権益強化を狙い日本も参戦した第一次世界大戦
第一次世界大戦を始める前に、1914年のサラエボ事件から1919年のベルサイユ条約までの年表を書いておきますので、こちらを参考しながら読んだ方が分かりやすいかもしれません。
年 | 出 来 事 |
---|---|
1914年6月 | サラエヴォ事件
オーストリアがセルビアに宣戦布告 ロシア・ドイツ・フランス・イタリアが参戦 |
8月 | 日本がドイツに宣戦布告
オスマン帝国参戦 |
10月 | 日本海軍がドイツ領南洋諸島占領 |
11月 | 日本軍が青島占領 |
1915年1月 | 袁世凱政府に二十一カ条の要求を提出 |
1916年7月 | 第4次日露協約調停 |
1917年3月 | ロシア3月革命 |
4月 | アメリカがドイツに宣戦布告 |
8月 | 中国がドイツに宣戦布告 |
11月 | ロシア11月革命
ソビエト政権樹立 石井・ランシング協定調印 |
1918年1月 | ウィルソンが14カ条の平和原則を発表 |
3月 | ロシアがブレスト=リトフスク条約で同盟国側と単独講和 |
8月 | 日本がシベリア出兵を宣言 |
11月 | ドイツ革命 |
1919年6月 | ベルサイユ条約 |
日本の宣戦布告
1914年(大正3)6月にボスニア訪問中のオーストリア皇太子がセルビア人青年に暗殺されるサラエボ事件が起きました。この事件がきっかけに第一次世界大戦が始まります。
同年7月には、オーストリアがセルビアに宣戦布告すると、オーストリアと軍事同盟を組んでいたドイツが参戦します。一方で、セルビアと同盟をしていたロシアもセルビア側に付き参戦します。
ドイツは、参戦のために中立国のベルギーに通行権を求めた事から、フランスとイギリスがそれを阻止しようとセルビア側に付ました。フランスとイギリスは、急速に発展してきたドイツに警戒感を持っており、露仏同盟、英仏協定、英露協商の三国協定を結んでおり、ドイツ包囲網を作っていました。
結局この大戦は、ヨーロッパのほとんどの国が加わり、ドイツとオーストリアを中心とする国【同盟国】とイギリスとフランスを中心とする国【連合国】に分かれて戦うことになりました。
イギリスと同盟を組んでいた日本は、1914年8月にイギリスから協力の要請を受けます。その時の内閣は、第二次大隈重信内閣でしたが、その時の外相加藤高明は、これを機に東アジアにおける権益を強化しようと考えました。
この大戦は、日本が参戦しなければいけない理由はありませんでしたが、権益強化のためにドイツに宣戦布告をします。
日本軍による青島占領と二十一カ条の要求
宣戦布告をした日本は、ドイツが極東の本拠地としていた中国山東省の膠州湾の攻撃を開始します。そして、11月には、ドイツの租借地だった青島を占領します。
翌年1月には、中国に対して二十一カ条の要求を突き付けます。
その内容は、山東省内の旧ドイツの権益の継承と共に、日露戦争の勝利で日本がロシアから引き継いだ旅順・大連の租借権と南満州鉄道の権益の99年の延長、中国政府の顧問として日本人を採用することなどが盛り込まれました。
当時の中国は既に清国ではなく、1912年に生まれたばかりの中華民国でした。
中華民国の袁世凱は、欧米諸国に日本の要求が不当であることを訴えましたが、中華民国には日本の要求を跳ね除ける実力がまだありませんでした。
結局、中華民国は日本人顧問の採用の項目は除き、ほとんどの要求を飲みました。
これにより、中華民国内では排日気運が高まり、欧米諸国でも日本の中国大陸進出を経過するようになりました。1916年(大正5)に袁世凱は、第三革命で失脚したのち没します。その混乱に対応しきれなかった、大隈重信は辞職し、首相は寺内正毅に交代しました。
そんな中国での混乱の間も第一次世界大戦は続いていました。
日本は、ヨーロッパになかなか兵を派遣しませんでしたが、1917年にいついにイギリスの要請により海軍を地中海に派遣し、連合国の形勢の立て直しに貢献します。この貢献により、日本は英仏露から中国大陸の旧ドイツの権益の継承を承認されました。
同年4月に参戦したアメリカと、石井・ランシング協定を結び、互いの利害調整を図りました。しかし、曖昧な表現の協定だったため、のちに日米で解釈の違いで揉めることになります。
この頃、ロシアでは、ロシア革命が起こります。
連合国側は、革命に干渉しようとシベリアに軍を派遣します。日本も密かにシベリア進出を狙っていたため、1918年8月にシベリア出兵を開始します。しかし、この出兵は大失敗に終わります。
シベリア出兵の内容は一つの記事で書いて行きたいと思いますが、この出兵については、【国家に何一つ利益をもらたすことをなかった歴史的失敗だ】と1922年に加藤高明が評価していたそうです。