天下布武のため4回も引っ越した時の織田信長の家臣掌握術
本能寺の変で明智光秀に討たれ、天下統一を志し半ばで達成が出来なかった織田信長ですが、戦国時代を駆け抜けた英傑として色々な政策を打ち出しました。
その中でも、武田信玄や上杉謙信のように多くの大名たちが本拠地を変えず勢力の拡大を図るのが常識だった時代に、戦略に応じて拠点の引っ越しを行ったのは織田信長がパイオニアでしょう。
武田信玄は甲斐の躑躅ヶ崎館、上杉謙信は越後の春日山城、北条氏政は相模の小田原城と勢力を拡大しても生涯、本拠地を変える事はありませんでした。
他の大名に対して信長は、勝幡城で生まれ、古渡城で元服し、那古野城の城主となり家督相続後は、その居城を清須⇒小牧山⇒岐阜⇒安土城へと本能寺の変まで4回のお引越しをしています。
その時の状況に応じた判断が、拡大する戦線の諸大名に睨みを利かせ、あの大胆な戦略を可能としたのですが、いくら御屋形様の命令でもそれに付き合わせられる家臣や領民はたまったものではありません。
信長の方もそれはよく理解しており、彼なりに考えて家臣や領民たちの理解を得ていたようです。今回は、そんな信長の引っ越し時の家臣掌握術を紹介していきましょう。
美濃攻略の拠点、小牧山城への引っ越しエピソード
1562年頃、桶狭間の戦いで勝利した信長は、今川家の家臣だった徳川家康と清州同盟を結び後顧の憂いをなくし美濃攻略へ着手しました。そんな時、家老衆を引き連れて信長は、二ノ宮山へ登っていました。険しい山道を行き、どうにか山頂へ登り詰めた信長は、家老衆達に【※この嶺には某、かしこの谷合いを誰々拵え候(そうら)え】と具体的に指示を出したそうです。※信長公記に原文より…
訳すると、【ここを新たな居城と致す。あちらの嶺に○○の屋敷を建てよ。こちらの谷には○○の屋敷を…】などと言うようなことを言ったのでしょう。
美濃攻略への足掛かりとして、居城の北上を計画していた信長だったのですが、その候補地が険阻な地形を活かした二ノ宮山が選ばれたのですが、この決定に家臣や領民たちは不満をあらわにする者も少なくなかったそうです。
信長公記では、【難儀の仕合せなりと上下迷惑大方ならず……】
現在の清洲城は、脇に流れる五条川を始めとした水運に恵まれた尾張屈指の中心地でした。そんな都会の清州から山道険しい二ノ宮山への移住計画は、いくら信長の命令だと言えど嫌なものは嫌なのは当然です。
御屋形様の気まぐれともいえよう決定と、移住の準備や山奥での不便な暮らしと考えると家臣一同や領民たちの不満は日に日に満ちていくのでした。しかし、織田信長に逆らう事は出来ず渋々引っ越しに向けて準備を始めるのですが…
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織田信長の方針転換【英断】で移転先を小牧山に変更
移転期日が迫ってきたある日、ついに織田宿老たちが信長に再考を求めに来ました。
宿老たちから、家臣一同・領民たちの不満を一通り聞いたのち、信長は進言を受け入れ二ノ宮山の移転は取りやめ、居城を小牧山に改める旨を言い渡しました。
小牧山とは、清州より北ではありますが、二ノ宮よりは南で険しい場所ではなく、平野部を見晴らすように山(小牧山)が一つあり、近くに川も流れている場所でした。
この信長の決定に、家臣たちは喜びよりまず驚きを隠せなかったようでしたが、二ノ宮山へ移住する気持ちだった領民たちもこの決定に喜び、小牧山へと移住していったのでした。
最初から小牧山に移転するつもりだった
実は信長は、居城を最初から二ノ宮山に移すつもりはなかったと言います。
小牧山と言えど、清州よりは不便になるため、次なるミッションを遂行するモチベを維持するためにワザと不便極まりない山まで登りまでして一芝居打ったのです。しかも、二ノ宮山決定で皆の不安と不満を一通り煽り、爆発しそうなタイミングで【みんなの意見を聞いて小牧山に変えようではないか】と進言を聞き入れたように示したのです。
そうすると、不思議なもので【二ノ宮山よりマシ】と思うだけで小牧山が魅力的な場所に見えてきて、しかも信長様もわしらの意見を聞き入れてくれたとなるので一石二鳥です。
こうして、1563年に小牧山に居城を移転した信長は、そこを足掛かりにわずか4年後には稲葉山城を落とし美濃を攻略する事が出来ました。恐ろしく扱いずらいイメージの信長ですが、人の心をよく読んだ、なんとも上手な人心掌握術でした。