日本人のパンツの歴史は以外にも浅く、昔はノーパンが主流だった!!
我が子が小さい頃には、【なぜ?パンツをはくの?】なんて素朴な疑問をぶつけられたこともあり、その時には【大切な所を守るため】なんかと適当に答えていたのは良い思い出です。
他のパンツを履く意見としては、ズボンやスカートを汚さないためなどの当たり前の意見がありました。
現代の私たちは下着としてのパンツを当たり前に履いています。
しかし、着物が主流であった時代には、下着を着用する概念すらありませんでした。
今で言われる、パンツ(下着)の役割が上記のどれにも該当しない事になります。むしろ昭和の初期くらいまでは、パンツが存在しているのに着物を着用した際に下着のラインが見えるため、着用している人が少なかったそうです。
歴史的に見ると私たち日本人がパンツを着用しだしたのは、つい最近の事で新参者であるといえます。
そこで今回は、私たち日本人はこれまでの歴史の中でどんな下着を着用してきたのか、紹介していきたいと思います。
古代文明でのパンツ(下着)の始まり
下着の始まりは、紀元前3000年頃まで遡ります。
世界最古の文明、シュメール文明の時代に書かれた像の女性がパンツのようなものを履いているのが始まりではないかと言われています。この古代パンツは、腰布の端を固定する目的でつけられたと考えられています。
古代エジプトではシェンティと呼ばれる白い腰布が着用されていました。シェンティは革紐をベルトにして布を固定したもので下着よりも衣服としての意味合いが強かったようです。
やがてシェンティの上に薄い布の上に別の衣服を身に着ける習慣が生まれる事で下着の概念が誕生する事になります。
更に時代が進み、紀元前7世紀頃には胸を保護するアポディズムと呼ばれるブラジャーの原型が使用されるようになります。帝政ローマでは、胸布に詰め物をして着用するストロピウムやアンダースカートとしてカスチュラを着用していました。
そのカステュラを履き、太ももを宝石の付いたリボンで装飾し男性たちを誘惑していたことから、下着は徐々に性差を表すようになりました。
中世ヨーロッパでコルセットが誕生
中世ヨーロッパ前期にキリスト教が広がると、聖職者たちが女性たちを戒律により束縛する一環で胸のふくらみがはしたないものされ、バストやウエストを締め上げるコルセットが誕生します。
しかし、14世紀~16世紀のルネサンス期になるとコルセットは、乳房を下から持ち上げバストを強調する物へと変化します。
一方でパンツはドレスの下には履いておらずノーパンが主流になりますが、衛生上の問題や陰部が露出する弊害がある事から、ステテコなようなズボン状のカルソンと呼ばれる下着が誕生するが、女性が男性の服装を真似すると悪魔的である風潮から段々とすたれていくようになります。
ズボン状の女性下着が再び脚光を浴びるのは、1789年のフランス革命以降で、コルセットに代表される体を締め付ける宮廷ファッションに異を唱えた事で、布地が薄く、緩やかでゆったりとした開放的な装いが流行ります。
その下には腰から足首を覆うズボン状のパンタレット履きました。これが更にキュロット丈になり、さらに短くなってパンティの原型となりました。
古代日本には日本にパンツはなかった
冒頭でも述べたように、そもそも私たち日本人は江戸時代頃まで下着を着用しなければいけないと言う意識を持っていませんでした。
しいて下着の起源と言うならば、平安時代に御湯殿(宮中の風呂)に奉仕する女官が動きやすいように袴代わりに身に着けていた湯巻と呼ばれる白い巻きスカートのようなものが起源ではないかと考えられています。
とは言うものの、これはあくまでも袴の代用品であって下着として認識して使用していなかったので、これが下着だと言うにはチョット苦しいかもしれません。
つまり、平安時代の日本人は、基本的にノーパンが当たり前だったことが分かります。その後、この白い腰巻は室町時代になると公家の女性の日常着となって行きます。
日本初の女性用パンツを手にしたのは豊臣秀吉
現代のような洋物のパンツらしきものは、いつ頃日本に入ってきたのでしょうか?
