
後漢末期に誕生した群雄の中で実力がナンバーワンだったのが袁紹でした。
家柄が良いのは言うまでもありませんが、当時はかなりの優秀な人材が集まっていました。
袁紹について行けば、将来出世が見込める可能性が高かったからでしょう。当時の情勢からすれば、袁紹が天下を取るのが確実だとも言われてもいました。
袁紹の参謀として荀彧くらい優秀だったのが沮授で、始めは韓馥の下にいましたが、袁紹に降伏した事で袁紹の参謀へと昇進しました。実際にかなりの地位を与えて迎え入れているようです。
力はあるが人間的に無能だった袁紹
こうして、天下統一は袁紹であろうと世の中がなっていく中、当の袁紹は自己中心的で人の意見をまともに受け入れる事が出来な人物だったそうです。
たとえば、沮授は荀彧より先に献帝を受け入れるように袁紹に進言したのですが、めんどくさがって採用をしませんでした。後述する官渡の戦い前にも曹操と戦うのは早すぎると止めるのですが、却下され戦いに投じていくことになります。
曹操との決戦時も、決定的なアドバイスを貰いながら採用をせずに、結果的に沮授自身も捕虜になってしまいます。曹操は、人材集めが趣味だったこともあり沮授を配下にしようとしますが、家族が袁紹の下に残っていることを理由に自ら死を望み処刑されました。
田豊もまた有能軍師の一人とされ、彼もまた曹操が劉備を攻めるために官渡を離れるから、本拠地の許を攻めると進言しますが、子供の具合が悪いと言い訳をして却下したのです。
袁紹は、曹操が戻ってきた頃に動き出そうとしますが、今度は田豊に止められます。これに激怒した袁紹は田豊を投獄して官渡の戦いに挑み敗北しました。戻った袁紹は、自分を笑いものにしたという事で田豊をそのまま処刑してしまうのでした。
こうした行いをそばで見ていた許攸も優れた軍師でしたが、官渡の戦いでは土壇場になって袁紹を裏切りました。
烏巣に兵糧が蓄積されている情報を持って、曹操の元へ駈け込んでいます。こうして曹操は、奇襲に成功するのですが、許攸があまりにも恩着せがましくするので結局は曹操に殺されてしまうのでした。
袁紹に仕えた名参謀たちは、その能力は荀彧や郭嘉のような曹操の参謀たちに劣っていたわけではなく、ただ上に立つ人間が使いこなせなかっただけだったのです。顔良や文醜も決して弱かったわけではなく、ここぞと時に力を発揮できなかっただけでした。
袁紹には、トップに必要な『ここ一番の決断力』がなかった事で、みすみす天下を逃してしまったのでした。
袁紹と袁術の関係
袁術も名門袁家の出身で、河北を支配した袁紹とは従兄弟にあたります。
良い家柄らしく出世は早くしましたが、董卓が実権を握ったときには、とばっちりを受けまいと南陽へと逃げていました。
この頃と孫堅がタイミングよく南陽の太守を討っていたので、孫堅を抱き込んで南陽を乗っ取っていました。荊州南部の南陽は、人口が多く豊かだったので、群雄として天下を狙うにはうってつけの足掛かりを得ていたのでした。
しかし、袁術は同じ一族の袁紹とは仲が悪く、また荊州を支配する劉表とも折り合いが悪かったので、北の公孫瓚と手を結ぶことに。袁紹も劉表と手を組んで、袁術に対抗しました。
この時期の三傑の曹操は袁紹側に、孫堅は袁術、劉備は両方をウロチョロしていました。
董卓が殺害されて、献帝が長安を脱出すると袁術は自分が皇帝になろうと言う野望を持ち始めます。当時配下だった孫堅や息子・孫策が強すぎて手が付けられないことが、袁術の野望を煽ったのかもしれません。
しかし、当の袁術はたいして実力はありませんでした。
インチキな予言を信じて皇帝を自称しますが、これが孫策から見限られる結果になり、呂布を破った曹操から徹底的にやられてしまい、元部下の所に逃げますが受け入れを断られてしまいます。
追い込まれた袁術は、袁紹の息子・袁譚に身を寄せようとしますが、道中病気になって野垂れ死に当然で亡くなってしまいます。
