絵で見る律令制への道【白村江の戦い】
絵で見る律令制への道、第3弾。
今回は日本史上初の対外戦争・白村江の戦いと大規模な内戦でもある壬申の乱に向かった流れに焦点を当てていきます。
乙巳の変の原因が蘇我氏と中大兄皇子・中臣鎌足の外交路線が違った説をとった上で解説していますので、教科書的には受け入れにくいものかもしれません。相変わらずのゆるく流れを知りたい方向けです。
※学者の先生によっては中大兄皇子が親唐派だった説もあるので事実は分かっていません。近年では乙巳の変の黒幕は軽皇子説が有力だったりします。あくまで中大兄皇子が親百済派説でいった方が色んな話の流れが繋がって覚えやすいという個人的な判断で親百済派説を推しています。
白村江の戦とは?
663年に起こった百済復興戦です。日本・百済軍が唐・新羅の連合軍と戦っています。
大前提として、最初に乙巳の変より前の時点で
唐の対抗勢力(東突厥)が唐に屈服した(=朝貢を受け入れるようになった)という当時の国際情勢があった事実があります。
その流れから日本に対しても冊封体制に入るよう言ってきた(と推測されている)そうです。それ以降の日本は遣唐使を中止しています。
大雑把な位置関係は上のような感じ。
そんな中、唐と安定的な関係を築いていた高句麗が唐対策を開始します。
第一に行ったことが
侵入を防ぐための千里の長城の建設です(631-646)。
その間、西にある吐谷渾(とよくこん)と高昌(こうしょう)が唐により滅ぼされます。
危機感を募らせた高句麗は
権力の集中、国家再編を目指す強硬派がクーデターを起こしました。
高句麗は更に念を入れ、百済と手を結びます。
唐との国境がない百済にとっては対新羅が最優先事項。百済にとって高句麗は強い味方に成り得たためです。
これに対抗し、新羅は唐と近づきました。
ちなみに日本は百済とは長い間、親密な関係を築き上げてきていました。
地図で言うと
こんな関係です。唐は新羅と組めば高句麗を挟み撃ちに出来ますし、高句麗は百済と組めば新羅からの背後からの攻撃をなるべく減らすことが可能になります。典型的な『遠交近攻』政策です。
さて、肝心の日本ですが、遣唐使のトラブルを抱え、百済とも親密だった国内は外交政策についての意見が二分します。
蘇我氏と中大兄皇子・中臣鎌足の対立に繋がった乙巳の変では保守派の中大兄皇子らが勝利しました。
おそらく中大兄皇子・中臣鎌足共に場合によっては唐との戦いもあり得ると考えていたことでしょう。それでも最新の情報や技術を得るための百済経由の航路は安全面から譲れない。そう考えたからこその乙巳の変だと思われます。
そして、いよいよ660年。唐の支援を受けた新羅が百済を滅ぼしてしまいます。
百済の滅亡後には日本へ亡命した百済のお偉いさんたちが
なんて話すわけです。
外交政策の違いで乙巳の変が起こったとするのなら
という考えが出てもおかしくなく、亡命した百済の人達と手を取っただろうと推測できます。
こうして白村江の戦いの火ぶたが落とされたのです。
白村江の戦い後
結局、白村江の戦いでは日本は合計で5万人近い兵を投入したようですが圧倒的な兵力を誇る唐と新羅の連合軍に惨敗。
船の数だけ見れば日本と百済の連合軍に分があるように見えますが、戦場は日本近海ではなく現・韓国の南西部に位置する錦江付近。180000人対47000人の劣勢を覆すほどのものではありません。
結局、日本は朝鮮半島にあった権益等を失い、政治体制・国防・外交まで根本的に見直す必要が出てきました。唐との関係も模索し始め、遣唐使も再開。
中大兄皇子は…というと、白村江の戦いの時点で前天皇は既に崩御(百済救済の戦を目前に崩御したため暗殺説あり)していますが、皇太子のままで執政しています。
皇太子として執政を行っていた理由は
- 天皇になると祭祀に追われ政務がこなせないので敢えて皇太子だった説
- 白村江の戦いでの敗戦責任説
- 女性関係のタブーから即位が遅れた説
など様々で、古代史の中でも未だ分かっていない大きな謎の一つです。
天智天皇の即位
天智天皇が 前天皇の斉明天皇が崩御した7年後の668 年ようやく天皇として即位します。
天皇の後継を決める際に
こんな事情があったのではないかと推測しております。
当時は強引な政治改革や国防のための九州の水城や遷都など大規模な工事で民衆も疲弊。豪族達にも負担がのしかかり反天智派が生まれていてもおかしくない状況です。更に言えば、元々保守派だった中大兄皇子が敗戦後は遣唐使を複数回送っていることから元々中大兄皇子を支持していた層からの反発も予測できるためです。
そういった反発があったことで、天智天皇は息子を後継にしたくても出来ない状況にあったのではないでしょうか??
天智天皇が天皇として即位後から3年も経つと、我が子である大友皇子を史上初の太政大臣に据えるようになります。それを見た大海人皇子が皇太弟の地位を降りて出家、大友皇子を皇太子として推挙しました。
その同年、天智天皇崩御すると24歳の大友皇子が跡を継ぐことに(が、実際に即位があったかどうかまでは定かではありません)。ですが、その約半年後。大海人皇子は出家先から抜け出し豪族達に対して根回し開始していきます。
無視できない程の反対派の存在を考えると、根回しもしやすかっただろうと考えられるのです。
こうして、天智天皇の崩御後に息子の大友皇子と大海人皇子の間で天皇の後継者を巡る争い・壬申の乱へと発展していったのです。