徳川家康による豊臣政権末期~江戸幕府初期頃の積極的な外交策
鎖国政策で引きこもり国家のイメージが強い江戸幕府の外交策ですが、徳川家康は幕府開設当初は積極的に諸外国との交易を進める政策を行っていました。
しかし、国内のキリスト教の広がりに脅威を感じた家康は、次第に諸外国との貿易を制限するようになります。そこで今回は豊臣政権末期から江戸幕府成立後の家康によるは外交策を見ていきたいと思います。
徳川家康の外交政策
秀吉死後、朝鮮出兵による明や朝鮮との関係悪化やバテレン追放令によって冷え切っていた欧州諸国との関係回復のために徳川家康は積極的に外交を行っていました。関ケ原の勝利した家康は1603年に征夷大将軍となると日本国代表として諸外国との平和的外交をさらに進めていきます。
その国はスペイン、オランダ、イギリス、明、朝鮮、東南アジア諸国など数多くあり、ここでは家康による各国の外交手腕をみていこうと思います。
徳川家康によるスペインとの外交
当時スペインはフィリピンや南米やアフリカなどの植民地を有し、スペイン王はポルトガル国王も兼任していた事でポルトガル領も支配していました。こうして地球上に多くの植民地を持ったことで、地球上のスペイン領のどこかは必ず太陽が当たっていたことから『太陽の沈まぬ国』と呼ばれています。
1596年に秀吉が土佐に漂着したスペインのサンフェリペ号の積荷を没収し、宣教師たちを処刑したこと(サンフェリペ号事件)で日本とスペインの関係が悪化していました。当然、ポルトガル王も兼任していたのでポルトガルとの関係も良くありません。
スペインの鉱山開発と船舶建設の技術を学び、交易をおこなうために家康は1598年にとらえていたスペイン宣教師をフィリピンに送り交渉を開始します。しかし、フィリピンの総督はスペインの権益が侵害されることを恐れ交渉はとん挫しました。
ところが1609年に転機が訪れます。
フィリピンの総督が難破して上総に漂着したのでした。これをチャンスにと総督を駿府に呼び寄せ、帰国のための船を用意させたました。ちなみに、この船には日本人の商人たちが同行しており、これが日本人初の太平洋横断と言われています。
総督が家康から異例の待遇を受けたことを知った国王は、友好の証として1611年に時計を送りました。その時計は、久能山東照宮博物館に残されています。
オランダ・イギリスとの国交樹立
イギリス・オランダ連合軍ががスペインの無敵艦隊を撃破したことで、1588年以降はスペインの覇権が揺らぎ始めていた時期でもあります。そしてオランダが覇権を取り始めると、インドネシアを拠点に日本と交易に乗り出します。
リーフデ号の漂着
1600年にオランダのリーフデ号が豊後に漂着。その乗組員であったウィリアム=アダムス(三浦按針)は外交顧問として、ヤン=ヨーステンは後の朱印船貿易の発展に寄与することになります。
こうしてオランダと外交関係を結ぶと、1609年に朱印状を発行してどこに着岸しても大丈夫な旨を明記するなどの破格の待遇を与えました。そして、平戸に商館を置くことを認めます。
このオランダ商館は、後の鎖国政策が敷かれると長崎の出島に移されることになりましたが、幕末に至るまでオランダとの貿易は長崎で続けられました。
イギリスとの通商締結
1613年にはイギリスも国書を携え、日本と通商を求めるために駿府を訪れました。
こうして、イギリスも平戸に商館を置きましたが、後に日本から撤退をしています。
家康はカトリックを警戒していた
オランダの三浦按針らは、ポルトガルとスペインは、カトリック教を布教しながら日本の制服を企んでいると訴えます。家康は一貫して宗教抜きで交易を行いたいと考えており、スペインは布教ありきの交易を望み、オランダとの交易をするなとも言ってきました。
こうした状況で家康は、次第にポルトガルやスペインと距離を置くようになります。
実際に九州では宣教師による寺社の破壊や島原の乱などのキリシタンによる一機が発生していました。
明や朝鮮との和平交渉
ヨーロッパ諸国との関係を作った家康ですが、同時進行でアジアにも目を向けています。
アジアでは、秀吉による文禄・慶長の役で破綻していた明と朝鮮の関係修復が急務でした。1600年に家康は明に対して交易再開を求めていますが、交渉は難航しています。
それは、明は日本に服従を求めていたからでした。
明の言い分では、日本が服属した場合のみ勘合による貿易を認めるものでした。
しかし、家康は日本と明は対等であると認識しており、上記のような関係は認められませんでした。もし、対等な関係で貿易が認められない場合は、出兵すると明側に脅しもしていました。
実際に家康は1612年と1616年に明へ侵攻を命じています。結局、明との交易がまとまらないまま明が清によって滅ぼされてしまいます。清建国後は、日本側も鎖国政策を行っており、清との間に国家間の公式の外交関係が構築する事はありませんでした。
朝鮮使節の来日
文禄・慶長の役で戦場となった朝鮮国に対しては、関ケ原の戦い後に1602年から和平交渉を始めていますが、明に対する交渉と同じく、秀吉の遺児・秀頼がいる事を前面に出して、再び朝鮮へ出兵する事も辞さないと脅すものでした。その一方で、家康自身は文禄・慶長の役の際にも朝鮮へ渡海していない事を強調し捕虜を送還する事も約束しています。
その結果、朝鮮国からは条件付きではあるが、講和の受託が伝えられたのですが、その条件が『日本国王として家康から先に、朝鮮へ国書を送る』と言うものでしたが、将軍が天皇より上であるのは曲げられない事実なので、日本国王を用いることができず交渉は頓挫してしまいます。
東南アジア諸国との友好外交
家康は東アジア以外の各国に対しても積極的に国書を送り、国交を開こうとしていました。
主な地域として、安南(ベトナム北部・中部)・シャム(タイ)・カンボジア・チャンパ(ベトナム南部)・パタニ(マレーシア東部)などが挙げられ、当該国の許可が得られた場合は、日本人が居住する日本町も建設していました。
徳川家康の外交努力の結果、安南・シャム・カンボジアとは国交が開かれました。中でもシャムとカンボジアからは使節も送られており、緊密な関係を築く事が出来ました。そうした事もあり、朱印船の渡航地としては、安南・シャム・カンボジアが大半を占めていました。