局中法度と浅葱色のだんだら羽織の制定【新選組】
京都残留組が会津藩主・松平容保により会津守護職御預かりの『特別警備隊』として新たに動き出した直後、非主流派のメンバーが脱落。いよいよ新撰組好きな方にはお馴染みのメンバーで隊が動き出すことになりました。
今回は、この新たに動き出した壬生浪士組が最初の頃に何を行ったのか?を探っていこうと思います。
隊服の制定
新しくスタートした壬生浪士組が発足後すぐにしたことが隊服の制定です。
新選組の隊服といえば『浅葱色のだんだら羽織』が有名ですが、この羽織は実際に新選組の名前を賜る以前の段階で作ったものでした。文久3年4月1日(1863年5月)、衣更えの季節も近づいてきたため「隊服を作ろう」という話から発展しています。
隊服のお金はどこから調達したの??
衣服代まで会津藩から支給されておらず、リーダー格となった芹沢鴨と近藤勇が相談の末に「大坂の裕福な商家から借りよう」と金策に走って費用を調達しました。
芹沢・近藤の他、新見錦、土方歳三、沖田総司といった壬生浪士組の中心的な7名が大阪に向かい、相手方(大坂今橋筋の平野屋五兵衛方)に借金の申し出を行いました。平野屋は突然の申し出に困惑し断ろうとしますが、結局は店に居座った彼らの粘り勝ちで金100両を貸し出ししています。
なお、当時の米価換算で言うと一両=約5万円。ということで、およそ500万円の借金となりました。借用書は一応交わされていますが「本気で返す気ある?」という内容です。
実際に言われていたかは定かではありませんが、こうしたカツカツな台所事情が後世の創作作品で『壬生狼』転じて『みぼろ(身ボロ)』なんて揶揄されるようになった背景のようです
いよいよ隊服誕生!そのデザインが意味するところとは?
お金を借りた後、※大丸呉服店に全員分の夏服を注文しています。この夏服こそが浅葱色のだんだら羽織です。
※現在まで続く大丸百貨店の前身
実用的に使えるよう背中側の裾が割れた打裂羽織(ぶっさきばおり)で袖の部分に奇数の白いギザギザ模様が特徴的でした。『ギザギザ模様は裾の方にも入っていた』説もありますが、近年では『裾だけ説』が少し有力みたいです。
その忠義心を武士のお手本のようだとされた赤穂事件を元にした『忠臣蔵』の芝居の中で着ていた羽織の模様がギザギザ模様で、芹沢鴨はこの『忠臣蔵』が大好きだったそう。赤穂浪士たちへの尊敬の念を込めて、この模様になったと言われています。
ところが、治安維持を目的とする警備隊として京の市中見回りをしていた壬生浪士組にとって、この隊服はかえって目立って仕事がやりにくい(上に気恥ずかしかったかもしれない)。こうした事情から隊士にはあまり評判が良くなかったという話もあったりします。
そんな感じの評判もあって、後に別記事で紹介する予定の池田屋事件を最後に着られなくなりました。
「誠」の隊旗の制作
隊服と同時期に作ったのが、下部にギザギザ模様の入った赤い生地に白抜き文字で「誠」の文字が入った隊旗です。
屯所として使われた民家に住む八木家の次男と試衛館メンバーの一人・永倉新八が大きさについて証言していますが、永倉の証言だと大きすぎることから「縦4尺(約1.2m)、横3尺(約90㎝)」の方が信憑性があると考えられています。
こうした大きな隊旗の他に、縦長の小旗や提灯にもギザギザ模様と「誠」の文字が入ったものが作られ、壬生浪士組のトレードマークとなっていきました。
なお、隊旗は普段の市中見回りの際に使われることはなく正式な行軍の際にのみ使われていたようです。
壬生浪士組、第一次隊士の募集と編成を行う
初期から残ったメンバーは計15人。芹沢派と試衛館派だけでは到底京の見回り業務を行うことが出来ませんでした。
壬生浪士組は京都のはずれの小さな農村・壬生村にある民家の八木邸や郷士の前川邸を屯所とし、隊士を京だけでなく大阪まで広げて募ります(=第一次隊士募集)。応募資格は身分・年齢問わず尊王攘夷、尽忠報国の意志を持っているかどうかに焦点が当てられていました。
誤解されがちですが、尊王攘夷は「天皇を敬い、異国の敵を打ち払おう」という意味を持つものであって「幕府をどうにかしよう」という意図は本来なら持っていません。
『尊王攘夷 + 反幕・倒幕』も『尊王攘夷 + 佐幕(=幕府を補佐する党派)』もどちらも成り立つわけですね
そんな隊士募集の間、壬生浪士組に初仕事が舞い込みます。上洛中の将軍・家茂による大阪湾の防備状況視察の際に道中警護をするという内容です。
少しずつ腕利きの有志達が集まり始め、道中警護の仕事の時には総員二十余名となっていた壬生浪士組は、揃いのだんだら羽織の隊服に大きな髷を結い威圧感を醸しながら会津藩士の列の一角に加わりました。
大坂滞在中にも隊士募集は行っており、月を跨いで帰京する頃には、島田魁、松原忠司、川島勝司ら21名の新入隊士が入っています。
こうして人数も増え、ある程度形が整った頃に改めて組織編成を行いました。初期メンバーが局長(2名)・副長(3名)・副長助勤(9名)・勘定方(1名)の幹部職に納まり、残りの新規隊員を平隊士としています。
試=試衛館一派 芹=芹沢一派
局中法度
タイトルにつけた『局中法度』という言葉。新選組を学ぶと必ず見かける有名な言葉だと思うのですが、実を言うと原資料がなく『新選組始末記(子母澤寛著)』に書かれた創作だろうと考えられています。
ただし全てが完全な創作ではなく、多様な出自の人間をまとめるために遵守すべき共通ルールを作っていたことやルールを破った者が「切腹」を申しつけられる部分は完全に一致しています。
具体的には下の内容に「私ノ闘争ヲ不許」が加わったものが『局中法度』です。
一、士道に背くこと
二、局を脱すること
三、勝手に金策をいたすこと
四、勝手に訴訟を取り扱うこと
この四か条を背くときは切腹を申しつくること
この内容は晩年に永倉新八が語った談話の中で触れていたため、禁令の方が正確なものだろうと考えられています。
「一、士道に背くこと」ははかなり抽象的な内容で、局長や副長の一存に委ねられる危うい一面があるのが分かりますね。禁令の具体的な制定時期には諸説あって分かっていませんが、何人か違反者として処分された者がいることから1863年には既に作られていたとされています。
厳しすぎる規律が求められた理由とは?
この答えは壬生浪士に参加した者達が元々武士ではない者が多数であり、一度入隊した以上は武士としての行動規範が要求されていたためと考えられています。
局長の近藤勇、副長の土方歳三が農家出身だったという出自が大きく関係していたことは間違いなく、隊士達にも自分達にも「真の武士であること」を強要したとも言えましょう。
『禁令』による違反者はどのくらいいたの?
後の新政府軍と旧幕府軍との戦い【戊辰戦争】の初戦【鳥羽・伏見の戦い】以前の5年間で出た新選組内部の死者は45名。
このうち、治安維持のために倒幕志士と戦って命を落としたのは僅か6名。その他の39名の死者の殆どは切腹や暗殺などの粛清が原因とされています。
粛清の中には幹部クラスの派閥争いに禁令を適用した例もあったようです。
こうした組織としての基盤を作り上げていった壬生浪士組。この後、再び分裂騒動が起こり始めることとなります。