それは、安土桃山時代に豊臣秀吉が行っていた南蛮貿易においてポルトガル船の荷物の中に女性用のパンツが入っていたと記録があります。現代の男性なら少しは喜んだかもしれませんが、パンツのパの字も知らない豊臣秀吉が手に取っても「なんだこれ?」の次元だったようです。
ちなみに、この南蛮渡来のパンツは秀吉の妻・寧々が着用した記録もありませんし、秀吉自身もはいてみたと言う事はなかったようです。
江戸時代に湯文字登場
そんなパンツと言う概念が無かった日本では、女性は基本的にノーパンかふんどしをしめていました。男性はふんどし一択だったようです。江戸時代になるとようやく肌着を着用する習慣が浸透し始めるのですが、それでもパンツをはくと言うより、腰に巻く湯文字が登場しました。
先ほども書いたように、平安時代に宮中の風呂に奉仕する女官が活動しやすいように、袴の代わりとして着用していた湯巻が湯文字の起源だと言われています。これが、下着の起源だと言われる所以だと思われます。
江戸時代に登場した湯文字は緋色か白を始めとし、老女は浅葱色。大坂では遊女が赤で素人は白、三重では黄色と言う感じで色に関してはレパートリーが豊富に取り揃えられていました。
湯文字は履くタイプではないので、布二枚を並べて長方形に縫った上部に腰ひもを縫いつけて腰に巻いて着用しました。ちなみに、江戸時代の銭湯は混浴であった為なのか分かりませんが、女性は必ず専用の湯文字をつけていたようなのですが、これがまくれ上がらないように鉛のおもりが縫い込まれていたようです。
現代のパンツではないものの、湯文字のレパートリーやまくれ上がらない工夫などを見ると、江戸時代の人たちも下着については結構力を入れていたように思えます。
パンツが主流になったのは洋服のおかげ
明治維新後、洋服を着るような階級の人たちの間では、さすがに湯文字ではカッコが悪いと言う事で、ズロースと呼ばれる洋風の下着をつけて洋服を着ていたようです。
でも、男性はまだふんどしの一択だったようです。
しかし、1923年に起きた関東大震災で日本人女性が下着をつける文化を促進する運動のキッカケとなりました。
震災の時に池や川にうちあげられたおびただしい女性の死体の姿などから、女性の下ばきの必要性が叫ばれるようになったと言います。
また、避難する時の和服の不便さが問われ、政府と生活改善同盟会が「外出時には洋服とズロースを!」と言うスローガンを打ち出しましたが、脱・和服と着・ズロースとまでにはいきませんでした。
ところが、日本人女性にパンツをはかせる決定的な事件が起きました。
それが白木屋火災事件です。
昭和7年に起こったこの火災は、日本橋にあった白木屋(現在の東急百貨店)がクリスマスツリーの装飾修理のときに火花が飛び散り着火してした火災でした。消防隊が救助に駆けつけましたが、14名の女性が自分の体重を支えきれない、あるいは救助されることを躊躇したため焼死・墜落死したのでした。
この救助を躊躇したがポイントで、まだ多くの女性が着物を着ていた当時、綱で降りても救命ネットに飛び降りても着物がめくれ上がる事を嫌がり救助自体を拒んだ人が多くいたのです。
この火災事件以降、白木屋では女性店員にズロース身に着けるように義務付けられ、国内でも「パンツをはきましょう!」と言う運動が起きました。
こうして女性は下着にパンツをはくようになったのですが、男性は依然ふんどしで、着物の時はノーパンスタイルを貫いていました。
戦後の洋服化とパンツの定着
終戦後の日本では、女性は和服から洋服に切り替わるとともに、下着としてパンツを着用するようになりました。当初は、ズロースのような下着でしたが、徐々に現在のパンツに近づいていくようになりました。
この服装の欧米化は、男性にも影響を与えるようになり、洋風のパンツが一般的になりました。当時のパンツは、おまたがブラブラしないように昔ながらの白ブリーフが主流で、ファッションと言うより機能重視であったようです。
ミニスカートが流行りだした1960年~70年代になると、体に密着した小さいパンツを合わせるようになり、ドンドンと体を覆う部分が小さくなりました。こうした、ピッタリとした小さなパンツは、基本的には機能性より見た目重視で、その素材もコットンより化学繊維が主流となりました。
こうした中でも、近年ではフンドシが見直されています。
フンドシは脱着も簡単で機能的、しかもゴムの締め付けが無いので風通しが良く汗の吸収も良いので清潔で見直されてきています。今の時代、古き良きものが段々と見直されている時代、体を締め付けるパンツをやめて日本の伝統文化のフンドシを身に着けてみてはいかがでしょうか?
※2021年9月05日更新