『俘囚(ふしゅう)とは何?』と9世紀以降の俘囚の反乱ついての考察
平安時代の災害史を探している際、度々目にした俘囚が気になったので調べて考察します。
俘囚とは奈良時代から平安時代にかけて中央政府に服属した蝦夷の事。彼らは朝廷への服属後に全国各地へ送られましたが記録には817年を最後に強制移住に関する記述はなくなっています。
全国へ送られた俘囚を受け入れた国の国司たちは、俘囚の監督・教化・保護・養育に努め、税も免除していました。定住先での生活に慣れるまで食糧も支給(俘囚料)しますが、時間がたっても自活することなく俘囚料はずっと給付されたそうです。
元々蝦夷は日常生活で弓を使っていたり馬を飼っていたりしたため軍事的な手腕に優れていたと言われています。また製鉄技術にも優れていたのでは?という話もあります。馬を飼い馬術に優れ更に製鉄技術もあった(かもしれない)となれば、政府としては無視できませんね。
朝廷の軍事的穴埋めの人材
桓武天皇政権下には莫大な人数の兵力だった軍団を廃したことや租調庸や雑徭などの負担から兵の質が低下していたこともあって軍事的手腕に優れた俘囚はその穴埋めをする絶好の人材だったと考えられます。
また、忘れてはいけないのが当時の日本の状況。俘囚を強制移住させていた時期、日本はまだ唐からの影響を強く受けており「小中華帝国」の様な律令国家として存在していたことから「天皇の徳を示す」ために文化・習慣の異なる民族であろうと「公民化」させる方策を取っていたことが分かっています。俘囚以外にも誤って漂着した新羅人も俘囚と同様、課税なしで強制的に「公民化」させていたようです。
漂着新羅人の強制帰化は小中華帝国の体面を誇示する意図(日本が新羅より上の立場ということを示す意図)と一般公民の「皇民化」が目的と指摘されています。
新羅は唐との関係により日本との関係も変えていますが、日本は唐と新羅が緊張状態の時のままの新羅との関係を維持しようとしていたことから日本と対等な関係にしようとする新羅と険悪に。後に新羅が日本へ攻め入る原因になったのではないか?と個人的には考えています。
俘囚の主な分布
こういった事情から俘囚は全国各地に散り散りとなりました。下図は俘囚がどの国に移住させられたかを記す図です。
出典:社会実情データ図録俘囚の地域配置より
特に肥後(熊本)、近江(滋賀)、北関東の常陸、下野、播磨(兵庫県南西部)あたりの俘囚の人口数は目立ちます。地域的には関東・九州・四国と言ったところでしょうか。
肥後は今でも馬刺しで有名。奈良時代には既に良馬で有名な牧があった他、北関東も平将門の乱でお話した通り良馬を特産としていたことが分かっています。また、左右馬寮の所轄で京周辺の牧は摂津・播磨・近江・丹波国にあります。この所轄すべての国で俘囚が移住していることからも俘囚と馬の関係はかなり深いことが分かると思います。
俘囚の反乱
そんな俘囚ですが、幾度か反乱を起こしています。
814年・・・出雲で荒橿(あらかし)の乱
848年・・・上総国で俘囚の乱
855年・・・陸奥の奥地で俘囚が互いに殺傷
878年・・・出羽国で元慶(がんぎょう)の乱
939年・・・出羽国で天慶(てんぎょう)の乱
上総国は古くから東北地方経略の根拠地と言われ、穀類輸送などの重要拠点でもあります。9世紀中頃に東北地方に関連する地域で相次いで混乱が起こったのは、9世紀初め~半ばにかけての疫病や長雨・飢饉と無関係とは思えません。
また、9世紀の東北地方では度々複数の火山が噴火し地震にも何度か見舞われています。この災害を蝦夷反乱の前兆であると朝廷は捉えていたようですから、かなり厳しい目で俘囚含む蝦夷たちを見ていたのではないかと思われます。こういった事情も俘囚の反乱へと発展した遠因になったのではないでしょうか?
878年の元慶の乱は、859年以降の旱魃・飢饉が東北でもあったためと考えられています。同様に939年にも苛政により天慶の乱へと発展したと言われますが、この天慶の乱については参加した者の中にアイヌや渡島(おしま・北海道の南西部)の狄(てき)がいたのではないかと言う説があり、詳細は分かっていません。
それでも上総国や東北での反乱は、大人数の俘囚が移住させられていたことや蝦夷の本拠地である事から想像がつきやすい場所での反乱と言えますね。
ところが、出雲はどうでしょう?
700年代後半から814年以前の出雲周辺での災害・・・石見・安芸で大水により税免除。これが813年6月にあったと記録されています(『島根県歴史大年表』2001年3月 藤岡大拙監修 郷土出版社)。
ですが、出雲での俘囚受け入れは54人。
単発の災害で非常時の軍事要員になり得る俘囚が反乱を起こす位追い込まれる程、出雲国にとって負担が大きかったのでしょうか?これは他国との比較でみることが出来るかもしれませんね。
ということで、まずは田籍(=口分田の面積を記した土地台帳)を見てみましょう。
他の上国(国の大きさにより大国・上国・中国・下国に分けられています)と比べると、特別口分田の面積が大きいわけでも小さいわけでもありません。出雲と同じ人数を受け入れた伯耆国(ほうきのくに・現鳥取中部から西部)では出雲よりもさらに口分田の面積が小さい事が分かっています。それどころか、かなりの人数を受け入れている肥後は、出雲に比べるともっと口分田が少ないという状況です。
(九州の場合は国司の上に更に大宰府という組織がありますから比較するべきではないかもしれません)
九州の場合は国司の上に更に大宰府という組織がありますから比較するべきではないかもしれません
それを考えると、食料だけの負担だけとは思えません。
他に俘囚の負担になりやすそうなことと言えば、やはり戦乱。
次は出雲周辺の戦乱を見てみます。
出雲に近い地域での戦乱と言えば、近い年代だと811年以降の新羅から対馬や九州への度重なる侵攻です。 当時の新羅は8世紀半ばの相次ぐ飢饉等で社会的に疲弊しており、王位簒奪など宮廷内で内紛が続いていました。そんな状況下で811年12月に賊徒が対馬へ20艘以上の船に乗ってやってきます。最初に着岸した船に乗っていたのが10名ということなので単純計算で200名以上の賊徒がやって来たことになります。
この新羅の入寇の際は出雲にも警備の参加が促されたと言われています。そして、この侵攻は813年2月にもありました。この時も100名以上の人数です。人数が人数なので国や私豪族による組織的な犯行の可能性も考えられていますが、明らかにはなっていません。
まとめ
これらを整理してみると、
■811年末(ほぼ812年に近い時期)
新羅の賊徒が対馬へ侵攻 ← 出雲の俘囚も警備へ?
俘囚が警備にいった記載は見つかりませんでしたが、出雲から賊徒侵入に対して警備が向かったのは確実
■813年2月
新羅からの賊徒が長崎の五島列島へ侵入 ← こっちも警備?
■813年6月
石見・安芸で大水
短期間に相次いで出雲では災難が起こっています。ここら辺が俘囚反乱の原因になったのではないかと考えられます。
そんな強制移住された俘囚でしたが、相次ぐ反乱に頭を悩ませた結果897年には奥州へ還住する事になりました。
俘囚は戦い方や武器など後の武士に大きな影響を与えた集団ということもあって調べてみましたが、後の時代「東北地方の兵は強い」なんて言われるその片鱗を見た気がします。