どうにも袁術と袁紹と言う名門袁家は、人間の見通しが甘いようです。
こうした乱世で生き残るのは、したたかな現実主義の人なのかもしれませんね。
名門袁家・袁紹と新興群雄・曹操の確執

反董卓連合が挙兵するまでは、曹操と袁紹の関係はそれほど悪くありませんでした。
ところが、袁紹が皇帝一族・劉虞を新しい皇帝に立てようとした時から関係が悪化します。
この時、【袁紹が曹操に向かって玉でできた印を上げて見せた】と正史にあり、これがどうも正統を証明する印という事で相手を見下すと言った行為らしく、この行為に曹操がカチンときたのでしょう。
しかし、袁術戦っていた曹操は、この時は一応我慢して手を組み続けていました。
時が過ぎ、献帝が曹操の元へ転がり込んでからは、本格的に袁紹との関係は悪化します。
曹操が大将軍・袁紹が大尉に任命されたのですが、袁紹はこれを拒否しました。どちらも後漢の最高官職の一つなのですが、大尉の方が名誉職の意味合いが強く、曹操より下に見られるのを嫌がったのでした。
しかも、曹操の立てる皇帝は、董卓が建てようとして袁紹が拒否した皇帝で、公孫瓚が袁紹に倒おされ、袁術が曹操に倒され病死すると、河北の2人の群雄は否応なしに対立せざる得ませんでした。
彼らの対立には、もう一つ後漢の名門として強大な勢力を持っていた袁氏と戦乱から勝ち上がった新興群雄・曹氏の生存競争と言った社会体制上の意味合いがあります。
袁紹は、自らの名声で後漢に取って代わる王朝を開くために、曹操は後漢の看板を利用しながら覇権を狙おうと二人の若き群雄が、後漢に幕を下ろし歴史に名を刻もうとしてタイルツするのはもはや運命としか言いようがありません。
曹操と袁紹の比較対象
名前 | 曹 操 | 袁 紹 |
出生 | 宦官の孫 | 後漢の大貴族 |
性格 | ずる賢い | お坊ちゃん気質 |
支配地 | 兗・徐州(司隷・予州・荊州と揚州一部)※実質は2州 | 冀州・青洲・幽、併州の河北4州を支配 |
動員兵力 | 2万弱 | 10万人 |
主な軍師・参謀 | 荀彧、程昱、郭嘉ほか | 田豊、沮授、郭図、許攸ほか |
武将 | 夏侯惇、曹仁、徐晃、張遼、楽進、于禁、関羽ほか | 顔良、文醜、淳于瓊、張コウ、劉備ほか |
これまで倒した群雄 | 呂布、袁術 | 公孫瓚 |
曹操を魅了した関羽の活躍
陶謙の死後に徐州牧として引き継いだ劉備の下に、曹操に敗れた呂布が逃げてきました。
しかし、袁術との戦いに敗れて呂布に徐州を取られてしまいました。
こうして劉備は曹操の下に逃れて、援助してもらい予州へ戻りますが、呂布に返り討ちに会いますが、曹操の援軍のおかげで呂布を討つことが出来ました。
その後、董承らの曹操暗殺計画に参加した劉備でしたが、ばれそうになる前に袁紹の元へ身を寄せることになりました。この頃の劉備は後の蜀漢皇帝になるとは考えられないほど、ウロチョロし戦うたびに負けていました。
その右往左往ぶりは、見方によっては呂布を訪仏させるものがあります。
しかし、呂布と違うのは劉備には、常に兄弟同様の関羽と張飛が行動しており、決して離れることはありませんでした。ところが、曹操と劉備が敵対する事になると、曹操の攻撃で関羽が捕まってしまい、劉備たちと離れ離れになってしまいます。
曹操は、無類の人材バカだったので、関羽を自分の下で働かせようと袁紹との戦いで従軍させました。形上ではありますが、劉備と関羽が敵味方同士になった瞬間でした。
ところが、関羽は曹操の為に手柄を上げると、そのままそそくさと劉備の元へ戻ってしまいました。裏切りが当たり前の乱世で、こうした行動を見ていると劉備、関羽、張飛は君主と家臣の関係と言うよりも、任侠の義兄弟の感じがします。
こういったところが、同じように他勢力に着いていった呂布との大きな違いなのかもしれませんね。
話がそれましたが、次回は曹操と袁紹の河北をかけた戦い【官渡の戦い】を書いて行きたいと思います。