伊東甲子太郎の入隊~油小路の変までを簡単に解説【幕末・新選組の歴史】
禁門の変が終わって約3か月後の元治元年9月5日(1864年)。
戦死や相次ぐ脱走によって隊士の数が少なくなっていたため「新たな隊士になる有志の者達を募ろう!」という話から近藤勇が永倉新八、武田観柳斎、尾形俊太郎を従えて江戸へ向かいました。
この時点で先に江戸に向かってあらかじめ兵を募っていた藤堂平助。江戸にいた頃に伊東道場で修業した時期があったため、文武両道の呼び声の高い伊東甲子太郎を近藤に推薦しています。
近藤らが江戸に隊士として入隊させたい人物の大本命が伊東甲子太郎でした。
今回は、こうして期待されて入った伊東甲子太郎の入隊~脱退までの経緯を簡単に解説していこうと思います。
伊東甲子太郎ってどんな人?
1835年(天保5年)常陸(現・茨城県)志筑藩士の長男として生を受けました。
父が家老と諍いを起こして隠居、家督を若くして相続したものの父の借金が明らかになって家名断絶、領外へ追放された苦労人です。
水戸へ遊学し、水戸学を学ぶと勤王思想に傾倒。父親は追放後に村塾を開いたため、本人も帰郷後は教授として学問を教えました。この後、北辰一刀流へ入門すると、めきめきと頭角を現します。力量を江戸深川の道場主に認められ、婿養子に入り伊東大蔵となりました。
新選組入隊の際に入隊年の干支にちなんで伊東甲子太郎と名乗っています。
なお、北辰一刀流は門弟が6000人もいたそうで、新選組の山南敬助や藤堂平助も同流派を学びました。
水戸学って?
<水戸学と尊攘思想>
朱子学を軸に国学や神道を総合し、天皇尊崇と封建的秩序を説く
幕府の腐敗を批判する者が現われはじめ、国の統一を強化するための尊王攘夷論が生まれ始める
まだ倒幕の兆しまで至らず
幕府弱体化が目に見えるようになり、対外政策などへの不満から反幕の方向へ向かった
常陸国水戸藩で形成された学問で源流は17世紀半ばにまで遡ります。第9代藩主水戸斉昭の元で尊攘思想が発展し、明治維新の原動力となりました。
時期により学問の在り方は若干変わっています。
互いの思惑
近藤勇も尊攘思想を持っていましたが、元々尊王攘夷自体を否定していなかったはずの幕府が尊攘思想に否定的になったことで迷いが生じ始めます。
1838年の八・一八の政変以降、尊攘派と佐幕派の対立が明らかになり立ち位置が変わってきたためです。
近藤の場合は池田屋事件前あたりまでの時期は攘夷にこだわっていましたが、事件をきっかけに吹っ切れて幕府優先となっていきました。一方の伊東は幕末後期寄りの尊攘思想。一時は水戸天狗党に入ろうとしていたなんて話もあります。
同じく尊攘思想を持っていたと言っても、近藤は事実上尊攘思想を捨てているような状態だったため方向性がだいぶ異なっていました。
それでも表面上、新選組の旗印は尊王攘夷だったので、伊東は自分の理想を実現させるため入隊を希望。近藤も近藤で元は同じ尊攘思想を持つのだから多少の考え方の相違ならすり合わせ出来ると判断して伊東の入隊を歓迎しています。
考え方の違いよりも、学のない者が多い新選組に伊東のような者が入ることでの刺激を期待したのです。
実弟の三木三郎、道場の師範代・内海次郎、中西昇、同士の篠原泰之進(たいのしん)、加納鷲雄、佐野七五三之助(しめのすけ)、服部武雄らも同時に新選組へ入隊するため上洛。
なお、藤堂は伊東を近藤と引き合わせた後も隊士募集の任で江戸に残ったようです。
伊東甲子太郎の新選組内での立ち位置
新入隊士が加わって70名ほどの組織に成長した新選組。伊東甲子太郎は新たな「参謀」兼「文学師範」のポストを用意して入隊する破格の待遇でした。
この後、長州征伐に向けて作られた【行軍録】では伊東甲子太郎が二番組の長となっています。
山南敬助の切腹
伊東甲子太郎が入隊して約4か月後。新選組総長を務める山南敬助が脱走し、切腹する事件が起きています。
正確な脱走理由は明らかになっていません。
彼も尊王攘夷思想を持ち「幕府の変化や行動に疑問を持っていたのに、単なる佐幕派になり下がったことに失望していた」説や、池田屋事件や行軍録にも名前が載っていなかったことから「新選組内での立場を失っていたのでは」説が有力なようです。
山南敬助切腹のその後
この件があってからの伊東は目立った尊攘行動を慎むようになりました。また、山南敬助の処分により試衛館以来の同志だった藤堂平助の心は近藤から離れていったのです。
その後、西本願寺への屯所移転と新たな隊士募集とそれに伴う隊の再編成といった変化がありながらも隊務に励んでいきました。
同時に、これまで以上に厳しく隊規が実行され時に不可解な粛清も相次いだようです。
伊東甲子太郎、新選組から脱退
1867年になると、伊東は近藤ら首脳陣が佐幕最優先であり、どんなに説得を試みても尊攘運動に持っていけないことから隊を内部掌握するのは断念するように。新選組の幕臣取り立ての内定がきっかけとも言われています。
こうして同じ志を持つ者の引き抜きと、新選組からの脱退を決意。この中には藤堂平助も含まれていました。
ただし、脱退となると鉄の掟が実行されることから、伊東は一計を案じます。
「尊攘派の動向を探るため患者として潜入したいから、脱退して別動隊として活動したい」という名目で分裂したのでした。
だからといって、そのままでは経済的に行き詰まることは目に見えていましたから、前年末に崩御した孝明天皇の陵墓を守る役割の御陵衛士になる手回しをしています。
近藤らも、伊東のそれが言葉通りだとは思っていません。御陵衛士の中に腹心の斎藤一を間者として紛れ込ませたのでした。
油小路事件(1867年4月14日)
1867年3月27日に新選組から脱退した御陵衛士。
脱退以降、表面上の友好関係を築いていたものの同年10月14日に大政奉還が宣言されたことで状況が変わります。政権が討幕派のものになったことで、御陵衛士も実績が必要になりました。
勤王倒幕運動を行うようになっていた薩摩藩と通じ、近藤暗殺計画を立てていることが斎藤を通じて新選組にもたらされると、近藤らは伊東を消す方向に動き出したのです。
※伊東のこれまでの活動を見ると、書簡でのやり取りがメインで血生臭いことに手は染めていなかったため、暗殺計画自体がでっち上げの可能性も指摘されています。
11月18日、伊東甲子太郎は近藤の招きで妾宅へ一人で赴くと勧められるまま酒を飲み、酔った帰りを襲われて致命傷を負い死亡。享年32歳でした。
礼節や話し合いを重んじる伊東らしい最期だったのかもしれません。
新選組は、その伊東甲子太郎の遺体を御陵衛士への囮として路上へ放置し、近藤の命を受けた永倉新八、原田左之助が30人以上の隊士と共に待ち伏せしています。罠と分かっても伊東の遺体を引き取りに行き、戦闘となりました。
結局、弟の鈴木三木三郎の他、加納鷲雄、篠原泰之進、富山弥兵衛は逃げましたが、藤堂平助、服部武雄、毛内有之助3名は討ち死。御陵衛士は壊滅したのです。