三国志

後漢王朝の衰退と黄巾の乱

歴ブロ

漢王朝は歴史上2回滅んでいます。高祖・劉邦が建てた前漢は西暦9年に一旦滅亡しました。

その前漢から帝位を奪った王莽儒教に凝り固まった人物で、当時流行していた【讖緯(しんい)説】と呼ばれる『儒教の神秘主義による予言』を利用して皇帝の位に就きました。

しかし、あまりにも儒教に偏りすぎた政策に各地で反乱を招き、西暦25年に漢王朝を復興したのが、後漢の光武帝・劉秀でした。光武帝もまた、儒教思想や学者をうまく政治利用し、自分の正当性をアピールしましたが、これが後漢の政治基盤に儒教の形式主義や礼儀優先が固く組み込まれる事になります。

また、赤眉の乱によって地方の行政が混乱に陥った事で、各地の地方豪族の力が大きくなり、中央政府の監視が行き届かなくなり有力な豪族が私兵を抱えて自立する傾向が強くなっていきました。

これが後漢末期に群雄たちが割拠する要因の一つとなったのです。

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後漢王朝の衰退

前置きのほかに後漢が滅んだ要因は、最後の数代の皇帝の治世に起こった【外戚】と【宦官】や【官僚】の三つ巴の権力闘争で、これが王朝衰退の最大の原因とされています。

彼らによる際限のない搾取と、飢饉や疫病に対する無対応に苦しめられた農民たちは、各地で反乱を繰り返すようになりました。こうした民衆の行動が、盗賊団や新興宗教の中に取り込まれていきました。

そして、ついに黄巾の乱という全国規模の大反乱へと動き出すのです。

このように後漢は、外部の圧力によって滅ぼされたのではなく、自らで内部崩壊をして滅んだ王朝だったのである。

れきぴよ
れきぴよ

宦官とは…中国の歴代王朝に仕える去勢された男の役人。中国王朝では、皇帝専用のハーレムに何千人とも言われる女性がいるため、皇帝以外の子種を残せないように仕える男性役人たちにこのような処置を施しました。

後漢王朝崩壊を招いた宦官と外戚の争い

後漢王朝は最後の献帝に至るまでに13人の皇帝が即位しました。

そのうち、9人の皇帝が7歳以下の年齢で即位し、中には1歳で即位し2歳で亡くなった皇帝もいます。王朝の全権力を保持する皇帝が何もわからない幼い子供の為、実際政治を動かすのは皇帝周りの人間が動かすことになります。

そうなると、一番権力を握れる人間は皇帝の母親やその一族である【外戚】という事になります。しかし、皇帝が成人し権力を手にしたくなるとその外戚たちが邪魔になり、その時に力を貸して外戚を排除するのが皇帝の身の回りのお世話をしている宦官なのです。

そこに清流の士と呼ばれる官僚集団が加わり三つ巴の権力闘争が後漢末期の宮廷では何度も起こりました。こんなことを繰り返していくうちに後漢王朝の政権基盤は衰退していくことになります。

献帝の父・霊帝の死後に起こった権力争いが後漢王朝のとどめを刺し、滅亡の決定打を与えています。

霊帝の側近十常時の一人・攓磧と外戚の何進が対立すると、何進は宦官を一掃計画を立てますが、十常時に先手を取られ殺されてしまいます。その後、華北の袁紹が宦官を皆殺しにしますが、何進によって呼ばれていた董卓によって新たな対立構造が出来上がり漢王朝は衰退の一途をたどります。

れきぴよ
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清流の士とは…正規の登用によって官職を得た者たちで、高官や豪族などの有力者から推挙を受けて、厳しい試験を突破して官僚になった者たちの事を言います。

子孫を残すことが出来ず学問・礼法もなっていない皇帝の使用人に過ぎない宦官たちとは、折り合いが悪く何かと対立をしていました。

黄巾の乱の勃発と各地の反乱

蒼天己死 黄天当立 歳在甲子 天下大吉

そうてんすでにしす こうてんまさにたつ としはかのえねにあり てんかだいきち

こうしたスローガンの元で184年に黄巾賊は、後漢末期に全国一斉に発起しました。

黄巾賊とは太平道と呼ばれる民間宗教を軸にした一大武装勢力で、その主導者が張角張宝・張梁の二人の弟を含む幹部を組織して瞬く間に数十万規模の軍団へと膨れ上がりました。

彼らは明確に「漢王朝打倒」を掲げており、五行説によれば漢王朝の象徴は火で、その火が土に勝ることになり、土の色は黄色という事のようです。【黄天当立】とは、自分たちが天下を取る意思表明であり、その同志たちが黄色い頭巾【黄巾】をかぶっていました。

乱勃発から間もなくして、黄巾賊の勢力は百万人規模まで達し、各地の主要都市を次々と占領し、官の首都【洛陽】まで迫っていました。

黄巾側の急速な拡大要因としては宗教だったことが大きく、後漢末期の農民たちは宦官や外戚たちの際限のない搾取に苦しめられ、農地を捨てて逃亡する者が多く、そんな彼らが救いを求めたのが信仰だったのです。

太平道の指導者たちは、こうした民衆の救いを求める心を巧みに入り込んだのでした。

太平道の教えは簡単で、自分の犯した罪は告白する事で病気を治し、仲間の結束を固めると言うものでした。宗教組織もシンプルで、全国の信者の36のという単位に分けて、一つの方に数千人を指揮する渠師(きょすい)と呼ばれる頭目を置きました。

