終戦直後にソ連による日本の南北分断計画を防止した【占守島の戦い】
2022年2月24日、プーチン大統領の命によりロシアがウクライナに侵攻しました。
第二次世界大戦においても、ロシアの前身の国【ソビエト連邦】が終戦直後に日本に向けて侵攻しようとしていました。そこにはソ連のスターリンによるとんでもない計画がありました。
第二次世界大戦後、日本は東北地方か津軽海峡を境に南北で分割統治され、北はソ連に南はアメリカの管理下で北日本【日本社会主義共和国】・南日本【日本共和国】としようかというものです。日本も現在の朝鮮半島のような国家体制となっていたかもしれません。
現在、日本は一つの国家である事が当たり前になっているので、そんな絵空事と思うかもしれませんが、一つの出来事が起きるか起きないかの紙一重の所で起こりえた話だと考えさせられます。
新海誠監督の映画【雲のむこう、約束の場所】では日本が北海道と本州で違う国だという設定で物語が進んでいました。津軽海峡が国境として国境沿いの青森に住む主人公たちは、異国である北海道の白い巨塔を目指すと言うストーリーだったと思います。
本州と北海道が違う国というのは現在の私たちにとっては空想上の物語ですが、実は第二次世界大戦直後はこの空想が現実になろうとしていました。
日本建国史上の国家分断の危機であることにも関わらず、私たちの多くはそれを知らずにいます。学校で習うこともありません。
今回は日本分断の危機をすくった戦後のある小さな島の部隊のお話です。
日本分断を防止した最後の戦い占守島の戦い
戦いの舞台は終戦直後の1945年8月の北海道の千島列島の占守島(しゅむしゅとう)。第二次世界大戦前の北方領土と千島列島は、日本の領土でした。
1855年、日本とロシアで結ばれた日露通商条約に基づいた国境線では、国後・歯舞・択捉・色丹までが日本の領土であり樺太はロシアと日本で共同統治されていました。
1875年には樺太を放棄する代わりに千島列島を譲り受けた樺太千島交換条約をロシアと結ぶことになります。
その後、1905年に日露戦争に勝利した日本はポーツマス条約で樺太の南半分を領土して獲得。
これらの千島列島・南樺太・北方領土は1945年の終戦終結後も有効となるもので日本の領土として認識されていました。
ところが、第二次世界大戦終結後、ソ連が日本のポツダム宣言受諾後も侵攻を続け、1945年8月28日~9月5日までの間に北方四島を不法占拠し現在に至ります。
1951年のサンフランシスコ平和条約によって1905年のポーツマス条約で獲得した南樺太と千島列島のすべての放棄し、これらの土地は日本の領土ではなくなりました。
しかし、この条約では北方四島は含まれてはおらず、歴史的に見ても北方四島はロシア領である根拠は一切なく火事場泥棒的に奪い現在に至っているのです。
上記の事を踏まえ、第二次世界大戦中の千島列島は日本領土ということですが、この千島列島の最先端に位置するのがこの話の舞台である占守島です。
面積は琵琶湖の半分ほどの小さな占守島ですが、日本の守りの最北端としてロシアとの最前線で第二次世界大戦当時占守島には【大日本帝国陸軍第91師団】が駐屯していました。
中でも後に起こる占守島の戦いで壮絶な戦いを行ったのが、戦車隊の神様【池田末男大佐】率いる戦車第11連隊です。
この戦車第11連隊は、漢字の十一を合わせた士になぞらえ【士魂部隊】と呼ばれていました。この士魂部隊の隊長が池田末男大佐で、故郷に妻と子供を残して占守島に赴任してきました。
ソ連が占守島へ侵攻
ポツダム宣言受諾の6日前の1945年8月9日、突如ソ連が日本に宣戦布告します。
ソ連は日本政府から終戦交渉の仲介を依頼されて日本に降伏の意思があるのを知っていながらの土壇場で戦争を仕掛けてきたのです。しかも、まだ有効だった日ソ中立条約(1941年に締結)を一方的に破棄して条約違反の行動でした。
何故もう先が見え、あと一週間もしないうちに終戦することが分かり切った戦争にソ連は参戦したのでしょうか??
