エリザベス1世の治世(在位1558-1603年)<テューダー朝>【イギリス史】
前回はエリザベス1世の幼少期から即位前までについてまとめ、その人となりに成長した背景に迫ってみましたが、今回は実際にどのような統治を行ったのか?何をしたのか?を見ていこうと思います。
エリザベス1世の功績とは?
エリザベス1世の治世下ではヨーロッパ中で宗教改革が広まりはじめていたのですが、国内でも教派を巡る争いが起こっており、その宗教問題を治めるよう動きました。
また、イギリスの基礎を固め「太陽の沈まない国」と呼ばれるほど繁栄していたスペインとの戦いアルマダの海戦で勝利。更に忘れてはいけないのが経済面で現在の社会保障の始まりとされる貧困者への支援、そして海外との貿易に力を入れた点です。
東インド会社は彼女の治世から始まっており、覇権国スペインとの戦いの勝利に加えてエリザベス1世の経済面での功績があったからこその大英帝国へと進ませる第一歩となっています。
- エリザベス女王即位以降の出来事
-
1558年 25歳イギリス女王として即位
同年、メアリー=スチュアートがフランス皇太子フランソワと結婚
※メアリー=スチュアートについては前回の記事『エリザベス1世が誕生した足跡』参照
1559年1月15日 26歳ウェストミンスター寺院で戴冠式が行われる1560年 27歳質の良い貨幣を作り、国内経済を安定させた
1561年 28歳メアリー=スチュアートの夫が前年に亡くなったため、メアリーがスコットランドへ帰国
1562年 29歳エリザベス1世が天然痘にかかり、生死をさまよう
1565年 32歳メアリー=スチュアートが王位継承権を持つ人物との結婚を言い出したため、反対する
1566年 33歳- メアリー=スチュアートがジェームズ(後のイングランド王)を産む
- トマス=グレシャムがロンドンに取引所を作る
1568年 35歳- トラブルにより亡命してきたメアリーを保護する
- この辺りの時期にハプスブルク家(スペインやオーストリアを支配)と不和に
1569年 36歳イギリス北部で反乱
1570年 37歳- 反乱を鎮圧
- ローマ教皇により破門される
1577年 44歳- フランシス=ドレイクが世界一周の航海に出発
- ネーデルラントと同盟を結ぶ
1580年 47歳世界一周から戻ったフランシス=ドレイクから金銀財宝を献上される
1585年 52歳スペインと英西戦争開始(オランダ独立戦争=八十年戦争の一部)1586年 53歳エリザベス女王の暗殺計画【バビントン事件】発生
1587年 54歳バビントン事件に関わったメアリー=スチュアートを処刑1588年 55歳アルマダの海戦でスペインの無敵艦隊を破る1594年 61歳- アイルランドで反乱
- 国内の穀物が不作のため、インフレに
1598年 65歳フェリペ2世が亡くなる1600年 67歳東インド会社を作る1601年 68歳黄金のスピーチを行う1603年 70歳3月24日、体調を崩して亡くなりテューダー朝は終わりを遂げる同年イギリスとスコットランドが同君連合にスコットランド王ジェームズ6世がイングランド国王ジェームズ1世として即位。スチュアート朝が始まる
エリザベス1世はどのように宗教問題を解決しようとしたの??
エリザベス1世が即位する前のイギリスでで既に始まっていた宗教問題。拗れに拗れていたため即位後もこの問題から離れることは出来ませんでした。
歴代国王達の信仰宗教
ヘンリー8世 | エドワード6世 | ジェーン=グレイ | メアリー1世 | エリザベス1世 | |
宗派 | カトリック→ プロテスタント | プロテスタント | プロテスタント | カトリック | プロテスタント |
---|
ヘンリー8世が新たにイギリス国教会(英国国教会もプロテスタントの一派)の原型を作り上げ、カトリック教会から離脱。ヘンリー8世の元には同様に教会から離脱した方が良いと考えるプロテスタントに属する者達が側近としてつくことになります。
ヘンリー8世の元で出世したエドワード6世の母方の伯父も熱心なプロテスタントでした。
伯父が力を握り、幼少期をプロテスタントの教育を受けて育ったエドワード6世は熱心な信者となり、国王となった後もイギリス国教会の新教化(カトリックの教義がメインだったが、そこに別のプロテスタントの教義も加えて新たに整備)を進めていきます。
が、当時はまだ新たな信仰が始まったばかりのため国内はカトリック教徒も多くいました。急進的にイギリスをプロテスタント化しようとする動きには反対派も出てきます。
そんな中で若くしてエドワード6世が死去。
本来ならエドワード6世の後はカトリックを信仰するメアリー1世が王位継承権1位でしたが、政権の中心部についてプロテスタント化を進めた側近は遠ざけられることを危惧して同じ教派のジェーン=グレイを擁立します。
これをメアリー1世の機転でつぶし、ジェーン=グレイの身柄を拘束しました。こうしてメアリー1世が単独で王位につくと反プロテスタント化・カトリックへの揺り戻し政策を強硬に進めていくことになります。
というのも、当時はイギリスだけでなくヨーロッパ全域で宗教改革が広まってきた時期。プロテスタントが生まれたのもカトリック教会内部の腐敗が原因だったこともあって、内部から「新たに気を引き締めよう」という動きが生まれ始めていました。
その結果、魔女狩りなどが頻繁に行われるようになっており、メアリー1世も例に漏れず影響を受けていたのです。
エリザベス1世が選んだ道とは?
