細川藤孝の兄・三淵藤英の忠義を貫いた人生
大河ドラマ麒麟がくるを見ていると、序盤で需要な人物ではないのかと言うくらい出てくる三淵藤英と呼ばれる人物が出てきます。松永久秀や三好長慶などは戦国時代好きの人ならだれでも知っている人物ですが、私は三淵藤英があまり知らなかったので調べてみました。
麒麟がくるを見ている限りでは、将軍の側近みたいな位置づけの人物なのは分るのですが、いったいどんな人物でどんな役割を持った人なのでしょうか?
三淵藤英の概要
世間的には、知名度が低い人物でありながら、文武両道の文化人・細川藤孝の兄と言う経歴を持つ三淵勝英は、藤孝と共に三淵晴員の長男として生まれました。
足利将軍の奉公衆として、12代将軍・足利義晴、13代将軍・義輝、15代将軍・義昭の幕臣として仕えました。最後まで室町幕府の幕臣としての忠義を貫きますが、義昭追放により幕府が崩壊すると織田家に仕えますが、突如信長の逆鱗に触れてしまい、領地没収の上、自害するのでした。
マイナー武将だけに情報量が少ないですが、わかる範囲で書いていくので少しでもお役に立てればと思います。
三淵藤英の年表
- 1540年頃 12代将軍足利義晴に仕える
- 1546年 13代将軍足利義輝に仕える
- 1558年 義輝が京へ帰還して幕府復権へ
- 1565年 義輝が三好三人衆により暗殺される
- 1568年 足利義昭15代将軍に就任する
- 1573年 槇島城の戦いで二条城に籠城する
- 1574年 死去
一説では、弟・細川藤孝より年下とも言われており、生まれがハッキリしていません。通説通り、兄だとすると藤孝が1534年生まれなので、それ以前の生まれと言う事が推測されます。
三淵藤英の幕臣一筋の人生
父・三淵晴員の姉が将軍・足利義晴の養育係だった事から、三淵氏と義晴との関りが深く将軍擁立後には、その功績として幕臣(奉公衆)としても高い地位にいました。
室町幕府の将軍の奉公衆の家系として地位を築いていた三淵氏の嫡男に生まれた藤英は、言わば幕府のエリート官僚の道が約束された人生を歩むことになります。
室町幕府の奉公衆(ほうこうしゅう)とは、幕府官僚の一つで、将軍直属の軍事力で鎌倉幕府の御所内番衆の制度を継承するものでした。奉行衆は、幕府の文官官僚であるに対し、奉公衆は武官官僚と言う存在でした。
後に天下統一を果たした豊臣秀吉も、この奉公衆制度を設けています。
本来、室町幕府の出世街道まっしぐらで将来が約束されてハッピー人生と言いたいところですが時は戦国時代、すでに幕府の権威は失墜し武家の棟梁・将軍様でさえ京都から追い出される有様でした。
そんな将軍家不遇の時代に生まれた三淵藤英は、目立った功績はこのしておりませんが、弟・藤孝と共に室町幕府再興に尽力した人物と言えます。
三淵藤英の幕臣人生
藤英は、戦で功績をあげると言うよりも裏方に徹し、功績を残した人でした。
史料が少なく、将軍家に仕えるまでの足取りは分かりませんが、エリート路線に外れることなく12代将軍・足利義晴の頃に幕臣生活をスタートとさせます。しかし、この頃の将軍家では、時の権力者達に翻弄されながら不遇の生活を強いられていました。
そのため、幕府の将軍でありながら本拠地である京都を追い出されては戻ってきての繰り返しと言う屈辱を味わっていました。それでも、足利義晴は何とか我が子である義輝を13代将軍に就任させることが出来ました。
足利義輝、幕臣時代
13代将軍になった義輝は、なんとか将軍の権威を取り戻そうと先代と変わらぬ状態にやきもきしていた義輝ですが、そんな幕府再興の願いを陰で支えていたのが三淵藤英と藤孝だったのです。
そんな将軍・義輝と藤英達の働きのよって5年ぶりの京都への帰還がかなうと、将軍の権力強化のために積極的に各大名のもめ事を諫めるなどの活動を始めます。しかし、それを良しとしない者も多く、思うような成果は上げられませんでした。
特に、自らが権力を握るために、傀儡将軍を理想としていた三好長慶や三好三人衆にとっては、将軍・義輝は邪魔の何物でもありませんでした。こうして、1565年に三好三人衆が首謀した将軍暗殺事件である永禄の変が起こってしまうのです。
この時、藤英は藤孝や他の幕臣たち共に義輝の弟・義昭を救出し三好一派の手から落ち延びることになります。
足利義昭の擁立へ
永禄の変の後、三淵藤英は義輝の弟・義昭をすぐに対抗馬として擁立させようとしますが、すでに14代将軍には三好三人衆が擁立した足利義栄がなっていました。こうなってしまっては、自分たちの力だけでは義昭を将軍にすることはできません。
そこで、各地の有力大名の力を借り上洛を要請する事にするのですが、これに尽力したのが藤英・藤孝兄弟でした。六角→武田→朝倉と放浪したのち、明智光秀の仲介で織田信長の協力を得ることに成功しました。
義昭が織田信長に擁立されて15代将軍になると、藤英は信長の命で山城国の三好残党との戦いに参加し、その功績と政治手腕を買われ義昭の重臣となり大和守になります。
しかし、この生活も長くはなく信長と義昭が対立すると、藤英と藤孝は別の人生を歩むことを選択します。
当時の勢力を見れば、いくら将軍とはいえ信長の勢力の方が上と言うのはハッキリしていました。しかし、藤英は義昭側に、藤孝は信長側に付くという選択がなされました。藤孝の裏切りに激怒した藤英は居城を襲撃する計画を立てますが、未遂に終わりあたりに不穏な空気が流れます。
1573年に義昭が挙兵を決意すると藤英も同行。
義昭が槇島城に籠城すると藤英は二条城にて籠城を開始。しかし、信長の大軍が包囲すると藤英以外の幕臣はすべて投降し自身とその手勢しか残りませんでした。それでも忠義を尽くし一人奮闘しますが、柴田勝家の説得に応じ城を明け渡すことになりました。
降伏後は、居城である伏見城へもどり、目の前にある槇島城が織田軍の総攻撃により陥落するところを見届ける事になりました。この戦いで、足利義昭は信長のよって追放され、室町幕府は事実上滅亡する事になりました。
藤英は織田家の家臣として藤孝と同僚になるのですが翌年、信長より所領没収の上、明智光秀に処分が任されることになりました。この理由は、残念ながら史料にはなく信長の突発的な物なのか何かやらかしたのかは分かりません。
どちらかと言うと、戦で活躍した武将と言うよりは実務処理に長けた人物だったと思われます。有名人でいうと、石田三成のような人物だったかもしれません。(彼よりは人徳はあったと思いますが…)
彼もまた、生まれた時代を間違った一人かもしれません。もし、官僚侍時代の江戸時代中期位に生まれていたのなら、歴史に残る有能な人になったかもしれません。