蘭学が江戸時代に与えた影響
江戸時代の鎖国政策の結果、西洋諸国の中でオランダだけが日本との通商が許されたことで、西洋学術はオランダ人やオランダ語を介して受けられることになりました。当時、オランダは阿蘭陀と書かれていたので、この学問は蘭学と呼ばれるようなります。
洋書の禁止を緩和した8代将軍・徳川吉宗は、青木昆陽と野呂元丈にオランダ語の習得を命じ、その結果【和蘭本訳】や【和蘭文字略考】といったオランダ語の辞書を残します。
『蘭学事始』に描写されているように、杉田玄白、前野良沢による『解体新書』の翻訳・出版を機に本格的なオランダ語の書物の翻訳が始まりました。
今回は、江戸時代に伝わり、日本の近代化に欠かせなかった蘭学の影響や内容などを書いて行きたいと思います。
蘭学の分野
オランダから日本に伝来した西洋の学問を【蘭学】と言います。
蘭学と聞くと、ドラマなどの影響もあってか医学のイメージが強いと思いますが、基本的には日本に伝わった西洋の学問を蘭学と呼ばれるため、その範囲は多岐にわたります。
蘭学の分野は大きく分けて次の4つに分類されます。
- 語学……オランダ語
- 自然科学……医学、天文学、物理学、化学など
- 人文科学……西洋史、世界地理、外国事情など
- その他技術……測量術、砲術、製鉄など
蘭学の担い手たちは、職業柄オランダ語に強かった長崎通詞を除けば医者が中心でした。
そのため、学問の中心は医学を中心とした自然科学分野でした。しかし、アヘン戦争で清国が敗戦すると為政者たちが軍備改革の必要性を感じはじめ、蘭学がそれまでの医学から軍事科学にその中心が移り始めます。
蘭学の創成期は徳川吉宗の時代
蘭学の芽が出始めたのは、8代将軍・吉宗の時代までさかのぼります。
幕府は、鎖国政策で交易をキリスト教との関りがない中国とオランダに絞ります。交易の窓口も長崎の出島に限定し厳しい監視のもと行われていました。その貿易品の一つ、オランダ書物を通じて日本人は蘭学を学ぶことになります。
徳川吉宗は国内の産業を盛り上げ生産力の向上させるために海外の物産に興味を持っていました。その一環で1720年に禁書令を緩和しキリスト教に関係のない書物の輸入を認めました。
多くの書物の中から吉宗は、1659年にドドネウスが著した『草木誌』と1663年のヨンストンが著した『動物図説』に興味を持ちました。しかし、この書物を翻訳する人間が当時いませんでした。そこで、吉宗は青木昆陽や野呂元丈に翻訳を命じています。
この二つの書物をキッカケに蘭学が普及し、日本の近代化を加速させていきました。
蘭学により医学が急速に発展
吉宗の好奇心から、オランダ語の書物が翻訳できるようになった事から、1771年に杉田玄白、前野良沢、中川淳庵、桂川甫周によってクルムスが著した人体解剖書の翻訳が始まりました。
そして、1774年に『ターヘル・アナトミア』の翻訳書で、日本で最初の西洋解剖学書『解体新書』が出版されました。日本初の医学系洋書の翻訳本で、国内で蘭学を広めるきかっけとなる一冊となりました。
日本の医学にとって大きな躍進であり、蘭学はこれによりさらに発展していきます。
蘭学の広がりと百科全書の翻訳
蘭学は江戸に収まらず、京都や大阪などの地方にも広がりを見せました。
民間の学者や各藩の医者が蘭学を研究しました。
一気に日本各地で蘭学が普及した事で幕府公認学問になり、1811年に西洋書を翻訳する部署が設けられました。そこに、大槻玄沢、馬場佐十郎の2名が翻訳者として任命され、ショメルが著した百科全書の翻訳に取りかかりました。
同じ時期に、長崎のオランダ通訳者とオランダ商館長ドゥーフによって、蘭仏対訳辞書の和訳が行われ蘭日辞書も完成しました。