そうしたメアリー1世による弾圧もあり、エリザベス1世の即位はプロテスタントに希望を与えています。同時に、プロテスタント化を進めると国内のカトリック教徒を敵に回すだけでなくカトリックを信仰するスペインやフランスを敵に回しかねないことから、より慎重に事を進める必要がありました。
そこで持ち出したのがイギリス国教会です。ローマ教皇と離脱しているため、プロテスタントの一派として扱われていますが、元々の教義や儀礼はカトリックとほぼ変わらず。正直、離婚問題から作られたものだったので、曖昧なまま出来上がった教派です。
エリザベス1世は弟の政策をより穏健的にし新たな道を探ることに。
国が分裂しかねない危機感を訴え、カトリックへの配慮をした上で国内の礼拝の仕方を定める法律「礼拝統一法」や新たな「国王至上法」の法制化により着実にイギリス国教会を国に定着させています。
ただし、プロテスタントにしてもカトリックにしても極端な信仰者はいるもので、そうした人たちからは嫌われていました。エリザベス1世もそんな両者に対しては抑え込む方針を取っています。
エリザベス1世と結婚問題
エリザベス1世は即位直後から結婚問題がついて回りました。父親のヘンリー8世がテューダー朝を安定させるために男児を望んだように、王族にとって後継者問題は1,2を争う重要課題だったためです。
貴族にとっての結婚は勢力を拡大するための手段でもあり、エリザベス1世も例外ではありません。相手はイギリスの支配権を手に入れられる可能性があるため、それをちらつかせながらイギリスが優位に立てたり攻め込まれたりしないよう結婚をエサに相手国との関係を築き上げました。
生涯を通して大切にしていたレスター伯爵・ロバート=ダドリーとの結婚話は別ですが、政略結婚の相手にはスペインの国王や彼の従兄弟のオーストリア大公などの名前が上がっています。
※ロバート=ダドリーはエリザベス1世の弟で国王だったエドワード6世の元で権勢をふるったジョン=ダドリーの息子。二人は幼馴染です。
なお、スペインの国王とは亡き姉のメアリー1世の夫フェリペ2世です。
当時のスペインはレコンキスタ(イベリア半島からイスラム教を追い出す運動)が成功してキリスト教に戻れたためカトリックに対する熱意が非常に強く、メアリー1世は国内の信仰をカトリックに戻すための後ろ盾になってもらうため結婚していました。
が、エリザベス1世はメアリー1世の治世下での弾圧もあり、やんわりとお断り。
1563年に彼女が致死率の高い天然痘にかかり復活すると議会から更に結婚をせっつかれましたが、他の相手だとしてものらりくらりと躱し、生涯結婚することなく治世を終えています。
経済政策
父ヘンリー8世の代で、財政破たん状態だったイングランドの経済状況。少ない金銀で質の良くない硬貨を数多く作っていました。
海外との貿易では、金や銀の量でお金の価値が決められていたため質の悪い硬貨だと沢山必要となります。そのため、輸入品が値上がりし一般庶民は苦しんでいたようです。
そこでエリザベス1世が行ったのが質の良い硬貨への作り直しにより、イギリスのポンドの信用を取り戻す方向に舵を取り経済の安定を図りました。
お金の信用を取り戻した後は以前よりも海外との貿易がはかどります。そこで1600年、インド、東南アジアとの貿易を目的に東インド会社を創設。オランダやスペインとその覇権を争うことになりました。ちなみに会社の設立は後述する英西戦争の真っ最中です。
また、エリザベス1世は産業を興した人に対し政府にお金を払って許可を得る代わりに貿易や産業の独占を許す【独占特許権】を与えていました。
産業の独占が行われると商品の値段をその業者のみが決められますから、物価が下がらず高いままになります。
小麦の凶作などで飢えが続き独占特許権への不満が高まると、議員たちが不満を女王に訴えました。これに対して「黄金のスピーチ」と呼ばれる後世にまで語られる演説を行い、エリザベス1世はその場を見事に収めています。
対スペイン【英西戦争/アルマダの海戦】(1585-1604年)
スペインとの諍いで有名になったのがアルマダの海戦。オランダが独立戦争の一部である英西戦争中に起きた一戦で、1588年に英仏海峡で発生しました(なお、英西戦争はマイナー用語です)。
ここでは軽く英西戦争の原因についても触れていこうと思います。
英西戦争が起こった背景にあったものは?