いざ出兵の時には、の単位そのままが武装集団として州や県の中心地に一斉に攻めてきました。

また、反乱を起こしていたのは黄巾賊だけではなく、蜀から漢中にかけては【五斗米道】と呼ばれる太平道とよく似た宗教団体によるものもありました。彼らは、入信の時に五斗の米を要求してきたので五斗米道と呼ばれ、こちらは以後しばらく続いていくことになります。

新興勢力以外にも、西方のや北の匈奴烏丸鮮卑と呼ばれる異民族も一斉に反乱を起こしました。しかし、これらの反乱が相次いでいるにもかかわらず、後漢王朝の対応は遅れます。宮廷内の抗争に明け暮れ、事前に黄巾の同調者を捕えていたのにもかかわらず、後手後手に回っていたのです。

結果、黄巾の乱では後漢王朝を倒すことはできませんでしたが、風前の灯火だった王朝に最後の力を使いわせたことによって、その後の群雄割拠の時代の道筋を作った出来事でした。

黄巾の乱の鎮圧

反乱の拡大で数百万二規模の大暴動と化した黄巾の乱。

事態を把握した政府は、皇甫嵩・朱儁・盧植らを討伐軍の指揮官に任命し、本格的に黄巾賊討伐に乗り出しました。また、黄巾討伐の義勇兵も公募し、曹操・孫堅・劉備らの三国志の英雄たちが表舞台に乗り出します。

討伐軍結成当初は、黄巾賊の怒涛の勢いに苦戦を強いられていましたが、数か月後には反乱軍の重要拠点を抑え、指導者・張角の病死。張宝・張梁も戦死すると反乱軍の勢いもいったんは下火になります。

184年に起こった黄巾の乱は、同年末には一応鎮圧されています。

しかし、その影響が一掃されたわけではなく、反乱の原因が取り除かれたわけではないので、その余波は後まで残りました。

その原因が、黄巾賊が組織された軍隊ではなくあくまでも土地を捨てた流民の集団だった事です。こうした集団は勢いがあるときは強いですが、一度手ごわい抵抗にあったり、指導者が戦死したりすると元のバラバラな群衆に戻ってしまいます。

いくら宗教間の結束があっても、略奪が成功しなければ集団経営には生き詰まってしまいます。こうして、いくつかの地点で反乱が鎮圧されると、当初の勢いがなくなり乱も下火になっていきました。

しかし、各地に飛び火した反乱勢力は、地方で戦い続けそのほとんどを無政府状態にしてしまい、その空白地に漬け込んで後に頭角をあらわす群雄たちが誕生していくのです。

黄巾の乱で活躍した群雄たち

黄巾の乱で後漢政府は、幅広く人材を登用しています。

この時に頭角を現したのが孫堅で、以前に地方の会稽で起こったクーデターを鎮圧した経歴の持ち主で、黄巾討伐軍の大将・朱儁によって前線の指揮官に抜擢されました。

孫堅は朱儁の期待に応えて、黄巾賊を次々と撃破しその名声をますます高くしました。

また、中央政府の官僚として黄巾討伐軍に従軍したのが騎都尉の曹操で、彼もまた朱儁(しゅしゅん)に従って戦い、皇甫嵩の危機に救援するなどの戦火を上げ、反乱鎮圧にあたって力を示しています。

三国志の英雄の中で後れを取っていたのが劉備で、地元の商人にお金を出してもらい私兵を集め黄巾討伐に参加したのですが、曹操と孫堅に比べると後れを取った感は否めないところでしょう。

こうして歴史の表舞台に登場した彼らにとって大きかったのは、大軍を動かす戦場でも実務経験だったに違いありません。黄巾賊は大軍ですがしょせん烏合の衆。それに対して、組織のキチンとした正規軍は、兵力が少なくても大軍をも凌駕するのを目の当たりにしました。

また、人数が多ければ多いほど、補給や統制をしっかりせねば大軍は内部から崩壊するという事を現場で学んだことは、彼らの後の活躍の糧になった事は言うまでもありません。

劉備・関羽・張飛が交わした義兄弟の契り

漢王朝の子孫でありながら、母と二人でワラジ作りをして生計を立てていた劉備が、宅県の市場で肉屋をしていた張飛とお尋ね者の関羽の不埒の豪傑と会います。そして、意気投合した三人は長兄・劉備、次兄・関羽、末弟・張飛として花盛りの桃園で義兄弟の契りを結びました。

われら同年同月同日に生まれざるも、願わくば同年同月同日死のう

と天に誓い、義兄弟の契りを結ぶ…

 

この『桃園の誓い』は、劉備・関羽・張飛が義兄弟の契りを結ぶ三国志の名場面です。

この桃園の誓いは三国志演義のプロローグとしてか書かれており、正史にはその記述はありません。この名場面はあくまでも演義におけるフィクションによるものなのです。

それもすべてが創作かと言うとそうでもなく、この儀式は明時代初頭の無法者たちが義兄弟の結縁儀式を参考にして創作されたものと考えられています。

古代から現代にいたるまで、漢民族の社会は地縁と血縁に基づいたコネ社会です。地方でも中央でも、有力なコネが無ければ、出世はできないし名門の子は無能でも親のコネで政府の要職に就くことが出来ました。

しかし、この頃の関羽と張飛と出会った頃の劉備は、そんなコネは一切持っていません。

それでも世に出ようと思えば、個人的なつながり・友情・義理人情によって自らの地盤を築くしかなかったのです。

演義の作者は、こうした劉備の事情を無法者たちに重ね合わせ、読者の理解と共感を得られるようにした言われています。日本でいるところ、信長などの戦国武将を企業の重役になぞらえて小説を書くのと同じ手法だと考えると良いでしょう。

 

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歴ブロ・歴ぴよ
歴ブロ・歴ぴよ
歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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