それはソ連が【日本と戦争して勝った】と言う既成事実を作り上げ、戦後処理で日本の財産・領土を略奪するためでした。ソ連の最終的な目標は【北海道の占領】だったのです。
1945年8月15日、日本は終戦を迎えます。
日本のポツダム宣言受諾で大部分の戦線で停戦状態となります。北海道の第5方面部からは一切の戦闘行為の禁止、ただし相手が戦闘をやめない場合はやむなしと通達がありました。
8月17日には全国の各部隊に通達され、占守島でも武装解除に向けて準備が進められていました。
この時の日本兵たちは、故郷へ帰れる喜びで胸がいっぱいだったことでしょう。
一方でソ連では千島列島への侵攻作戦が発令されていました。
終戦から3日後の8月18日未明、ソ連軍は占守島の最北端にある竹田浜に上陸開始。
占守島の日本兵にしてみれば終わったはずの戦争が終わっていなかった瞬間でした。当初、日本兵のほとんどが米軍が上陸してきたものと思ったそうですが、次第にソ連軍だという事が明らかになります。
ソ連軍が占守島に上陸してきたことを知り、第5方面軍司令官の樋口季一郎中将は終戦したのに戦闘命令を出すかの判断を迫られました。
すでに終戦の玉音放送が流れて3日、世界各地では武装解除が進み国で家族と再会した感動の一方で、占守島の竹田浜ではソ連軍が上陸開始し座して死を待つのか最後の抵抗を続けるかの決断を迫られます。
第5方面軍司令官・樋口中将は「断乎反撃に転じソ連軍を撃滅すべし」と駐屯する第91師団に告げ、第11戦車連隊に出撃命令を出したのです。
戦車は武装解除の準備を進めており、弾薬や無線機をおろしている戦車もありましたが、急遽準備をすすめ準備が出来た者から出撃していきました。
8月18日午前5時、池田大佐率いる戦車隊はソ連軍を迎え撃つために島中央部の天神山へ集結し隊員全員に問います。
諸氏は今、赤穂浪士となり恥を忍んでも将来に仇を報ぜんとするか、あるいは白虎隊となり玉砕を持って民族の防波堤になり、後世の歴史に問わんとするか?
白虎隊足らんとする者は一歩前へ出よ。赤穂浪士たらんとする者は手を上げよ。
言い終わると全員が手を上げます。
占守島の戦い
ソ連軍は火事場泥棒的な一方的な作戦であった事で準備が不足し、兵の統率も取れず現場は大混乱でした。また、上陸する部隊や食料を船底に押し詰められて荷物の詰めすぎで沖合で座礁。兵士たちが海へ投げ出され溺死する事態となっていました。
混乱するソ連軍を尻目に、日本軍の銃砲がソ連軍に浴びせます。この砲撃でソ連軍の艦船13が沈没し、戦死傷者3000名で竹田浜はソ連兵の死体で埋まりました。しかし、その後ろには200隻のソ連兵舟艇が待ち受けていました。
ソ連兵はこの小さな島攻略に約2万人の兵力を投入していたのです。
出鼻をくじいた日本軍ですが、圧倒的兵力差にはかなわず次第にソ連軍の侵攻に押されていきます。
そこに、池田大佐率いる第11戦車連隊が到着。池田大佐は最後の通信を送り突撃を敢行します。戦車連隊は、四嶺山の麓にあり士気旺盛なり、午前5時50分、ソ連軍に突撃しそれを撃破。竹田浜付近まで押し返しました。
しかし、後続のソ連軍の対戦車機が到着すると日本軍の戦車隊は次々と撃破されていきます。
そして池田大佐の戦車にも炎が上がりましたが、動かなくなった戦車を縫うようにしてなおもゆっくりと前進していたそうです。炎の上がる車内でどのように戦車を動かしていたかは疑問ですが、数日後隊長含む4人の焼死体が重なり合うように見つかりました。
また、別戦車の内部にはつい先日まで故郷の話しで盛り上がっていた少年兵同士が抱き合って自決している姿も…
撃破された日本軍戦車は27両、戦死者は池田大佐含む96名に及びました。しかし、日本軍の士気は一向に下がることはなく、動かなくなった戦車の中から乗員が飛び出し敵陣に突撃し、独立歩兵第283大隊の歩兵と共に乱戦を展開していきます。
そこに、準備の遅れていた戦車第11連隊の後続車両40量が到着。池田大佐などの指揮官クラスが全員先に突撃をしていてほとんど戦死しましたが、士魂部隊の名に恥じぬ闘志で次々とソ連軍を撃破します。
さらに占守島飛行場に残っていた7基の日本軍航空部隊も出動し、ソ連軍の艦船に空襲を行います。そのうちの一機がソ連軍の対空砲に被弾し炎上しますが、そのままソ連軍艦船に体当たりしこれを撃沈させます。
これを目の当たりにした日本軍地上部隊の士気がさらに高まります。
わずか7基と言う小部隊ながら、この航空部隊は撃沈5、撃破2という大戦果をあげました。
こうした日本兵の奮闘で、ソ連軍もとうとう竹田浜沿岸まで押し返されます。
8月18日午後には日本軍が竹田浜拠点を確保し、ソ連軍を殲滅できる有利な状況まで来ました。
しかし、8月18日ころ、北海道第5方面司令部から戦闘停止命令が届いたため第91師団は、18日16時に積極戦闘停止することとなりましたが、実際には戦闘は止まることがなかったと言います。
勝ち戦なのに負け戦
日本側はマッカーサーにソ連のスターリンに停戦への働きかけを依頼しましたが、スターリンはこれを黙殺しました。