先ほど触れたエリザベス1世の婚姻問題。彼女は過去にハプスブルク家との結婚を断っていました。明らかな格差婚であるにも関わらず、お断りしたため微妙な雰囲気に。
そうした中で後述するネーデルラントの独立運動がはじまり、スペインを追い込むためにフランスのヴァロワ家の二人の王子との結婚話が出はじめます。「英仏間の同盟もあるんだよ」とチラつかせるために話を出したのでした。
こうしてエリザベス1世はスペインにとって面白くない状況を作り出していました。
ネーデルラントの独立運動への支援
この戦いの一因にもなったネーデルラントのスペインへの反乱が1568年に起こっていますが、このネーデルラントはイギリスにとっても重要な場所に位置します。
ちなみにフランスにとっても重要な場所。当時、フランスと関係の悪かったスペインにとって軍事的・政治的拠点となっています。さらに中世からの歴史的な経緯もあって経済における重要地域でもありました(フランドル地方の北東。北ヨーロッパ商業圏に含まれています)。
フランスもカトリックの国なのでイギリスと仲が悪いと言えば悪いのですが、この時は対スペインでまとまろうとしています。
ネーデルラントの方はと言うと、プロテスタントの一派・カルヴァン派(蓄財もOKな教義なので商工業者の多くが信仰)を信仰する者が多く、カトリックの盟主となっていたフェリペ2世からは非常に厳しい統治がなされていました。さらにスペイン育ちのフェリペ2世は言葉や文化が異なっており、住民たちによる不満が溜まっていたようです。
イギリスもプロテスタントの一派な上に経済面でスペインと対立。海外に行くためにスペインの勢力を弱めなければ海外に行きにくいこともあって、こっそりとネーデルラントへ支援していました。
こうした背景から戦争が勃発。更にエリザベス1世の王位に疑問を投げかけたカトリック派で王位継承権を持つメアリー=スチュアートの処刑により両国の仲は更に悪くなっていきました。
宗教対立とイングランドの王位継承争い
話は遡りますが、前女王のメアリー1世が即位する前に「ヘンリー8世の庶子であるから」という理由からジェーン=グレイが9日間即位するという事態が起きたことがあります。
※ヘンリー8世は6度の離婚と再婚を繰り返しましたが、多くは「結婚は無効」という反則技を使って別れたため「王妃という立場の女性との子供ではない、庶子である」としてメアリーとエリザベスは王位継承権を奪われていました
これと同じ内容でエリザベス1世の王位に抗議した女性がスコットランド女王のメアリー=スチュアートです。
彼女はジェーン=グレイと同じ立ち位置にありました。
スコットランドへ嫁いだヘンリー8世の姉・マーガレット=テューダーの孫にあたります。メアリーは父がスコットランドの国王、母がフランスの王室にも近い超有力貴族の娘ということで非常に高貴な血筋です。
彼女は紆余曲折を経てフランスで育ったため、メアリーはカトリック教徒として成長。そんなわけでイギリス国内の多くのカトリック派から「正当な女王」として持ち上げられていきます。
- メアリー=スチュアートの半生
-
1542年メアリー誕生
スコットランド国王ジェームズ5世とフランスの名門貴族出身のメアリー・オブ・ギーズの間に生まれる
同年父、急死長男と次男が早世していたため、生後6日で王位継承
1547年イングランドに攻め込まれるメアリーの摂政についていた人物が敗れる
1548年メアリー、フランスへメアリー・スチュアートが母の提案でフランス国王アンリ2世のもとへ逃れ、以後フランスで育てられる
1558年結婚フランスの王太子フランソワと結婚
同年イングランドでエリザベス1世即位アンリ2世が「エリザベスは庶子だから、メアリーこそ正当な王位継承者」と抗議
同年アンリ2世亡くなる夫がフランソワ2世として即位。フランス王妃となる。
同年スコットランドでプロテスタントによる反乱イングランドが介入し、フランス海軍に打撃。エディンバラ条約でスコットランドへのフランスによる軍事介入禁止などが決められた。
1560年フランソワ2世が病死1561年メアリー帰国父の庶子で異母兄を政治顧問として親政を始める
→ カトリックとプロテスタントの融和に図る1565年メアリー再婚するダーンリー卿ヘンリースチュアートと再婚。彼の母親がヘンリー8世の明にあたるため、ダーンリー卿も王位継承権を持っていた。
