関東軍を通して見る第二次世界大戦
関東軍と言えば
- 張作霖爆殺事件
- 満州事変を独断で実行
- ノモンハン事件
などが有名で、日中戦争の契機に繋がる事件に関わったことが知られています。
今回はそんな関東軍を通して見た第二次世界大戦について調べていきます。
関東軍とは??
関東軍は大日本帝国陸軍の総軍(総軍になったのは1942年)の一つで、関東都督府と呼ばれる機関が前身です。
ここでいう関東とは日露戦争後の租借地・現在の中国にある遼東半島先端部と南満州鉄道付属地(=関東州)のこと。
この関東州を統治するため1905年に作られたのが関東都督府です。
1919年に関東都督府が関東庁に改められ、軍事部門が分離することに。外地への派遣部隊の一つで分離した当初の軍は小規模なものでした。
関東軍ができた当時の状況は?
1914年から18年までの第一次世界大戦が終わり関東軍が関東都督府から分裂した後、世界的な戦後恐慌が始まりました。
更に1921年には四カ国条約が締結され、それまで結んでいた日英同盟の失効が決定的となり徐々に孤立を深めていきます。そのうえ、日本国内では関東大震災が重なり後処理に失敗したため、経済的な安定を求めるには満州が必要という空気になっていきます。
一方、関東軍の駐屯地とご近所の中華民国では内戦が継続中していました。1916年から始まった軍閥時代です。いくつかの軍閥が並立し、それぞれ日本や米英、ソ連などが背後につく時代でした。
そんな中で中華民国で国民党と共産党が発足すると、両者が協力して中国統一を目指し北上(=北伐)していきます。
もう少し世界に目を向けてみると、1917年にソビエトのレーニンが『民族自決』を提案。翌年にはアメリカが民族自決の権利を含む十四か条の平和原則を演説の中で主張しています。
この民族自決の考え方が中国や朝鮮の独立運動に拍車をかけました。社会主義思想と結びつく者も出てきており裏にソビエトが見え隠れします。関東州の守備を主な任務とする関東軍にとって頭の痛い問題となっていきます。
※社会主義思想は階級や搾取のない平等な社会であるべきという考え方で、天皇制も私有財産も否定しているため日本にとっては受け入れがたいものだった
北伐の対処として関東軍が起こした事件
北伐は日本にとって受け入れられる事態ではなく対処が必要となります。
そこで当時の内閣は張作霖がトップに立つ奉天派への支援を北伐の対処法として選択します。
ところが、張作霖は自身の軍閥が強くなり始めると日本だけではなく欧米、特に中国進出に出遅れたアメリカからの支援を受け入れはじめました。
そんな状況でしたから関東軍は「軍閥を通しての支配はいずれ限界が来るだろう」と考えていたようです。内閣と関東軍、両者の隔たりは次第に大きくなります。
その最中に張作霖ら奉天派は北伐軍に敗退し北京を撤退。関東軍の一部が張作霖殺害に舵を切ることに。
こうして起こったのが1928年6月4日、北京から奉天(日本で言う満州)へ戻る途中に列車ごと爆破した張作霖爆殺事件です。
張作霖爆殺事件の結果は・・・?
奉天派の総帥が亡くなり、満州を継いだのは張作霖の息子の張学良。
父の死の真相を知った張学良は、敵対勢力だった蒋介石ら国民党と手を結び日本に対抗する方針に変更します。その一方で国民党に下る代わりに満州での軍事・政治の不干渉を認めさせました。
日本は満州への影響力を低下させることになり、この流れが満州事変へと繋がっていくことになります。
満州事変の勃発
張作霖の死から2年たっても日中間の諍いは継続中。そして、とうとう1931年9月8日に奉天郊外で関東軍が南満州鉄道の(日本所有の)線路を爆破します。満州事変の発端として有名な柳条湖事件です。
柳条湖事件で関東軍は張学良ら東北軍の仕業と主張し、軍事行動を開始。その後、5か月の間に関東軍は満州を占領していきます。
- 満州への影響力を取り戻すため(権益等含む)
- ソ連との緩衝地帯
- 中華民国の権益を巡っていずれアメリカと衝突する際の備え
以上の理由から満州を手に入れたかった日本は、占領地域に清の廃帝・愛新覚羅 溥儀を国家元首に置き、満州国を建国させました。
満州国の建国に当たって痛手になる国とは?
独立された中華民国は当然なのですが、特に痛手になった国がアメリカです。張作霖時代から投資を行い背後にいたため、アメリカ側の立場になれば満州国の建国は厄介な問題となります。勿論、中華民国に租借権を持っていたイギリスなども同様で、日本に対する風当たりが強くなるのは理解できるかと思います。
支那事変(日中戦争)後に英米が仏の植民地を経て国民党に支援することになるのですが、裏には上記のような事情があったようです。
日中戦争の勃発
1937年、ずっと小競り合いを続けてきた中華民国との戦いがいよいよ本格的になりました(とは言え、日中共に宣戦布告できる状況下じゃなかったため互いに『事変』と呼んでいます)。
発端は支那駐屯軍(大日本帝国陸軍の軍の一つ)と国民革命軍との衝突でしたが、日中戦争発端となった盧溝橋事件後には軍編成が変更され、最終的に支那駐屯軍は廃止。逆に関東軍は規模を拡大させ、1942年には軍から総軍へと昇格させています。
なお、盧溝橋事件以降中国での戦線を拡大させようとしていたのは関東軍で支那駐屯軍は積極的に停戦と和平を行おうとしていました。
ノモンハン事件とは??
