藤原道長はどのように『望月の歌』を詠むまでに至ったか?
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
この歌は、藤原道長の三女・威子(いし、たけこ)が後一条天皇の立后祝いでの饗宴の席で歌われた有名な歌です。同母姉・太皇太后の彰子、皇太后・妍子(けんし)と共に一家に三后が立つ前例のない程の出来事で、自身の栄華を誇ったものと言われています。
この世は自分のためにあるようなものだ、満月=望月の欠けたことが無いように。
現代語訳に直すと、おおよそこのような意味です。
皆さんはこの歌を聞いて何を思いますか?
驕りすぎだと感じることもあれば、それすら許される藤原道長の凄さを感じることもあるでしょう。その一方で、満月に例えたことはこれから欠けていく不安の様なものを感じさせます。
今回は藤原道長がこの歌を詠むまでの経緯、心情、背景を考察していきます。
藤原道長はどんな人物だったのか?
藤原道長は966年、藤原兼家の五男(三男?)として京で生まれます。家族や親戚が摂政関白として朝廷の中枢を担っていましたが、普通に考えれば藤原氏の氏長者となるには遠い立ち位置の人物です。
当時の貴族達は婚姻関係を通して権力争いを行っていましたから、子沢山なことが多い。藤原氏はその中心にいますし、藤原氏のエリートだと言っても何かあればすぐに転がり落ちることもあり得るといった状況でした。そう考えれば五男という出自は「自分がやらなければ誰の助けも得られない」境遇だったと言えます。
そういった環境で育ったためか、※策略家な面がかなり見えてきます。また、強気・豪胆な性格だったと思われる逸話も数多く残っています。
肝試しで兄弟の中で唯一最後までやり遂げた話や、道長の父・兼家が関白頼忠の子・公任を褒め「我が息子達は公任の影も踏むことが出来るか」と尋ねた時に黙りこくっていた兄弟の中で唯一「影だけでなく、面も踏んでやりましょう」と返したエピソードが有名です。
NHKの『その時歴史が動いた』では策略家ではなく権力争いのない穏やかな政治を目指していたという解釈でした。が、目指す先が穏やかな政治であっても「それ」を得る過程で状況的に策略・陰謀を駆使したと思われる出来事が幾つもあり個人的には策略家の印象は拭えませんので、あえて策略家としています。
藤原道長の転機
987年の藤原道長が22歳の頃、源雅信の娘・倫子(当時24歳)との結婚で訪れます。
当時の男性貴族は女性の家へ婿入りする事が多く、妻の実家の良し悪しが今後の出世に大きく関わります。宇多天皇の流れを汲み宇多源氏の祖でもある雅信はいわば藤原氏の牽制要員として左大臣にまで既に昇進しており、かなり強力な後押しが期待できる人物でした。
ところが、藤原氏と言えども五男では将来性も感じられず、また倫子の嫁ぎ先は皇室へとの考えもあって雅信は娘と道長との結婚には猛反対していました。それを覆したのは雅信の妻で倫子の母。道長に将来性がありそうだと夫を説得、結果的には結婚できることになりました。
もちろん将来性という不確かな事だけでなく、
- 花山天皇が在位短くして退位した事(年齢的には釣り合いが取れていた)
- 跡を継いだ一条天皇だと年齢(当時7歳)が不釣り合い
こういった事情も見逃せません。
源氏が藤原氏と政敵だった関係を少しでも良くしようという意図も見え隠れしています。
とにかく偶然や本人の資質等が重なり、出世競争の糸口を結婚により掴むことになるのです。実際に倫子との結婚によって8700坪の広大な土地を譲られており、妻の実家からの援助がいかに強力だったか伺えます。
赤斑痘(あかもがさ=麻疹)の流行
歴史を大きく変えた疫病の流行です。公卿の半数以上が赤斑痘で亡くなり、藤原氏もこの疫病に抗えず何人か亡くなっています。
兼家が990年7月に62歳で亡くなった後、この疫病の流行や元々持っていた病により氏長者候補が次々と死去。ここで今までは氏長者とは縁遠かった藤原道長が一気に藤原氏の中心的人物候補へと近づきます。
この時点では兼家の長男・道隆の息子『伊周』が健在だったので、道長が氏長者となる決定打に欠けています。ここで助け舟を出したのが藤原詮子、道長の姉に当たる人物です。詮子がどうして助け舟を出したのでしょうか??
藤原道長と伊周の政権争い
伊周の地位も高いままということで、まずは関白の地位に就くよりも太政官(現在の内閣のようなもの)を掌握する方が道長にとっての重要事項でした。
その後に996年には藤原伊周らによる花山法皇の暗殺?未遂事件が起こります。この長徳の変により一気に道長勢力が優勢に。一条天皇と仲睦まじかった嫁定子はこの時ちょうど里帰り出産中で兄が捕まるのを目撃。ショックのあまり出家することに。
こうなると周りに有力なライバルがいなくなり関白の地位に就きそうなところですが、道長はあえてその地位につかなかったと考えられています。
なぜ?藤原道長は関白に就かなかったのか?
