王允と呂布による董卓の暗殺と群雄の割拠
長安に遷都し董卓が行った政策の中で通貨の改鋳が非常に評判が悪く、自身の政権を維持するどころか首を絞める結果となりました。
当時流通してた五銖銭は前漢時代から使われていた中、これを潰して新しい通貨を発行したのですが、その出来が悪く通貨価値が暴落してハイパーインフレを起こすことになりました。穀物一石の相場が数十万銭にもなったそうです。
五銖銭を潰すと並行して長安に有った銅像や鐘を壊し銅貨としたようで、長引く戦乱によって原料の銅が不足していた事がわかります。また、鉱工業の生産が武器を作る方に回っており、まともに通貨が作れなかったとも考えられています。
いずれにせよ、無理な遷都や流通しない通貨の発行が人々の不安を煽り、三公の一人・司徒だった王允が立ち上がり、董卓暗殺計画を立てるのでした。
董卓暗殺計画と王允・呂布政権発足
王允は同郷のよしみで董卓配下の呂布に近づきました。
二人は同じ併州出身ではありますが、互いに北外れと南はずれと随分と離れています。北海道で言うと、稚内と函館くらい地域が違いました。それでも、呂布が説得に応じ董卓を裏切ったのですから、王允と言う人物は相当話術に長けていたようです。
宮廷に招かれた董卓が、広間に入ろうとしたところ、呂布とその部下が切りかかり惨殺しました。董卓一族は、90歳の母親まで殺され、その死体は長安の市場にさらされました。
董卓は太っていたので、ヘソに燈心を入れて火をつけるとその油で何日も燃えたと伝えられています。
王允と呂布の政権はわずか2か月もなかった
董卓殺害後、政権は王允と呂布が握ることになります。
しかし、董卓のブレーン・蔡邑が現場に居合わせて思わず嘆き声を漏らした事を王允がとがめ、周りの意見も聞かずに処刑をしました。どうも王允は了見の狭い人物で、董卓の配下だった李確と郭汜が降伏を申し入れるのですが拒否しています。
その結果、李確らは涼州へ逃げ帰ろうとしますが、これを説得して長安へ攻め込ませたのが後の曹操の参謀になる賈詡でした。彼らは大軍を集めて長安を包囲。長安城は落城し、呂布は逃亡しますが残った王允は処刑されてしまいます。
こうして王允と呂布政権はわずか2か月という短い期間で終了しました。
これで一連の騒動が落ち着くかと思われましたが、長安を占領した李確と郭汜が権力争いを始めてしまいます。この事態にたまらなくなった献帝は、長安から脱出し洛陽に向かおうとしますが、李確達の追撃を食らったり、野宿をしたりと散々な目にあいながら一年かけて洛陽にたどり着くのでした。
その後、献帝は曹操に迎え入れられ、その後25年ほど名ばかりですが後漢王朝は続きます。一方で、長安を占領していた人間たちは、何年もしないうちに殺されてい居なくなってしまいます。
主人を裏切り続けた猛将・呂布
三国志で登場する武将たちで三傑以外で外せないのが呂布でしょう。
呂布は併州の北・五原群出身です。現在の内モンゴル自治区で漢の時代から遊牧民と漢民族が共に住んでいる地域でした。
併州刺史だった丁原が何進に呼ばれ洛陽に来ると、部下だった呂布も一緒に上京しました。これが呂布の人生のターニングポイントでした。
洛陽実権を握った董卓でしたが、自身の兵力が少ないことを危惧していた所、丁原の精鋭部隊に目を付けました。丁原を亡き者にしてその部隊を我が物にしようと、呂布に誘いをかけました。
呂布は董卓の誘いに乗って丁原を討ち取ります。
そして、董卓の配下になり重用され親衛隊長を任されます。しかし、今度は王允の誘いを受け義理の親子関係を結んでいた董卓を手に駆けます。正史・演義共に女性がらみがきっかけだと言われており、演義ではその女性が【貂蝉】であることは皆が知る事でもあります。
この呂布は、強いのですがどうも目先の欲につられやすい性格だったようです。欲につられると言うのは誰にでもあるのですが、呂布の場合は当時の社会ルールを大きく逸脱していました。
例え乱世であっても、これ以上やってはいけないと言う一線が呂布にはわからず、自分の欲望のまま行動していたようです。
洛陽を出た呂布は、その後あちこちで問題を起こしながら暴れまわるのですが、ついには悲劇的な結末を迎えるのはもう少し先の話です。
河北の実力者・袁紹
袁紹は後漢末期に最も有力な豪族・袁氏の出身で若い時から、その才能を評価されていました。袁氏と言うのは、袁紹からさかのぼって4代に渡り三公【大尉・司空・司徒】と呼ばれる後漢最高の地位に就いていました。
三公とは…三司とも言われ、皇帝の命により政治を行なう、政府の最高位の官職でした。水利や土木を担当する【司空】民政担当の【司徒】軍事の【太尉】という構成になっています。
ここまでの大貴族となると、政府からの給料のほかに広大な土地と多くの小作人を抱え、その収入は膨大なものとなります。
また、その地位を利用して自分と同じ派閥の人や同郷・縁者を中央や地方の役職に就けて勢力を拡大するのは容易でした。董卓と対立して地方へ逃れる時も、こうした人脈や富によって、渤海太守というポストを獲得しています。
