で織田信長がその攻略にやっきになっていました。
それほど稲葉山城は、難攻不落な城とされていて、それをわずか手勢16名で乗っ取ったというので、世間は驚かないはずがありません。
この乗っ取り自体は、君主である龍興への懲らしめの意味合いが強いとされており、実際にわずか半年で龍興に城を明け渡しています。しかし、実際には稲葉山城で政治を行おうとした形跡があり、城の明け渡しは領地運営が上手く行かなかったからだと言われています。
半兵衛は無欲な天才軍師のイメージがありましたが、やっぱり戦国武将らしい野心はちゃんと持っていたのかもしれません。
黒田官兵衛と秀吉の毛利攻め
黒田官兵衛の名前が出てくるようになるのは、秀吉の毛利攻めの頃です。
1577年の信長が松永久秀を討ったころ、官兵衛は秀吉の播磨攻めに従軍します。これにより、戦国二兵衛がそろう事になりその後1か月足らずで播磨国を臣従させることに成功させています。
1578年官兵衛の人生のターニングポイントとなる事件が起こります。
一度、臣従した播磨にある三木城の別所長治が突然反旗を翻すことになります。この播磨で影響力が持っていた別所長治が反旗を翻したという事で、播磨一帯の国人衆が反旗を翻し秀吉軍は播磨の地にて窮地に立たさせます。
そして、悪いことは続くもので播磨と京の街を結ぶ要所に位置する摂津の有岡城の荒木村重までも謀反を起してしまいます。
この時竹中半兵衛は結核を患っていましたが、それを押して三木城の別所長治攻略に向かいます。一方で黒田官兵衛は、荒木村重の説得へ有岡城へ単身乗り込むことになります。
ところが、官兵衛は荒木村重に捕らえられて、土牢に幽閉されてしまいます。
この幽閉されていた期間は、1年にも及び頭皮は蚤やシラミに食い荒らされ、ひざは曲がったまま歩行困難になってしまったそうです。
この官兵衛投獄の知らせは、信長・秀吉にすら把握されておらず、官兵衛の連絡が突如途絶えた信長からしてみれば、謀反の疑いを考えなければいけません。そのため信長は人質の嫡男黒田長政※を殺せと秀吉に命じます。しかし、官兵衛の事を信じていた半兵衛は、嫡男長政の処刑を申し出て、信長の命に背く形で密かに長政を自分の居城に匿ったのです。
※この頃元服前なので松寿丸でしたが分かりやすく、元服後の名前を書きます。
1年後有岡城は信長軍によって陥落して、土牢から官兵衛が発見されます。この時、官兵衛の無実が証明されました。信長は、人質の長政を処刑してしまった事を悔やみましたが、後に半兵衛に匿われていた事を知って半兵衛に感謝したと言います。
この事を知って一番喜んだのは官兵衛で、半兵衛にとても感謝をしてもしきれません。しかし、その機会は訪れ事はありませんでした。竹中半兵衛は黒田官兵衛が幽閉されている間に三木城攻略中に亡くなっていたのです。
竹中半兵衛と黒田官兵衛の絆
なぜ半兵衛は、信長の命に背いてまで黒田長政を助けたのか?
半兵衛は、官兵衛が裏切らないことを確信したうえで、自らの死期が近いことを良くわかっていました。自分が処刑役を買って出て、信長の命に背いたとしても、その時には半兵衛はこの世におらず、さすがの信長も死んだものを処分することはできません。
半兵衛は、自分の死までも利用して一芝居打ったのです。
この一件以降黒田家では、竹中家の石餅の家紋を使い、半兵衛の子竹中重門が元服した時には、烏帽子親を務めています。半兵衛は死に間際に黒田親子に気遣う手紙も残していたそうです。
生前半兵衛は、官兵衛に厳しく接していたそうですが、その厳しさも自分亡き後の秀吉を支える人は官兵衛しかいないと考えての事だったのでしょう。
この二人の友情は、本人たちだけではなく子の代まで続くことになります。
1600年に起こった関ケ原の戦いでは、官兵衛の息子黒田長政と半兵衛の息子竹中重門がともに東軍として戦いそれぞれが武功をあげています。
徳川政権になると、黒田家は福岡藩に竹中家は幕府旗本としてその血筋を繋げていきました。