日中間での争いが激化している中、ソビエトとの諍いも発生します。
- ソ連・・・日本とドイツを最大の仮想敵国とした
- 日本・・・共産主義の行き着く先は国体の解体・天皇制の否定
上記のような理由から小競り合いが発生している中、1939年5月から9月にかけてノモンハン事件が勃発。満州国とモンゴル人民共和国の国境を巡り日本とソ連が衝突したのです。
※モンゴル人民共和国は1924年に誕生し、一党独裁の社会主義国でソ連が支援していた
ノモンハン事件による影響
ノモンハン事件では日本側の装備が遅れており、関東軍は大損害を受けました(一方のソ連も大損害を受けていましたが巧妙に隠しており、日本は対ソ戦で大敗したと考えていたそうです)。
さらにソ連の仮想敵国に認定され日本とは防共協定まで結んでいたドイツが8月23日に独ソ不可侵条約を結びます。
日本にとってドイツは防共を目的にする味方と考えていたので寝耳に水の知らせで、ショッキングな出来事でした(『欧米事情は複雑怪奇』の名言は独ソ不可侵条約を受けての言葉)。
日本は支那事変(=後の日中戦争)で戦線を拡大している中での大敗でしたし、ソ連側はヨーロッパで第二次世界大戦が発生したこと、ノモンハン事件で痛手を喰らったことから互いに停戦を模索し始め、実際に9月に停戦協定を結びます。
この日本側の『ソ連に大敗した』という認識が後々第二次世界大戦で連戦連勝のドイツとの同盟を促し、アメリカとの亀裂が決定的になったという指摘もあるようです。また陸軍内の『北進論』が鳴りを潜め、『南進論』が幅を利かせる契機にもなりました。
日ソ中立条約の締結
1941年4月に日ソ間で締結されます。内容は
- 相互不可侵
- 一方が第三国の軍事行動の対象になった場合の他方の中立
- 満州国とモンゴル人民共和国それぞれの領土の保全と相互不可侵
などです。
有効期間は5年間で1946年までは続くはずの条約で、日ソ中立条約の締結を機に『北進論』を支持する人は完全な少数派となりました。
太平洋戦争と日ソ中立条約の破棄
日中戦争の泥沼化を解決するため、第二次世界大戦でのドイツの躍進して東南アジアに植民地を持つオランダ・フランスが降伏したことに目をつけた日本は南進を選択。仏インドシナ領は英米の中国・国民党への支援ルートだったこともあり、日本は1940年9月に進駐したのです(=北部仏印進駐)。
翌年、1941年6月になるとドイツが独ソ不可侵条約を破りソ連へと攻め込みます。この事態に日本は再度日ソ中立条約を破棄してソ連に攻め込むべきという北進論派もいて方針を見直す機会もあったのですが、結局は資源確保を優先して南進論を選択しました。
日本が仏印領を北部だけでなく南部にまで手を広げた所でアメリカは日本に対しての禁輸に踏み切り、1942年12月太平洋戦争へと突入します。
太平洋戦争については割愛しますが、徐々に物量に勝るアメリカに押し切られ日本は劣勢にとなり戦争の末期には人手不足が深刻化。関東軍に所属していた部隊も南方へ転身し兵を現地で動員せざるを得ずに弱体化が進んでいました。
次第に日本本土も窮地に陥いると1945年8月8日に日ソ中立宣言を破棄したソビエトが対日宣戦布告して満州国へ侵攻。軍の情報部隊はソ連が近々攻めてくるという情報を得ていましたが、一部を除き危機感を持てずにいたとも言われています。
危機感を持っていた部隊であっても日本の状況から兵站を増強出来るはずもなく、また居留民の避難もソ連侵攻の呼び水になる恐れがある事から何もできずに数々の悲劇が生まれます。引き揚げ命令が出た後でも関東軍への信頼もあって後退しないような開拓団もいたようです。
実際に戦闘が始まり、一旦引いて態勢を整えて備えようとすると国境付近の居留民は置き去りにされることとなります。結果『関東軍が民間人を置いて逃げた』なんて話も出てきます。
関東軍のその後の戦闘を見てみると個人的には態勢を整えた説が濃厚な気がしますが、見方によっては逃亡と捉えられるのもしょうがないのかなと思っています。出そうと思えば居留民に避難指示は出せた訳ですし・・・
その後は...というと
- 1945年8月14日 日本はポツダム宣言を受諾
- 1945年8月16日 自衛戦争以外の戦闘行為に対する停止命令
- 1945年8月18日 全ての戦闘行為に停止命令
が日本軍に出されましたが、対ソ戦はしばらく続きます。満州、朝鮮半島北部、樺太、北方4島を支配下に置いて9月5日にようやく戦闘行為が終わります。
この戦時下に捕虜とされた多くの関東軍の軍人はシベリアに送られ強制労働に従事しました(=シベリア抑留)。
一方、日本ではGHQによる間接統治が始まります。日本軍にも当然メスが入れられます。1945年には陸軍省と海軍省が解体、1946年3月には旧陸軍のエリートを残すために設置されていた禁衛府と皇宮衛士総隊の解散が命じられ、大日本帝国陸軍の幕が閉じられたのです。