【関ヶ原の戦い】本戦の裏で東北と九州で違う東西陣営の戦いがあったってホント?
徳川家康と石田三成の対立が深まり、政権の主導権をめぐり全国の大名が東軍VS西軍に分かれ戦ったのが1600年に起こった関ヶ原の戦い。みな本戦にスポットを当てがちですが、ほかにも前哨戦と呼ばれる戦いが各地で繰り広げられていました。
そこで今回はいくつかある前哨戦の中で、北と南の関ケ原の戦いと呼ばれている『長谷堂の戦い』と『石垣原の戦い』について紹介します。
これらの戦いには、皆さんも知っている伊達政宗や黒田官兵衛、加藤清正が活躍しています。
ちなみに本戦である関ヶ原の戦いは下の記事でまとめてあるので、よかったら読んでみてください。
北の関ヶ原、長谷堂城の戦い
五大老の一角を担っていた上杉景勝は、徳川家と対立する意思を明確にしていました。そのため家康が上杉討伐をするために出陣。ところが、石田三成が上杉軍と挟み撃ちにするために出陣すると、家康軍はUターンして関ヶ原に向かい激突しました。
当事者の上杉景勝は、三成と連動する形で東軍についた東北の大名・伊達政宗と最上義光と激突し、9月9日頃から約一か月にも及ぶ『慶長出羽合戦』が始まります。
上杉軍は直江兼続が25000の大軍を率いて最上領の畑谷城を落とすと、勢いそのまま長谷堂城の攻略にかかります。最上義光は軍勢8000では抑えきれないと、米沢城の伊達政宗に援軍を要請し、伊達氏は最上氏に援軍を送りました。
この長谷堂城は、天然の要害で守るには有利な城でした。
さすがの上杉家の知将・直江兼続も攻めあぐね、志村公安はよく長谷堂を守ります。
無駄に時間だけが過ぎ、9月29日には関ヶ原で西軍が敗北したとの知らせが届くと、上杉軍は深追いはせずに会津へ撤退を始めます。
一方で東軍勝利の知らせに士気が上がった最上軍は追撃に出るも、上杉軍は反転攻勢に出て返り討ちにしました。東軍側・最上義光も巻き込む混戦となり西軍が盛り返しましたが、結果的に北の関ヶ原・慶長出羽合戦も西軍の敗北に終わります。
関ヶ原の戦後処理で最上氏は少ない兵で善戦し、その功績から出羽山形藩57万石まで加増され、大藩の仲間入りを果たしました。一方で、上杉家は改易は免れたものの、会津120万石⇒米沢30万石まで減俸処分となります。
こちらでは五大老と五奉行の人生を簡単にまとめてあるのでよかったらどうぞ。
黒田官兵衛が活躍した南の関ヶ原、石垣原の戦い
九州でも東西の両軍が激突した戦いがありました。
もっとも有名なのは、豊後の杵築城をめぐる戦い。当時、東軍の支配下だったこの城を攻めようと、西軍の大友義統が広島城を出陣し九州へ上陸します。これに対して、黒田如水(以下官兵衛)が中津城を出陣して杵築城の援軍に向かいました。
こうして両軍が南西の石垣原で激突します。しかし、大友軍2000に対して黒田軍10000だったが、大友軍の全線で序盤は黒田軍に大打撃を与えました。ところが、百戦錬磨の軍師・官兵衛の巧みな采配によって、東軍の大勝利となります。
ここで、黒田官兵衛は引き返さずに、領土拡大に向けて豊後の西軍諸侯を攻め取りました。これには、領土野心と言うより、天下を目指した下準備だともいわれています。さらに同時期に、熊本城の加藤清正が肥後の西軍諸侯を攻め取り東軍として活躍しています。
九州の西軍で最後まで頑張ったのが立花宗茂で、辛くも黒田・加藤・鍋島の攻勢を食い止めていましたが、関ヶ原の西軍敗北から日がたち、形勢の逆転は不可能でした。そして、11月3日に加藤清正の説得を受けて南の関ケ原の戦いも終結します。
上記の合戦以外にも、関ヶ原の戦いの影響は各地方にも飛び火して、大名たちは自らの思惑のもとに東軍と西軍に分かれて戦っています。特に機内では、細川幽斎(藤孝)がわずか500の兵で西軍15000をくいとめる活躍を見せています。
関ヶ原の戦後処理
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、東軍の総大将として戦後に豊臣家の代理として諸大名たちに対する加増や減封・改易などの処分を徳川家で取り仕切りました。
五大老でも東軍に味方した前田利長は80万石から120万石に加増され、そのほか東軍に味方した諸侯はその功績に応じて領地を加増されています。
一方で、反徳川に回った諸侯、五大老の毛利輝元や上杉景勝などは100万石以上の領地から四分の一ほどまでに召し上げられました。そして、西軍の首脳陣石田三成・小西行長・安国寺恵瓊は、改易のうえ斬首されることになります。
こうして、1603年に徳川家康は征夷大将軍に就任して江戸の地で幕府を開くことになり、江戸城を拠点に全国の大名が藩を治める幕藩体制を敷くことになるのでした。
※こちらの記事は、ヤフーニュースエキスパートで掲載した記事をブログ用に加筆等をしています。
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