日本史

明治時代の宗教政策とは?神仏分離令と廃仏毀釈の意味や制度の背景などを詳しく!

歴ブロ

前回の日本史では文明開化の記事を書いてきました。

西洋文化の真似をすることが多かった日本ですが、今回紹介する宗教においてはだいぶ日本独自の方針を貫いています。

ここでは明治時代に行われた宗教政策について迫っていこうと思います。

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神仏分離令の発布(1868年)と廃仏毀釈

明治政府は王政復古で「神武天皇の時代に基づいた国家創業」に立ち返る趣旨を示しました。

その国家の中心となる天皇は古来から時に幕府に統治権が移ることはあっても(神道における)祭祀権は続けて有していた存在です。

当時の、政府は宗教を体系化することで精神を一つにまとめようとしたと考えられるのですが、明治政府が天皇を中心にと考えている以上、神道の下で祭政一致の立場をとろうとするのはごく当たり前の話でした。

そのため政府は神祇官を再興し、国学者神道家を登用するなど神道優先の人事を積極的に行いました。

ただし、政府が「神道を優先させたい」と考えていたとしても日本では飛鳥時代の仏教伝来以降、日本土着の神道と融合された信仰体系『神仏習合』の考え方が出来上がっています。神社の中に寺院があったり寺院の中に鳥居があったりしたのです。

そこで1686(明治元)年には神仏分離令が出され「神社と寺院をはっきりと分けましょう」という法律を打ち出しました。

神社から仏教色をなくそうとして神社に仏像仏具をおくことを禁じるなどしたことなどを機に「仏教に関する物や教えをなくしていこう」という廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の運動が全国的に広がります。

こうして仏堂・仏像・仏具などが破壊され、思惑通り神社と寺院は別の宗教として扱われるようになったのでした。

神仏分離に影響を与えた背景とは?

明治時代に入る以前の江戸時代には、古事記や万葉集などの日本古来の古典の研究で儒教や仏教が入ってくる前の日本独自の民族精神を明らかにしようとする国学を学ぶ者が増えてきていました。

やがて国学者の中から「儒教・仏教流入以前の日本民族固有の精神に立ち返ろう」という考え方の復古神道が誕生します。

この考え方も神仏別離令に大きな影響を与えたと言います。

廃仏毀釈に発展した背景は?

一方で、寺院側への市民や神官の不満もあったそうです。

江戸時代初めに島原の乱が起き、キリシタンの弾圧と同時にキリスト教以外の宗教を信仰するような対策が講じられました。寺に全国各地の民衆がキリシタンではないと証明するため「このお寺の檀家ですよ」と登録させる寺請制度が導入されています。

この寺請制度の導入で両者の距離は縮まり、檀家はお葬式などの様々な場面でお寺にお金を工面するようになりました。お寺が安定的な財政基盤を持つようになっていたのです。

逆に神社はそうした特権は得られていません。神仏習合だったこともあり、お寺の扱いとの差が目立ってきます。そうした背景から仏教への不満を一部持っていた人たちがいたようです。

大教宣布の詔(1870年)

神道と仏教を分けたうえで、祭政一致を行うために改めて神道を国教と定め、大教宣布の詔が明治天皇によって発布されました。これにより神道が日本唯一の宗教と定められています。

神道を国民教化するために宣教師大教院と呼ばれる機関を置いています。

当初は各府や藩、県で任命された宣教師に布教を任せるために神祇官(~1871年)神祇省(1871~1872年)を置きますが、仏教勢力の抵抗もあって布教はうまくいかず、神祇省から教部省に変更されました。

大教院とは神道を布教するための中央機関で、教導職の研修道場のこと。前述したように一般国民への神道の教化(教え導くこと)が上手くいかなかったため、方針転換して仏教の教えも含め教化する教導職を研修させる場を設けました。

※教導職は1872年に教部省の職として置かれ、神官や僧侶が任命されています。

以上のような経緯があって、結局、神道を国教化することは断念。1877(明治10)年には教部省も大した成果を上げることが出来なかったため廃止されています。

キリスト教

イエス
『曠野のイイスス・ハリストス』(1872年作、イワン・クラムスコイ)
Wikipediaより

最後に江戸時代には禁止されていたキリスト教についてです。

キリスト教は、1868年3月15日に出された『五榜の掲示』で引き続き禁止されたままとなっていました。

そんな中、歴史的経緯からキリスト教徒を多く抱える長崎の浦上で改宗を強制される浦上教徒弾圧事件が起こったことで、列強各国が激しく抗議します。

やがて岩倉使節団が欧米視察中、日本のキリスト教禁教が条約改正に悪影響を及ぼしていることを知って1873(明治6)年2月に禁教を撤回することになりました。

こんな感じで、明治時代には制度や文化以外にも宗教政策を行おうとしていました。多くは失敗に終わりますが、後に発布される大日本帝国憲法で天皇が主権に置かれても大きな抵抗運動が起きなかったのは、できる限りの神道を教化しようとしたこの時の動きが影響しているのかもしれませんね。

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歴ブロ・歴ぴよ
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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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