国学とはどんな学問??国学者・本居宣長とはどんな人??
国学とは、日本人の価値観や考え方を究明しようとする学問で、有名な学者として本居宣長がいます。似たようなキーワードで蘭学と呼ばれる学問がありますが、蘭学はオランダ語によって西洋の医学や学術を研究した学問です。
杉田玄白の解体新書が有名で、元ネタはオランダ語に書かれている【ターヘルアナトミア】と呼ばれる書物だそうです。
蘭学については別の記事でまとめてあるので、こちらを参考にしてください。
国学とは何だろう??
江戸時代に古事記や万葉集など日本の古典を研究し、儒教や仏教が日本に影響を与える前の日本人独自の民族精神を明らかにしようとする学問を国学と言います。
端的に言うと、国学は【外国に影響される前の日本人はどんな民族だったのか?】を研究した学問のことなんですね。
民族精神とは、簡単に言うと【考え方】だと思ってください。日本人独特の民族的な考え方といった所でしょうか??
そこで国学者たちは儒教や仏教といった外国の思想が入る前の日本人に固有な民族精神を追求しました。やがて民族精神の探求にとどまらず、江戸時代の社会不安を儒教道徳に求めるようになっていきます。
「儒教や仏教の余計な教えで日本の政治がおかしくなった」と主張する人が現れはじめ、「儒教や仏教が入る以前の日本特有の神の思うがままに政治をしていた昔の方が世の中が上手く回っていたのではないか」と考えるようになったのです。この思想は【復古神道】と呼ばれています。
国学を成立させたのは誰?
国学の先駆けと言われるのが契沖です。
中世の和歌を批判し万葉集・伊勢物語などの和歌について研究し、和歌の理想を追求しました。万葉代匠記を記しています。国学を直接作ったわけではありませんが、その研究方法を確立しました。
一般的に日本での国学の創始者と言われるのが荷田春満。神官の生まれで神祇、歌学に精通しており万葉代匠記を学び、荷田も国学の研究手法を確立しています。
日本の四大国学者
わが国で国学に大きな影響を与えた者たちは『国学の四大人』と呼ばれています。
- 荷田春満(1669〜1736年)…万葉集や古事記の研究の基礎を築き、日本民族固有の精神に立ち返る「復古神道」を提唱
- 賀茂真淵(1697〜1769年)…古代日本人の精神を研究し、和歌の革新に貢献
- 本居宣長(1730〜1801)…古事記伝を執筆し、源氏物語の中にある「もののあはれ」という思想を確立させる
- 平田篤胤(1776〜1843年)…宣長没後の弟子を自称し、復古神道を大成させる
他にも古典文献考察を行う実証主義派の国学者も居ましたが、上記の四人は日本人古来の精神を解明させた功績が大きいと言えるでしょう。
※荷田春満は一般的に言われている国学の創始者として成立の章で紹介しましたので割愛します。
賀茂真淵
荷田春満を師事した賀茂真淵は『万葉集』などの古典研究を進めましたが、賀茂は研究を通して古代の思想や文化を明らかにすることで日本人特有の民族精神を探求していきます。以後、古代から立ち返る学問研究に移り変わり、本格的な国学研究を始めた人物と言えましょう。
本居宣長
本居宣長は古事記の研究を進めた人物です。
医者として働く傍らで和歌を詠む文化人でもあります。小学校の教科書にも載っており、本業の傍ら古事記の注釈書である『古事記伝』を34年の歳月をかけて著しました。
儒学や仏教などの中国から伝来した思想や文学ではなく日本人の心の中にある自然情緒や精神の重要性を説き、江戸時代の国学の発展により忘れられていた『古事記』や日本人特有の精神や天皇と言う存在が改めて注目されたのです。
その大作はいまだに古代研究の基本テキストとして大きな影響を与え続けています。