袁紹ほどの人物なら地方に行けば、その力と名声によって好きなだけ兵士や人材を集めることが出来るのです。
やがて袁紹を恐れた韓馥から冀州を譲られると、河北一大の勢力となり敵らしい敵は公孫瓚くらいでした。また、董卓が長安に皇帝を連れ去ったときに、袁紹は皇帝の一族だった劉虞を皇帝に立てようとしたこともありました。
こう書くと袁紹も董卓とやっていることは変わらないと思えますが、当時の常識からすればこの二人は家柄が違いすぎていました。
この時代は人望と家柄だけで社会的地位が決定されていた事を考えると、成り上がりの董卓は悪、名門の袁紹は善と分類されてしまうのです。もちろんこれはほかの群雄にも言える事です。
武勇で評価された孫堅や呂布もさることながら、宦官の養子の子と言うハンデを背負った曹操も身寄りもない劉備も現時点では、袁紹の足元にも及びませんでした。
大盗賊団の親玉・張燕(ちょうえん)
袁紹と公孫瓚が衝突を繰り返していた時に、10万の兵で公孫瓚の味方に付いた盗賊団の親玉が居ました。
その名前が張燕で張飛燕(ちょうひえん)とも呼ばれています。
黄巾の乱と同時期に、張燕も荒くれたちを集めて盗賊団を作り、各地を荒らし回っているうちに一万を超える盗賊団が出来上がりました。隣の地域にも同じような盗賊団があり、その親玉が張牛角で、この盗賊団と同盟し張牛角が首領に立てられました。
しかし、張牛角が戦死した事で張燕が首領の座を引き継ぎました。
それからも冀州内の盗賊団が次々と編成されて、ついには百万人規模の大集団となり、黒山と名乗るようになります。他にも盗賊団がありそれぞれに、白波・黄龍・佐校・牛角と言った強そうな名前が付けられたようです。
名前だけではなく、本当に強かったらしく、後漢政府が鎮圧する事が出来ませんでした。
そこで仕方なく後漢政府が、官位を与えて黒山賊を手なずける作戦に出たのです。その結果、張燕は平難中郎将と言う地位に就き、群雄の仲間入りを果たしたのです。
本来、群雄と流賊のはっきりとした区別はなく、魏の文帝(曹丕)が書いた【典略】の中には、【黒山や黄巾の頭目にはきちんとした家柄の出身はいない。自分勝手に白馬に乗っては、張白騎、敏捷だったから張飛縁燕と名乗っていた…】と言うように、身分が低いとどんなに規律を守ろうとも当時はみな【賊】とみなされていたようです。
逆に言うと袁紹のような大貴族がどんなに無法な事をしていても、名門の出身で官位を持って入ればそれは【群雄】という事になります。
また、後漢末期の地方豪族たちは、【塢(う)】と呼ばれる防衛用の砦を持っていました。
塢の中に食料や武器を蓄えておき、盗賊団が襲撃してきた時にここを拠点として戦うため設置していました。平時は設置個所に住んでいる農民たちが管理しており、これらの農民たちから働く武装集団が生まれました。
曹操の配下である許褚もこうした武将集団の親分だったのです。
この時代は、いかなる形であっても民衆は政府の保護をあてにできませんでした。
群雄であれ、流賊でも自警団もどこかの勢力に守ってもらわない限り生きていけない環境になっていたのです。
この時期に、政府の戸籍に記載されている人口は、後漢最盛期の十分の一にまで減少しています。これは、すべての日が死んでしまったわけではなく、逃げ出したり、流賊の仲間になったりと把握できなったと考えるとしっくりくるでしょう。
こうして後漢末期は、まともな世の中ではない完全な乱世になってしまったのです。
陶謙の厚遇を受け覇権争いに加わる劉備
黄巾の乱で一応手柄を立てて地方の官職についた劉備ですが、監察官(上司)を殴ってやめてしまいました。三国志演義では、張飛のやったことになっていますが、正史では劉備本人がやっているようです。
その後、あちこち転々として公孫瓚の所へと転がり込みました。
劉備と公孫瓚は、大学者盧植の同門の弟子だった事で、受け入れてもらえたようです。そして、袁紹と戦いに備えていた青洲刺史・田堦の配下に就くことになりました。
この時の天下取りレースは、袁紹・袁術・公孫瓚の三つ巴の混戦で、曹操は後れを取っており、劉備に至ってはスタートラインに立っていませんでした。
しばらくすると曹操が力をつけ、父・曹嵩が徐州牧の陶謙の配下に殺された事を理由に徐州へ攻め込みました。公孫瓚は陶謙と同盟をしていたので、劉備を派遣する事に…
劉備は、私兵と烏丸の騎兵、それにその辺の流民までかき集めて陶謙の元へ向かいます。
そんなボロボロの軍隊を見て陶謙は、劉備を気に入り追加で兵士4千人をつけてくれました。この兵士達がまた強い者たちばかりで、この時の劉備にとっては破格の厚遇であることがわかります。
こうして、公孫瓚から陶謙の配下になっていくのですが、公孫瓚の下では趙雲と陶謙の所では麋竺という今後の人生に関わる人材に出会います。この出会いにより、劉備も本格的に覇権争いに加わるスタート地点に立ったのでした。
こうして各地の群雄たちが割拠し始める中、とうとう曹操が力をつけ始め河北の雄・袁紹と激突する事になります。