同年メアリーに対する反乱がおこるエリザベス1世からの援助を受けてメアリーの政治顧問の一人による反乱が発生 → 首謀者はイングランドへ亡命
→ 首謀者はイングランドへ亡命1566年息子のジェームズを出産ジェームズは後にイングランド国王となる
1567年ダーンリー卿が殺害されるメアリーと愛人と思われていた人物による犯行と見られていた
同年メアリーが愛人?と結婚政権に深刻な影響を与え、反乱が発生して亡命に至る
→ メアリーはイングランドへ同年ジェームズに譲位メアリーが廃位され、幼くして国王となる。なお、摂政となった人物たちが信仰していたのはプロテスタント。成長後のジェームズもプロテスタントに育っている
彼女はフランス国王と結婚していたこともありましたが、夫の死去によりスコットランドへ帰国すると親政を開始。
スコットランド内でイングランドの王位継承権を持つダーンリー卿と再婚して自らのイングランドの継承権を高め、彼との間に息子のジェームズを産んでいます。
ジェームズの妊娠の時点で性格の合わないダーンリー卿への愛情は冷めきっていたと言われ寵臣との噂が囁かれていました。
妊娠中のメアリーの目の前でその寵臣が殺されるという事件が起こっており、息子が生まれたからと言って夫婦仲が改善することはありませんでした。
やがてメアリーは別の人物に心惹かれるようになると、今度は夫のダーンリー卿が何者かに殺害されてしまいます。夫が殺害されて間もない中でメアリーはその人と結婚。
教派関係なく結婚に反対されましたが強行したうえに、二人によるダーンリー卿殺害容疑もあって貴族達はメアリーをスコットランド女王の座から降ろしています。その後、メアリーは色々やったものの結局1568年にイングランドへ亡命したのでした。
ところが、イングランドではエリザベス1世の廃位に関する陰謀に度々関係。ついに1586年にエリザベス1世の暗殺を狙った事件でメアリー関与の証拠が見つかると「有罪・死罪」を言い渡され、実際に刑に処されたのです。
さて、このメアリー。処刑以前にスペインのフェリペ2世に対して
- 自分はカトリック教徒のまま
- 実施のジェームズはカトリック教会に復帰する見込みがないため、イングランド王位をフェリペ2世に譲渡する
こうした内容の手紙を書いており、フェリペ2世も異母弟にネーデルラント経由で軍勢を率いさせてメアリー救出のために侵攻しようと計画を立てていたという話もあるくらいメアリーに協力的でした。
彼の3番目の妻がメアリーの幼馴染で仲の良い夫婦だったこともあったようです。
そんなメアリーが処刑されたことで、スペイン・フランスそしてメアリーの故国スコットランドなど諸外国からエリザベス1世は強い非難を受けることとなったのでした。
アルマダの海戦
長く続く戦争もあって財政難となっていたイギリス。それを補填するため、スペイン船や積み荷を奪う権利を与えて植民地から帰還途中の船を襲わせています。いわゆる私掠船と呼ばれるものです。
私掠船
特許私船とも。正規の艦隊には属さないが,国家の認可・命令・監督下に海軍旗を掲げ,他国の商船捕獲や時に軍艦襲撃を行う武装船。
(中略)
特に有名なものはエリザベス1世治下の英国におけるドレーク,ホーキンズらの私掠船隊である。彼らは女王から船を貸与され,その命令によりスペイン船を襲撃し,西インド諸島やパナマ地峡のスペイン植民地にまで遠征し,時にはスペイン本国の港を攻撃した。
私掠船ーコトバンクーより
私掠船長のフランシス=ドレークは結構有名な人で、スペイン艦隊の船舶の破壊まで成功させています。
軍と戦う前に海賊にやられては堪らないフェリペ2世。とうとう本格的な戦争を決意すると1688年にスペイン無敵艦隊を出向させましたが、不運や誤算が重なり敗北。更には嵐にも巻き込まれ大損害を出しながら帰還しています。
この戦いでスペインは政治的・軍事的にも衰退へ向かう一方、イギリスの方は海外進出への端緒を開きました。
後継者
これらの功績を残したエリザベス1世でしたが、自身の女官で親友の伯爵夫人ら友人たちの死が続き、鬱病に。食事も薬も拒むと健康状態は悪化、1603年3月24日人生の幕を閉じています。
そんなエリザベス1世でしたが、秘密裏にメアリー=スチュアートの息子でスコットランド国王のジェームズ6世と連絡を取り合って後継者に指名していました。
こうしてスコットランドとイギリスを治める同君連合王国が生まれたのでした。