これにより、蘭学は新たなステージを迎えましたが、幕末期の諸外国勢との関係が複雑化する中で、英語やロシア語などのオランダ語以外の外国語の研究が行われるようになり、蘭学はやがて【洋学】と呼ばれるようになりました。
シーボルト事件の発生
西洋の学問・技術を積極的に伝えたオランダ商館の医師が日本にもたらした影響はとても大きなものでした。その中でも、1823年に来日したシーボルトは、日本の蘭学者や幕府に大きな影響を残しました。
シーボルトは『日本』や『日本植物誌』などを著し、日本という国をヨーロッパに積極的に紹介していき、日本にも多くの門下生を抱えました。しかし、1828年9月にシーボルトが帰国する際に、伊能忠敬が作成した日本地図などの国外に持ち出すことを禁じられていた物が彼の荷物から多く出てくる事件が起きました。
これによりシーボルトは国外追放され、多くの門下生が処罰されました。
この一連の事件をシーボルト事件と言い、これをきっかけに幕府による蘭学者の弾圧が始まりました。
幕府による蘭学者の弾圧【蛮社の獄】
18世紀末以降、異国船がどんどんやってくるようになっていた日本。『異国船打払令』という不法入国した異国船を有無を言わさず打ち払おうという法律まで作られます。
そんな中で漂流した日本人を助け、母国に送り届けようとしたモリソン号に対し攻撃したモリソン号事件が起こりました。
このモリソン号事件の真実を知った世間では幕府への避難が殺到します。
1839年には高野長英や渡辺崋山らが江戸幕府の鎖国政策を批判したため、幕府に捕らえられるという言論弾圧事件蛮社の獄が起きました。
幕府は崋山らが無人島に渡る計画を立てたことを理由に逮捕するも無実であることが判明しましたが、長英や崋山は例の幕府批判から処罰されたのです。
蘭学と蘭学者が弾圧を受けたことで、幕府内の保守派と開国派の対立が垣間見ることになりました。
蘭学から英学へ
時代が進むにつれて直にオランダ以外の西洋諸外国との交渉をするようになると、蘭学によって発展した西洋学術が諸外国との交渉にも役立てられていきます。
蘭学は自然科学を学ぶ学術から一転して国防のための学問として研究が行われるようになりました。幕末の鎖国派 vs 開国派の対立が激化する中、幕府が国や藩の軍備を充実させるために利用していったのです。
やがて世論が開国派へ傾いていくと、オランダ以外にも外国語が伝わり、特に英語が広まっていく中で開国。開国以降はますます盛んに西洋文化が日本に入ってくることになりました。
開国後しばらくは蘭学が中心の学問でしたが、次第に英語による学問【英学】が盛んになり蘭学はその影響力を弱めていきます。
主な蘭学者と蘭学塾
江戸時代から明治初期まで、欧米諸国の文化や学問・技術を伝えた蘭学ですが、それらを学んだ代表的な蘭学者たちと、蘭学塾をまとめてみました。
杉田玄白は蘭学医として、前野良沢、中川淳庵らとともにオランダ語の人体解剖書『ターヘル・アナトミア』を翻訳し『解体新書』として刊行しました。また、開校時期は不明ですが、私塾「天真楼」を開き、多くの門下生に蘭学を教えました。
杉田玄白と前野良沢の弟子である大槻玄沢は、1788年頃に江戸に「芝蘭堂」を開き、多くの門下生の育成に励みました。また、蘭学の入門書『蘭学階梯』を著し、蘭学者としての地位を確かなものにしました。
ドイツの医師シーボルトが1824年に長崎で開いた「鳴滝塾」も多くの門下生を抱え、蘭学が教えられました。
緒方洪庵は日本の近代医学の祖として知られています。1838年、大阪で開かれた「適塾」は幕末から明治維新にかけて多くの優秀な人材を世に出しました。また、「適塾」は現在の大阪大学・慶應義塾大学の源流のひとつとしても知られています。