宣長は古事記による【神ながらの道】源氏物語による【もののあはれ】の情に日本固有の精神がみられると考えました。本居宣長は自身の研究手法において国学の大成者としてその完成を見せたのです。
とくに『古事記伝』は有名で【漢心】を排した日本古来の精神である【真心】に戻るべきと主張する復古神道の端緒が見られています。
復古神道とは…儒教や仏教に影響されない【惟神の道】の復活を説き神意のままに行う方法を説く神道です。
平田篤胤
平田篤胤はそんな本居宣長に感銘を受けて日本書記と古事記の研究を進めました。
その研究の結果、篤胤は「宗教的な要素が強く現れており日本独自の思想が優れているのであり、儒教を排した日本古来の道に帰るべきだ」という思想を持つようになります。この思想が「天皇が政治を握るべきだ」と考える尊王思想を結びつき尊王攘夷運動、そして明治政府にまで影響を与えたといわれています。
国学がもたらした影響
先述したように国学は【日本特有の神の思うがままに政治をすべきだ】と言う復古神道に発展しました。ここでは実際の社会にどうした影響を与えたのかまとめていきます。
復古神道は天皇家を尊ぶ思想である尊王攘夷と非常に相性の良い思想でした。
【天皇は神の子孫で神の意志を伝える】
↓
【神意のまま政治を行うべき】
↓
【なら神意を伝える天皇が直接政治を行うべきだ】
と、言った具合に尊王思想と復古神道は互いに影響し合い、天皇親政を支える理論となっていきました。
この理論は、天皇親政を説いた明治政府にも受け継がれていきます。
攘夷派と国学の結びつき
1856年にアメリカは日本に日米通行通商条約を結ぶことを要求します。
幕府は、オランダ商館で読んだ書物に、欧米諸国は日本よりはるかに強い力を持っていることを知っていたので、この条約も結ぶべきと考えていました。
この時にも、日本には攘夷論者が一定数おり、当時の老中・堀田正睦は、世論を味方につけようと天皇の勅許を受けてから条約を結ぼうと考えます。しかし、当時の孝明天皇は外国嫌いだった事で、老中は勅許を貰う事に失敗します。
無勅許調印へ…
老中・堀田正睦は権力争いに敗れ、幕府の実権は大老・井伊直弼に移ります。
井伊直弼は、朝廷の反対をよそに勅許も受けずに日米通行通商条約に調印をしました。この事を無勅許調印と呼ばれています。
これに世論は大きな反発をし、特に尊王思想を持つ天皇を軽視した行動とみなされ幕府に強い反感を抱くようになります。そして、攘夷派の志士も外国に港を開港した政策に強い反感を覚えます。
これに追い打ちをかけるのが、尊王派と攘夷派を処罰する安政の大獄です。
この処罰に尊王派と攘夷派の反感は強まり、その後一部の志士によって井伊直弼が暗殺される桜田門外の変が起こります。
尊王思想は、この開港問題を境に攘夷思想とくっ付くようになり尊王攘夷論として発展していくのでした。
尊王攘夷運動の失敗
幕府は公武合体を進め、幕府は朝廷との融和策を取ります。
この幕府の動きを朝廷の政治利用だと尊攘派は反発。外国嫌いな朝廷と尊攘派は、結びつきに成功し朝廷に譲位結構ムードをもたらしました。こうして尊攘派が主導権を握ったかに思えました。
しかし、八月十八日の政変で薩摩・会津の両藩が朝廷から尊攘派を追い出してしまいます。
それでも尊攘派は攘夷を図ります。当時は長州藩が攘夷運動の中心でした。その長州藩が下関で外国船に砲撃し戦争に発展しました。これが下関四国艦隊砲撃事件です。
長州藩はこの戦争で大敗し攘夷の不可能を悟ります。このようにして尊王攘夷運動は失敗に終わったのです。
明治政府設立以降
明治政府が国政を担ってからは、尊王攘夷運動は変わります。
尊王は【天皇に忠実であること】攘夷は【愛国の民であること】に変貌を遂げました。
こうした思想は、明治国家の天皇制を支えるものとなり、結果的に第二次大戦終了まで影響を与えることになります。