激動の1905年とロシア内部の事情【ロシア史】
日露戦争が終わる直前の1905年、ロシアでは労働運動が高じて血の日曜日事件にまで発展。それ以降、度重なる全国的なストライキに加えてバルチック艦隊が敗れたとの情報が入るとツァーリの権威は失われてしまいます。
今回は、そんなツァーリの権威が失われ始めた1905年に起こった一連の出来事に加え、後の1914年から始まる第一次世界大戦中に起きたロシア革命に繋がる出来事についてまとめていきます。
後にロシアで出来た国名に繋がる『ソビエト』も今回初登場です。
激動の1905年
この頃のロシアは露仏同盟を根拠にフランス資本が入るようになり、西欧にかなり遅れて本格的に産業革命を行っていくと「追いつけ追い越せ」状態で工業に従事する労働者の扱いが非常に悪い状態にありました。
当然、労働者達には不満が募ります。この不満が労働運動に繋がるのですが、労働運動に社会主義思想が結びつくようになっていきます。
- 社会主義とは
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社会主義は、社会の富の生産に必要な財産の社会による所有と、労働に基礎を置く公正な社会を実現するという思想として生まれた。
その上、1904年の2月から始まった日露戦争も終わりが見えてこない状況の中で血の日曜日事件が起こると、政府は騒動を無視できなくなりました。
- 個人や団体からの提言を政府で話し合う
- 国会を開くための議論に、選出された人民も参加させる
という勅令を出すことに。
ところが、その同年に日露戦争でバルチック艦隊敗北の知らせが入ったことでポーランドの独立を求める叛乱やロシア海軍で発生した反乱(ポチョムキン号の反乱)などの騒乱に拍車がかかったのです。
その上で同年9月5日には敗戦。農民の動きも激しくなってしまいます。
そこまで混乱が大きくなっていたため、当時の皇帝ニコライ2世は十月詔書(=国家秩序の改良に関する詔書)をセルゲイ=ウィッテの進言により出して
- 人格の不可侵
- 思想・言論・集会・結社の自由
- 選挙法を改め、議会(ドゥーマ)を開設
すると明らかにしました。
- セルゲイ=ウィッテとは?
ロシアで起きた大凶作と外国との軋轢が生まれた頃、鉄道会社勤務から経済学者として名が知られるようになっていたウィッテは大蔵大臣に就任。
彼は国の危機を打開するために鉄道建設などを原動力に工業化の推進すると順調に発展させます。
当時の皇帝ニコライ2世には疎まれていたという話がありながらも、日露戦争終結のためにポーツマス会議での首席全権として赴き交渉にもあたるほどの実力者でした。
結果、ロシアでもヨーロッパの内閣にあたる統合合議制政府(閣僚会議)が創設されることとなり、その議長としてウィッテが任命されます。事実上、帝政ロシアの初代首相を担うこととなったのです。
こうして首相となったウィッテが
- 団体を結成することを合法化
- ストライキに参加した者に対する刑事罰を廃止
- 言論・集会・結社の自由
を認めたことで大半の市民や資本家が政府を支持するようになると、大規模な革命運動は収束していきました。
なお、十月詔書が出された数日前にはペテルブルクの労働者たちが『ソビエト(ロシア語で『評議会』『勤労者代表者会議』の意味)』を名乗るようになっています。この『ソビエト』は多くの地域にも波及。出来た当初は単にストライキ指導のための委員会としての発足でした。
※ソビエトを名乗る際の宣言を起草したのがトロツキーという人物。
モスクワ蜂起
十月詔書が出されたことで反政府運動から手を引く自由主義者達が続出した中、十月詔書を拒否した革命派は活動を続けています。
また、先程例に挙げたペテルブルグ・ソビエト(ソビエトを名乗るようになったペテルブルクの労働者たち)もストが巨大なものとなって社会生活にも影響を与えるようになると、一定の政治的・行政的な機能を持つ組織へと変化。活動を続けることとなっています。
活動を続けたままのペテルブルグ・ソビエトへの反撃を狙っていた政府は12月3日にいよいよ行動を開始。議長・トロツキーらソビエトの代議員を逮捕し壊滅させたのです。
これに反発したモスクワ・ソビエトが12月7日にゼネストに突入。工場や街路にバリケードを築き、労働条件の改善などを訴えますが、軍に攻撃され死傷者・逮捕者が多数出る事態になりました。
何故そこまで労働運動が目の敵にされていたの?