19日と20日と時が過ぎ、停戦に向けた交渉が日本ソ連間で行われます。
日本側が勝っている状況にもかかわらずソ連側の態度は恫喝に近く、提出した条件は【停戦即時武装解除】で降伏勧告そのものでした。
このあり得ない条件に、第91師団長は「徹底抗戦する」と声明を出しましたが、1945年8月21日に北海道第5方面司令部から【停戦すべし武器引き渡しも了解す】と事実上の降伏命令が届きました。
武装解除は8月23日に行われ、勝者が敗者に武装解除をさせられると言う前代未聞の理不尽な扱いに誰も言葉が出ませんでした。
戦後に彼らに待っていたもの
武装解除後、占守島の日本兵たちは数か月収容した後帰国させると言われ、ソ連の船に乗せられました。しかし、着いたところはシベリアで、彼らは2年~4年のあいだ過酷を極める強制労度を強いられることになります。
抑留を生き抜き帰国した、彼らにまっていたのがあまりにも冷たい戦後の日本でした。
戦後の日本は敗戦だけが語られ勝ち戦はタブーとされる社会でした。
「日本は悪だった」「軍隊を持つことは悪いこと」などの自虐歴史観がよしとされ、あの戦争に正義があったと言うものなら右翼だ軍国主義だとレッテルを張られました。まして終戦後の勝ち戦であった占守島の戦いは私たちにはほとんど知らされていませんでした。
たまに占守島の戦いが紹介されることがあっても、帰ってくる反応は【無駄な戦いだ】【犬死だ】という批判ばかりでした。
戦後50年、現地で行われた慰霊祭での追悼の辞は総理大臣ではなく、厚生省の課長補佐で、北海道知事からも花一凛すら献花されませんでした。
これで、遺族からクレームがこようものなら【じゃぁ、慰霊祭をやらなくても良いのか?】と言い出す人も出てくるほどでした。
これが、池田大佐含む兵士たちが命をかけてつなだ日本の未来だったのでしょうか??
占守島の戦いで池田大佐らが守ったものとは??
占守島の戦いは終戦後の無駄な戦いでは決してありません。むしろとても意義がある戦いです。
そもそもなぜソ連は、火事場泥棒的に対日参戦したのでしょうか??
1945年2月米・英・ソによる【ヤルタ協定】で、対日参戦の見返りとして【南樺太と千島列島】をソ連領とする密約が交わされていました。しかし、ルーズベルトが急死しアメリカの大統領がトルーマンになった事で、密約が破綻寸前になります。
さらにスターリンは、北海度の留萌と釧路を結ぶ直線より北側をソ連領化する事もトルーマンに拒否されていました。
そこでソ連のスターリンは、南樺太と千島列島占領を既成事実化するために終戦直前の対日参戦を強行したのです。スターリンの計画がトルーマンに拒否され、終戦直後に千島列島を一気に攻めその勢いで、力ずくで北海道まで攻めこむつもりでした。
さらにソ連は、北海道を足掛かりに東北地方まで領域を広げ、日本を南北に分割統治するつもりであったとも言われています。
しかし、スターリンのそんな思惑は最初の一歩で大きくつまずくことになります。
千島列島の最初の島・占守島の戦いで日本軍戦死者250名に対して、ソ連軍の死者行方不明者1500名以上を出します。
この戦いでソ連軍は甚大な被害を出し、占守島に1週間くぎ付けにされました。
その後、千島列島は占領され不法占拠されたまま今日に至りますが、北海道はソ連軍が到着する前にアメリカ軍が進駐。さすがのソ連もアメリカがいる北海道には手は出せず、北海道または日本の分割統治計画だけは阻止されたのでした。
もしも占守島の戦いが無ければ、先にソ連軍が到達し今の日本地図は全く違うものとなっていたかもしれません。
士魂を受け継いだ者
北海道の恵庭市に、自衛隊のある部隊があります。陸上自衛隊第11戦車隊です。
占守島で壮絶な戦いを行った池田大佐率いる【大日本帝国陸軍第11戦車連隊】と同じ舞台番号を引き継ぐ戦車隊で、戦車の部隊マークには【士魂】の文字がついています。
占守島での戦いをたたえ伝統を継承するために、第11戦戦車隊は自らを士魂戦車大隊と称し、その名を受け継ぎました。
多くの日本人が知らない、占守島の戦い。
しかし、占守島の日本兵たちが命をかけて守った北海道では今もなお士魂の名を受け継ぐものが日本の平和を守っていると思うと胸が熱くなります。
占守島の戦いを書いて思う事…
この記事を通して私も初めて、占守島の戦いというものを知りました。
こういった命をかけて日本を守ってくれた戦いこそ、後世にしっかりと伝え継ぐべきだと私は思います。現在の当たり前と思っていたその裏でこんなにも壮絶な戦いがあった事は忘れてはいけません。
以前、麻生太郎氏の発言した「国家の為に尊い命を投げ出した人たちに対して国家として最高の敬意を払って祀るのが当然」の言葉がまさにその通りだと思ったのは、私だけでしょうか??
たとえ他人や他国に右翼だの軍国主義だの言われようとも、占守島にて奮戦した先人方々に深謝しかありません。どこかの国のように分断していたかもしれないと思うと我々が今現在普通に過ごせていることに幸せを感じます。