詮子が藤原道長を援護した理由
藤原道長の栄華のきっかけになった姉の詮子(せんし)。『可愛い弟のために…』という理由も聞きますが、どうにもそれだけではなさそうです。
道長や詮子の父兼家と兼家の兄兼通との抗争が、詮子とその夫円融天皇そして伊周(これちか)との関係にも大きく関係しているように見えます。そんな訳で、兼家・兼通の権力抗争とその影響を受けた詮子の人間関係について調べていこうと思います。
兼通・兼家兄弟の不仲は何がきっかけなのか?
実を言うと、兼家・兼通の権力闘争は詮子の夫円融天皇朝に表面化していますが、そもそも兼通と兼家の関係悪化は、前天皇冷泉(れいぜい)天皇朝の頃に遡ります。
冷泉天皇の関白として藤原実頼(さねより)が就きますが、天皇と外戚関係になく弱い立ち場にいました。一方で、兼家らの長兄伊尹(これただ)は妹安子(あんし)が冷泉天皇の母、つまりは外伯父であることで優遇されます(父は既に死去)。そんな中、伊尹は自らの政権基盤を盤石にさせるため特に兼家を優遇します。※安子は964年に崩御
安和の変という藤原氏最後の他氏排斥事件により源高明と冷泉天皇と円融天皇の兄弟為平(ためひら)親王が左遷。この裏にいたのが伊尹と兼家だったと考える学者さんもいるそうです。こういった貢献が伊尹が兼家を優遇した理由だと思われます。
兼通は弟が自分を差し置いて出世するのを見て複雑な思いを抱きます。とにかく、この辺りから兼通と兼家の関係は悪化していきました。
円融天皇の即位
969年に冷泉天皇は譲位し11歳で円融天皇が即位。幼年のため摂政か関白を置く必要がありました。実際に実頼・伊尹が摂関として政治を補佐しますが、2人とも972年までに死去。その後の関白候補に名が挙がったのが頼忠、兼通、兼家です。
結局、円融天皇が選んだのは兼通。その選ばれた理由と言うのが、円融天皇の母安子の『揉めた時は兄弟順で』という遺言でした。
この遺言、恐らく安子の夫・村上天皇に何かあった時のために残していたものだったと思われます。子沢山なうえ、冷泉天皇には精神の病があったそうですし。
関白・兼通の方針
兼通は徹底的に兼家を抑え込む方向で動きます。同時に、自身の娘媓子(こうこ)を円融天皇に入内させ足元固めもしていきます。円融天皇と媓子は姉さん女房で歳こそ離れていましたが仲が良く、中宮にまでなっています。
そのまま順調に事が進めば問題ないのですが977年に兼通が病を患います。
病気の報を聞いた兼家が自宅近くに来たことを家人から聞いた兼通は「ようやく見舞いに来たか」と思っていたら素通りして禁裏に向かっていたことを知り激怒したなんて逸話も残っているようです。こういった経緯もあって最後の最後まで兼通は兼家に嫌がらせをします。死の直前に実頼の息子頼忠を関白に就かせたのです。
兼通と頼忠は以前氏長者を譲ってもらうなど親しい仲だったそうなので、見舞いの一件が無くても関白の地位を譲る予定だったという話もあるようです。
兼通の誤算?と詮子と円融天皇の関係の変化
兼通が健在のうちは、円融天皇や冷泉天皇の外伯父という同じ立ち位置にいた兼家を抑え込めましたが、立場の弱い頼忠が関白となると兼家の存在を無視するわけにはいかなくなりました
円融天皇も兼家との和解を望み、右大臣にまで押し上げています。加えて、977年には頼忠の長女遵子(じゅんし)と兼家の次女詮子(せんし)が入内しています。
遵子に子が出来れば恐らく力関係も変わっていたのでしょうが、子が出来たのは詮子のみでした。980年に懐仁(やすひと)親王(一条天皇)が誕生します。円融天皇唯一の皇子だったことから兼家の発言力がグッと増すことになりました。
さて、その間の979年。もう一つ詮子らの話をするのに避けられない出来事が起こります。円融天皇中宮媓子が崩御したのです。中宮位が空位となったことで、遵子と詮子の間でこの地位を巡り争う事態となります。
結局、982年に中宮位に遵子がつくことに。これ以上兼家の発言権が増す事態を恐れてのことだと思われますが、詮子と円融天皇の仲は立后の件もあって険悪となってしまいます。もちろん、兼家と円融天皇の関係も悪くなったことは言うに及びません。これが2年後の花山天皇の譲位に繋がっていきます。
一条天皇の即位
円融天皇から譲位を受けた花山天皇は政治で有能でしたが、私生活は派手で貴族の女性たちに手を出しては捨てる事を繰り返していたようです。
そんな中花山天皇が本気になった娘を妊娠中に亡くなってしまったことをきっかけに仏道への関心が高まります。
そこに目を付けたのが兼家。花山天皇は冷泉天皇と伊尹の娘の子でしたので、自身の孫懐仁親王を皇位につけたがっていた兼家にとっては邪魔な存在でもあったわけです。そこで画策したのが寛和(かんな)の変。
年の近い息子道兼に花山天皇を一緒に出家しようと誘い出させ、その間に即位に必要な三種の神器を皇太子の居所に遷したうえで内裏諸門を封鎖。騙されたと気が付いた時には出家する他なくなる事態となっていました。
このような形で花山天皇が退位し、わずか七歳の一条天皇として即位。もちろん頼忠は花山天皇の退位と共に関白職を辞しており、藤原兼家が一条天皇の摂政に、居貞(おきさだ)親王(後の三条天皇)が皇太子となったのです。
定子の入内と兼家の死
一条天皇が即位して4年後の11歳になった頃、兼家の長男・道隆の娘定子が入内。一条天皇と定子は仲睦まじかったそうです。
定子は機知に富んだ女性だったそうで、そんな部分も一条天皇は気に入っていたとの事。この後、道長が長女・彰子を一条天皇の下に送り込む際に家庭教師として紫式部をつけたのはこの辺りが理由となります。
そして、ちょうど同じ年に兼家が亡くなり、道隆が跡を継いで関白となります。道隆は兼家の様子を見ていたためか割と強引な手法で本人や息子の伊周を昇進させていきます。
詮子はこの様子をどう思ったのでしょうか?
夫である円融天皇と不仲という状況を見ると、愛情は息子の一条天皇に向かうでしょうし朝政にも目が行きやすくなることでしょう。
実際に一条朝では強い発言権を詮子は持ち『国母専朝だ』と非難する人までいたようです。そんな詮子が強引に事を進める兄道隆とその子伊周や定子に対して何を思うか??あまり良い印象を持たないだろうということは容易に想像が出来ます。
逆に詮子に対しても道隆や伊周は悪い印象を持つ事でしょう。伊周は詮子の息子である一条天皇に、道長との権力闘争の際、詮子や道長を悪く言ったりもしたようです。当然それを一条天皇が良しとするはずもなく、詮子推薦の道長が優遇されるようになったようです。