ロシアで行われていた労働運動は1890年代に隆盛を迎えており、その労働運動を基盤に様々な社会民主主義のグループが形成されていました。それが『ロシア社会民主労働党』や『社会革命党』といった団体です。
これらの団体は元を辿れば1860年代に生まれた革命勢力・ナロードニキの指導者の一人がマルクス主義に目覚めたことから始まりましたが、やがてナロードニキの中でも微妙に考え方の違う人が出始めます。
もともと「農村共同体を基盤として直接社会主義へ移行しよう」と考えていたナロードニキの理論を産業革命が始まっていくにつれて「現実的ではない」と考え、批判するようになったグループが出てきます。
彼らは「革命の主勢力は農民ではなく労働者たちだ」として労働解放団と呼ばれる団体を作って『ロシア社会民主労働党』の母体となりました。
一方でナロードニキの伝統を受け継いで農民層の利益を代表したのが『社会革命党』です。
こうした形で労働運動と革命勢力が密接に繋がっていたために政府としては無視することが出来なかったようです。
なお、この血の日曜日事件から年末のソビエトの蜂起失敗までの一連の出来事は【第一次ロシア革命】【ロシア第一革命】とも言われています。第一次ロシア革命に加え日露戦争敗戦まで重なった激動の1905年は、こうして幕を閉じたのでした。
憲法の作成
1906年2~3月。以前明らかにしていた通りロシアで最初の国会(ドゥーマ)の議員選挙が行われましたが、労働者たちを嫌ったツァーリは労働者不利な選挙法を制定しています。
土地所有者 1票 = 都市民 3票 = 農民 15票 = 労働者 45票
という...とんでもなく不平等な上に無記名で行えない、今の私達から見れば散々な選挙でした。当然、農民も労働者たちも受け入れられるわけがありません。
この頃の社会民主労働党は「職業的革命家だけが入れる党にしよう!」と考えるウラジーミル・レーニン派(多数派)【ボリシェビキ】と「革命を目指す人々は職業的革命家に限らず広く受け入れよう!」とするユーリー・マルトフ派(少数派)【メンシェビキ】に分裂していたのですが...
この選挙に関してはどのグループも似たようなことをしています。
- ボリシェビキ:選挙をボイコット
- メンシェビキ:最終的に拒否
- 社会革命党:ボイコット + テロ活動
こうした中で選挙に勝利したのは自由主義政党の『立憲民主党(通称カデット)』とナロードニキ関係の人々が中心となって設立した『トルドヴィキ』でした。
国会で多数を占めたのは反政府的・自由主義的な勢力となったのです。
ということで、ツァーリと側近たちは国会が開かれる前に制度改革を行い
- (19世紀以来ツァーリを助けてきた)国家評議会を上院とする
- 選挙で選ばれた議員からなるドゥーマを下院とする
と制定し、上院は下院とツァーリが対立した場合の調整役を担うようにしたのです。
この状況の中で憲法制定を行ったのですが、ドゥーマに不利な状況にさせるような政府が国民から選ばれたドゥーマの話を聞くわけがなく...
憲法制定会議を招集して決めようという国民の声も虚しく、ツァーリから国民に与える形で憲法が成立しました。
この憲法第四条では
ロシア皇帝に全権力が属し、其れに対して、畏怖の念だけでなく、衷心より服従することが神の命じるところである
一冊でわかるロシア史 河出書房新社より
とされていることからも分かるように、選挙で選ばれた議員が政治参加する立憲君主制は形だけのものであり、これまでと同様にツァーリの専制体制が続くことになります。
ロシア政治の混迷
これまでの書いてきたように、当時のツァーリであったニコライ2世は革命勢力に厳しく対応していた皇帝です。
一方で首相のウィッテは十月詔書の件でも分かるように、割と国民の立場に近い政治家でした。憲法制定と共に首相を辞任させられてしまいます。この次に首相となったのがゴレムイキンという人物。彼の元で内務大臣となったのがストルイピンでした。
ストルイピンの改革
このストルイピンは、農民と土地に関する改革を開始。改革反対する者達は次々と処刑されています。あまりにも処刑された人達が多かったため、絞首台が「ストルイピンのネクタイ」と呼ばれるほどでした。
やがてストルイピンは首相に就任。農民を自由にするという名目で農奴解放令以降も農民達を土地に縛り付けていた共同体(=ミール)を解体する改革を行おうとしていました。
- ミールとは?
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15〜16世紀ごろから確認されるようになった農村共同体のこと。長老などの役員がいて、森林の伐採や漁場・猟場の使用権が取り決められていた。
国税や領主への貢租もミールの周回で各戸に割り当てられていた。
農奴解放令以降のロシアの耕作地は「農民の私有地」ではなく「共同体の共有地」として分与されていたため、農奴解放令が出されても農民達は結局土地に残ることとなり過重な負担と土地不足に悩まされ続け各地で一揆が勃発していたのです。
これをストルイピンは農地を「農民の私有地」とすることで避けようとしました。
が、この政策により共同体を離脱したはいいものの生産高の良い人とそうじゃない人達が出てきてしまい、農民の階層分化が進みます。「地主 vs. 農民」の対立に加えて「富農 vs. 貧農」の対立まで進んだため結局失敗。さらには暗殺までされてしまいました。
怪僧ラスプーチン
政治面では頑なさを見せていたニコライ2世は子煩悩な父親で妻思いだったそうで、家族仲はかなり良かったとされています。
その2人の間にできた5人目の子供が待望の男児アレクセイ。この子が皇太子となるのですが、彼は遺伝病でもある血友病に侵されていました。
この病気を治した祈祷師ラスプーチンに皇后は心酔。やがて政治にまで口を出すようになっていきます。
ただでさえニコライ2世には指導力がなくなり、名ばかりのドゥーマと農地改革の失敗で不満が募っている中でロシア政治は混迷を深めていったのです。