雑賀衆を率いて織田信長を苦しめた棟梁・雑賀孫一
1543年に種子島に鉄砲が伝来し、わずかな期間で日本の鍛冶屋たちが量産に成功し実用化され、これまでの日本の戦の在り方がひっくり返りました。その鉄砲が大活躍した合戦と言えば、織田信長が武田勝頼を破った【長篠の戦い】があります。
織田信長は、いち早く鉄砲の将来を見抜き積極的に導入をして、名家・武田までを滅ぼすまでに勢力を伸ばしましたが、その鉄砲に信長自身が苦しめられたとはあまり歴史では学びません。
1570年に織田信長は、石山合戦を機に紀州方面へ侵攻を始めましたが、これまでの快進撃から相を反し、戦いを終結させるのにかけた時間が10年と長丁場でした。この信長の快進撃に急ブレーキをかけたのが、敵である本願寺側で戦った【雑賀衆】の存在と、その彼らが得意としていた鉄砲の技術がありました。
当時、雑賀衆は【鉄砲技術のエリート集団】で、かつ高価で手に入れる事が難しかった鉄砲の国産化に成功し自分たちで製造までしていました。
今回は、その雑賀衆の棟梁でありながら自らも戦場へ赴き、魔王・信長を苦しめた雑賀(鈴木)孫一について書いてみたいと思います。
造船から鉄砲製造まで行う傭兵集団
戦国時代は、自国の家臣や配下の兵以外に、傭兵を雇って戦を行っていました。
現代で言う所の派遣労働者でしょう。
傭兵は、戦がない時は農民だったり僧侶だったりと別の仕事で生計を立てており、紀伊国北西部の雑賀衆も、高い鉄砲技術を持った傭兵集団でありながら、平時には造船や海運・貿易を家業として生計を立てていました。
この頃の海運業も遠く離れた土地と取引する事で利益が上がるのは現代とさほど変わりません。雑賀衆は、南蛮貿易の拠点となっていた種子島まで足を延ばしており、まだ日本に出回っていなかった火縄銃をいち早く手に入れる事が出来ました。
当然、とても高価なものだった火縄銃なので大量に買う事が出来ませんでしたが、優れた刀鍛冶技術を擁した雑賀衆は、火縄銃を持ち帰り研究し、精巧なコピーを作り量産に成功しました。この最新の武器を足掛かりに日本一の傭兵軍団として雑賀衆は力をつけていきました。
雑賀衆の鉄砲と棟梁・雑賀孫一
この頃の鉄砲が命中精度・速射性が低く、技術が高かった雑賀衆でも数人で組を作り【弾込役】と【射撃役】に分けその弱点を補っていました。これにより早打ちを可能にしたと考えられています。
また、鉄砲の訓練を続けているうちに雑賀衆の中に射撃名手も誕生します。
それが、今回の主人公・雑賀孫一です。※孫市とも書かれるようです。
孫一は、紀伊雑賀衆の当主・鈴木左太夫の子で【鈴木重秀】とも言われています。
雑賀衆の当主と言っても、構成員全てが当主の命で動くわけではありませんでした。雑賀衆は、大義名分を持たない傭兵集団で、私利私欲や思想や宗派の違いなどで仲間内であっても争いがあるのは日常茶飯事でした。
そんな紀伊雑賀衆の多くは、熱心な浄土真宗・本願寺派の門徒が多くいました。
どんな身分であっても、生前悪事を働いても、念仏を唱え信心さえすれば救われると言う浄土真宗の教えは、傭兵と言う仕事を生業としている彼らにとってありがたいものだったのです。
雑賀衆が10年間本願寺を守った石山合戦
この本願寺と雑賀衆の結びつきを快く思っていなかった人物が織田信長でした。
世が荒れて、土地や村が焼かれれば、民衆が救いを求めて寺院に集まるのは、この時代だけではありません。その民衆が、時の権力者を凌駕する乱や事変を起こすのも珍しい事ではないのも歴史が証明しています。
この時、日本の人口の半分は浄土真宗の門徒と、その総本山・石山本願寺を攻略するのは天下を統一する織田信長にとって避けては通れない道でした。
1570年に織田信長が進軍すると、当時の雑賀衆棟梁・佐大夫と孫一も紀伊から早船で本願寺に向かいました。普段は金や条件で動く傭兵軍団も、この時ばかりは続々と石山本願寺を目指したとそうです。
結果から言えば、1580年に朝廷の仲介の下和睦が成立し決着がつかなかったのが史実ですが、本願寺・雑賀衆・織田家の立場によって史料の記述は様々ですが、開戦時は、雑賀衆の鉄砲の戦闘力の前に織田軍は撤退を余儀なくされたが、最終的には織田軍が数で押し切ったと言うのが研究者たちの概ねの見解のようです。
逸話レベルですが、孫一の放った鉄砲が敵将の足に命中した、馬上の信長を射撃して負傷させたとの話もあり、雑賀衆は織田軍を10年も苦しめ大いに活躍したとされています。その奮闘が宿老・佐久間信盛を織田家から追放させたのです。
織田軍の猛攻に奮闘した雑賀衆ですが、弾薬や兵糧が乏しくなると戦況が変わります。
石山攻めと同時に隣国を次々と制圧していた信長に対して、旗色が悪くなった本願寺は、勅使を派遣し、信長が講話に応じる形で、10年続いた戦いに幕が下りたのです。
謎だらけの雑賀孫一
本願寺と信長が講和した事により石山合戦が終結しましたが、傭兵たちは戦に出てなんぼの商売なので、戦がなくなれば収入の見通しが立ちません。両者の講和に肩透かしを食らった孫一は、本願寺をあっさりと見限り織田信長に接近します。
この孫一の行動に快く思わない者達もおり、これにより雑賀衆は分裂する事に…
本能寺の変で信長が死去すると孫一は秀吉に仕え、秀吉が雑賀衆の残党壊滅に乗り出した際は自らが鉄砲隊を率いて雑賀衆と戦いました。しかし、孫一について記録らしい記録が残っているのはここまでで、孫一がその後どうなったかは、実はよく分かっていなません。
さらに、【雑賀孫一】の名前自体も鈴木重秀=孫一とある史料が残っているようです。また、1600年の伏見城の戦いにも【孫一】が参加したとされていますが、これは名前だけを受け継いだ子の鈴木重朝であったと言われています。
この孫一と言う名は、左太夫も含め鈴木氏の武将たちが代々受け継いでいた名前ではないのではないかと考えられています。