わかりやすいソ連崩壊の原因とその後の経過
1923年、ロシアの広大な大地を支配していたのが、世界初の社会主義国家であるソビエト社会主義連邦共和国(以下ソ連)。かつては、アメリカと並ぶほど強大な力を持つ大国として君臨していましたが、1991年に崩壊する事になります。
今回の記事は、どうして超大国と言われたソ連が崩壊してしまったのか?その原因と経緯について書いて見ようかと思います。
ソビエト連邦の崩壊と東西冷戦の終結
1991年12月、大統領・ゴルバチョフが辞任した事によりソビエト連邦が解体されました。
第二次世界大戦後、東西冷戦の東側リーダーとして君臨したソビエト連邦は、建国から約70年と言う短い期間で崩壊しました。
ソ連の崩壊は同時に東側諸国(社会主義)の敗北でもあります。
これまでソビエト連邦に所属していた国の大半はCIS(独立国家共同体)と言うこれまでより緩やかな国家連合体に参加します。ソ連も現在のロシア共和国を成立させ、民主的な共和制国家に生まれ変わります。
ソ連の崩壊で、西側諸国の勝利が確定し、アメリカが世界の覇権国となりました。
ソ連崩壊の序章
ソ連崩壊の原因は、30年前までさかのぼります。
1964年にフルシチョフが失脚し、新しい指導者にブレジネフが就任すると、中国との外交関係に失敗して関係が悪化。その影響で、中華人民共和国が西側諸国に接近し、その結果、中国がアメリカと日本との国交が正常化。
また、ソ連が1968年のチェコスロバキアで起きた民主化運動【プラハの春】に軍事介入します。
この軍事介入に世界が猛反発をし、ブレジネフ政権は西側諸国との協調路線を余儀なくされることになりましたが、その路線も長くは続きません。
1979年12月、アフガニスタンの共産政権がアメリカに接近しようとした事に危機感を持ったソ連はアフガニスタンに侵攻します。
この侵攻に世界からまた非難されることになり、翌年のモスクワオリンピックに西側諸国を中心にボイコットが続出しました。
ソ連のアフガニスタン侵攻は、1989年まで泥沼化します。度重なる軍事侵攻でソ連は経済的に苦しくなります。
ソ連国内でも、社会主義国の負の側面が出始めており、経済成長率が鈍化に転じていたのにも関わらず、有効な対策が出されることもなく、特権階級化した官僚たちの腐敗も進んでいきました。
労働の結果に関わらず給料が同じであれば、労働意欲もわきません。食料や燃料、生活必需品も不足し、小麦はアメリカからの輸入に頼らざる得なくなります。
西側諸国に見られた技術革新も進まなかった事は、ソ連にとって大きな痛手でした。こうして、西側との経済格差はドンドンと広がっていきます。
相次ぐ指導者の死
1982年にブレジネフが死去します。
その後をアンドロポフが継ぐのですが、高齢で就任直後の1年少しで死去。さらに、チェルネンコも1年程で死去し3年で3人の指導者が後退したのです。
これではソ連の改革は進むはずはありません。
長年にわたる保守的な長老政治は、ソ連の抱えていた経済問題やアフガニスタン問題などの外交問題を解決することが出来ず、ただ時間だけが過ぎていきました。
そしてついに1985年に若い指導者が誕生します。
それが最後の指導者・ゴルバチョフでした。
ゴルバチョフの改革
ゴルバチョフが指導者に就任すると再建や立て直しを意味するロシア語ペレストロイカをスローガンに改革を進めていきます。
外交ではアメリカのレーガン大統領と会談し、核兵器の維持費削減のために核軍縮への道筋を決めました。
そんな状況で、1986年4月にチェルノブイリ原発の事故が起こります。
役人の事なかれ主義は浸透してたソ連では、正しい報告が中央になされず、ゴルバチョフが事故の全容を知ったのは時間がたった後でした。
初期対応の遅れから被害が拡大し、この教訓からグラスノスチと言う政策を始めます。
体制の硬直化による社会問題を解決するために、言論や報道などの自由化や民主化が図られるのでした。ソ連共産党にとって、都合が悪く禁止されていた映画やタブーとされた事も公表されることになります。
こうして、情報が公開されソ連国内の民主化が進む一方で、共産党幹部が一般国民とかけ離れている暮らしをしていることも明るみになります。こうして、国民は共産党に不信と不満を持ち始めたこともソ連崩壊の一因となります。
東欧諸国の民主化
外交で新思考理念を打ち出したゴルバチョフは、1988年にアフガニスタンからの撤退を開始します。また、東欧諸国の民主化をソ連は黙認する事も表明します。
ソ連は、石油を安く提供する事で東欧諸国を支えていました。その差額をそれ自身が負担していたのですが、すでにソ連にはそれを続けるだけの経済力がなかったのです。
1989年、ポーランドとハンガリーに始まり、東西ドイツの統合【ベルリンの壁崩壊】、チェコスロバキアの革命、ルーマニアの社会主義政権崩壊と東欧の社会主義国家が次々と革命が起き、民主化が達成されました。
同じ年に中国との関係も改善するためにゴルバチョフは中国を訪問。
これを受けて、中国でも民主化運動【天安門事件】が起きますが、これは当局が軍事力で鎮圧し中国の民主化は失敗しています。
社会主義国が相次いで民主化した事で、アメリカのブッシュ大統領とゴルバチョフがマルタ島で会談し、冷戦の終結を宣言しました。
ゴルバチョフによるソ連の政策の変化は、このように各社会主義国に動揺を与えます。そしてついにその大元であるソ連にもこの波が押し寄せるのです。
ソビエト連崩壊へ
1991年8月に夏季休暇のゴルバチョフ不在中に、政府が準備していた新連邦条約を潰すために保守派によるクーデターが発生します。この条約では、ソ連を中央集権的な国家からより緩い国家集合体へ変革しようとしていました。
この条約でソ連が無くなってしまう事を懸念した保守派は、ゴルバチョフを軟禁しますが、モスクワではクーデターに反対する人たちが抵抗します。その中心にいたのが、ロシア共和国大統領・エリツィンでした。
ソ連は連邦国家なので、その中でいくつかの国に分かれておりロシア共和国もそのうちの一つでした。
保守派には国民の支持もなかった事でクーデターは失敗します。しかも、クーデターを実行したのが側近たちの共産党員だったので、ゴルバチョフは共産党内で求心力を失っていきます。
一方で国民の支持を集めたのがエリツインで、この事件がキッカケで新連邦条約はとん挫しソ連共産党が解体されてしまいました。
こうなると、様々な国がソ連から脱退。
それでもゴルバチョフはソ連の維持に努めますが、12月に入るとソ連国内第2位の工業力を持つウクライナが国民投票で独立支持派が多数と言う結果が出ます。
これを受けてウクライナの独立を承認したのがロシア共和国のエリツィンで、ロシア・ウクライナ・ベラルーシで作られた独立国家共同体(CIS)に参加する国が増えていくのを見て、ソ連の解体は避けられないものとしてゴルバチョフもソ連政府の活動停止を宣言。
こうしてソ連は解体されることになりました。
ソ連崩壊のその後
その後、ソ連を継いだ国家とされたのはロシア連邦でした。
この国の初代大統領にエリツィンが就任。市場経済の導入などの改革を行いますが、まだ混乱期は続いていきます。
しかし、政権の晩年には経済危機も収まり、その跡を継いだプーチンによりロシア経済は復活。高い成長率を見せるようになっています。
こうしてロシアが復活し、成長著しい国の一つとして数えられるようにまでなりました。