桓武天皇と長岡京・平安京への遷都
『徐々に寺院が力を付けた平城京から離れるためにも遷都しよう!』
という事になったわけですが、すぐに794年の平安京に移ったわけではありません。
その10年前に京都の長岡京へ遷都しようとする動きがありました。
今回はそんな長岡京や平安京の遷都に関するお話です。
前回話題にした称徳天皇の後継ですが、色々とゴタゴタが続いたので天武系の血筋から天智系の天皇へと方向転換する事になります。そのゴタゴタは以下の記事で書いています。
桓武天皇の即位
孝謙天皇は、安倍内親王時代にかなり若い段階で既に立太子しています。それが理由で、他の聖武天皇の皇女から男児が産まれるのはマズい状況にありました(男児が産まれると「安倍内親王以外を皇太子にした方が良い」という勢力が出て来るからです)。
そんな状況ですから、聖武天皇の皇女である井上内親王もまた配偶者を持てない斎王の任に就いています。夫を持つのも子を持つのも全ては孝謙天皇が即位した749年以降です。夫は『凡愚・暗愚』とも称される天智天皇の第七皇子の第六皇子(つまりは天智天皇の孫ですね)の白壁王と言われる人物で、皇位継承からは程遠くにありました。
白壁王は皇位継承争いに巻き込まれないように凡愚・暗愚を装っていたそうです。
一方の孝謙天皇のもう一人の姉妹・不破内親王は天武天皇の孫・塩焼王と結婚しています。こちらの不破内親王は聖武天皇の考えで後に皇統を継がせるための男児を望まれての結婚だったようです。
ところが、この塩焼王は度重なる女官とのスキャンダルが原因で皇位継承権を喪失します。これが742年。不破内親王もこの時に内親王の称号を剥奪されていたと考えられています。これは想像ですが光明皇后や藤原氏の意向があり、意図的に事を大きくし政局を動かしているように思われます。
そんな塩焼王と不破内親王ですが、結局、藤原仲麻呂の乱(=恵美押勝の乱)で次期天皇に担ぎ上げられたことから塩焼王は処断。不破内親王はその処断を免れていますが、その後769年に称徳天皇の死を願ったとして都から名前を変えられて追放されることになります。
彼女らの同母弟もまた744年の段階で毒殺されており、とにかく天武系統の男児がことごとく葬られてきたわけです。
更に、そこへ僧・道鏡を跡に継がせようとする称徳天皇。周りの貴族らは天武系(聖武天皇の皇女)の血筋もひく他戸王(おさべおう)をつけるのが筋じゃないか?ということで、まずはその父・白壁王を皇位に就けようという動きになったそうです。ここで天智系の光仁天皇が誕生します。この光仁天皇は即位の頃(即位770年)既に60歳代。かなり高齢での即位となります。
実はこの即位の時に中心的に動いていたのが、藤原北家(藤原不比等次男・房前が祖)出身で称徳天皇朝では左大臣にまでなっていた藤原永手と式家(藤原不比等三男・宇合が祖)出身の藤原良継と百川。
この北家と式家の間でも様々な思惑があり、式家の良継と百川は他戸王をつけるのに反対でした。何しろ、他戸王を皇位に就けようと言い出したのが北家の永手。他戸王の母親は井上内親王で県犬養の出。あまり式家に優位には働かないように見えます。
そこで担ぎ上げられたのが山部王。光仁天皇の第1子ではあるものの生母が渡来系氏族である和氏出身の高野新笠ということで皇位には遠い位置にありました。ところが、他戸王の母・井上内親王が呪詛で光仁天皇を陥れようとしたとする罪で皇后の座を追われると他戸王も廃太子にされてしまいます。
その後773年にも井上内親王と他戸王が光仁天皇の姉の内親王を死に追いやったとして大和宇智(うち)郡に幽閉されています。その幽閉機期間中、二人は同日に亡くなりました。
そして同年、様々な陰謀が重なって山部王は皇太子となります。なお、藤原式家は山部王の元に娘を送り込んでいます。結局781年、病気がちとなった光仁天皇が譲位する形で山部王が桓武天皇として即位する事となりました。
長岡京へ遷都
前置きが長くなりましたが、裏では以上のような権力闘争が行われている中、仏教勢力を確実に収めるための計画がなされていました。
長岡京への遷都です。
この長岡京への遷都も一筋縄ではいきません。遷都自体は784年に行われていますが、その翌年の785年にある事件が起こります。
長岡京への遷都に中心的に関わった、桓武天皇の腹心で良継の甥でもある種継が785年に暗殺されたのです。この数日前に死去した大伴家持が首謀者として官籍から除名。他にも多くの貴族が処罰の対象となっています。さらに、ここで疑われたのが種継と不仲だった皇太弟の早良親王。無実だと訴えた絶食により亡くなっています。
早良親王は寺院とのゆかりも深く、遷都阻止を目的に種継の暗殺を企てた疑いがかけられたそうです。
これを機に、洪水や疫病が流行した他、桓武天皇の周辺で人が亡くなったり病気になる人が続出。皇太子の安殿親王が発病したり桓武天皇の妃・藤原旅子、藤原乙牟漏(おとむろ)、坂上又子(坂上田村麻呂の同母兄弟)、更に桓武天皇と早良天皇の母・高野新笠までもが病死しています。
あまりに不幸が続くために早良王の祟りとして恐れられ、幾度も鎮魂の儀式が行われました。洪水や疫病は選んだ土地が悪かったこともあるでしょう。とにかく祟りをどうにか治めようとした最善の方法が長岡京からの遷都でした。
10年という短い間でしたが、以上が平城京から長岡京への遷都と長岡京から平安京への遷都をする経緯になります。
皇位継承者にとって受難の時代だったのが分かりますね。