当時の状況として、外交や財政に関わる問題について太政官の公卿による合議(=陣定・じんのさだめ)で決めていたという事実があり、この陣定では摂政も関白も口を出せず、陣定のトップは一上(いちのかみ)が勤めます。一上は太政大臣・摂政・関白を除く公卿の中の最高位にいた人物がその資格を有します。摂政・関白はあくまで会議で上がってきた奏文を裁決する立場です。
道長の場合はライバルが自滅してくれたため、陣定で一上として積極的に関わりつつ内覧として太政官から上がってきた文書をチェックして公卿を統括する方が関白の地位に就くよりも議定を意のままに出来たと考えられます。
ライバル・藤原伊周の朝政への復帰
997年には伊周が恩赦のために帰京(詮子の病気回復を願うため)、すでに大臣枠は埋まっていたため准大臣(大臣に准ずる待遇で伊周が初例)として復権。
伊周の罪が許されたことで一条天皇は再度定子を宮中に迎え入れます。ところが出家後の再入内は貴族達からの顰蹙物で風当たりの強いものでした。
それを裏付けるかのように定子の定位置は見てはいけない「何か」が出そうな建物で後宮と言えないような場所。それでも人目を気にしつつ一条天皇は定子の下へ通っていたそうです。999年には二人の間に一条天皇の第一皇子・敦康親王が産まれます。道長の長女彰子が入内したのはちょうどこの頃12歳のことです。
既に道長は大きな権力を握っていましたから公卿の中にはそれを快く思っていなかった者も多くいたことでしょう。敦康親王が生まれたことで再度伊周を担ぎ上げようとする者達もいたようです。
このことに焦燥した道長は彰子を皇后として冊立(1000年2月、敦康親王が誕生されて約2か月後)。既に定子がその地位にいたため史上初めて一帝二后となりましたが、その年の暮れ定子は難産の末に命を落とします。敦康親王が2歳のことでした。
道長の野望
敦康親王は、まだ子が無かった彰子の下で養育されます。産まれた子は本来母の実家で育てるのが通例でしたので、彰子の下に第一皇子を預け道長の管理下に置くことで息子の生き残りを図ろうとしたのかもしれません。道長にとっては彰子に子が出来なかった時の保険の様なものだったのでしょう。
この8年後、彰子にも道長待望の第二皇子敦成(あつひら)親王が誕生し、伊周の出世の道が完全に閉ざされます。さらに2年後の1010年、伊周薨去。1011年には一条天皇が三条天皇(冷泉天皇の第二皇子)に譲位後、崩御。
この時に立太子したのは一条天皇の第二皇子で道長の孫に当たる敦成親王。彰子と一条天皇は第一皇子を推していましたが、道長の意向に押し切られたような形です。この頃の道長の権力は既に相当なものになっていたのでしょう。
三条天皇の母は道長の姉超子で三条天皇と道長は甥・叔父の関係に当たりますが、姉の超子は早世していた上、三条天皇自身も成人してからの即位のため二人の関係は非常に薄いものだったと言います。
この三条天皇の下には道長の次女の妍子が入内しますが、道長と三条天皇は仲違い。妍子が産んだのも親王ではなく内親王だったことで三条天皇と道長の険悪さが改善する事はなく、政務も停滞。三条天皇は1014年以降眼病を患い、それを理由に道長から退位を迫られます。自身の息子である敦明親王の立太子を条件に1016年退位し、道長念願の孫の敦成親王が後一条天皇として即位します。同時に道長自身も摂政として権勢をふるいますが、その一年後には摂政の地位を道長の長男頼通に譲り太政大臣として政界に残ることとなりました。
敦明親王は後に道長の圧力で自ら皇太子の地位を降り、皇太子(弟)の地位を敦良親王に譲ってます。敦良親王は道長の長女彰子の次男で一条天皇の第三皇子に当たる人物です。
更には1018年、後一条天皇に自身の娘の威子を嫁がせます。この祝いの席で【望月の歌】が歌われたのです。道長の望みが叶い、藤原氏としても絶頂期を迎えた時期となりました。
仕事面では順調だったけど…
道長は長女彰子の入内前の33歳の頃、大病を患い出家を天皇に申し出るほどの病状だったそうです。その後も度々病にかかっていたことが分かっており、威子入内の前年にも病魔に侵されていたことが分かっています。威子入内直後にも胸痛があったとか。
とにかく道長はかなり順調だった仕事に対し、プライベートでは病に侵されるという散々な状況だったと言えます。多少気弱になっても不自然ではない状態です。
この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
通常通りの解釈だと『この世は自分のモノの様だ、満月のように欠けることのないように』となりますが、この道長の体調面を考えると単純に言い切れないのでは?と想像してしまいます。
もちろん個人的な憶測でしかありませんが、『そんな心情を想像するのも歴史を学ぶ醍醐味じゃないかな?』と思います。