ギリシアでの民主政の歩み
古代ギリシアの代表的なポリスのアテナイとスパルタのうち、典型的な民主政が始まったのはアテナイからでした。
言葉の定義なのでwikipediaから引用させてもらいますが、民主政とは…
民主政(みんしゅせい、democracy)とは、ルソーの『社会契約論』によれば、その執政体(政府)の構成員が市民全体の半数以上であるような統治のことである。
民主政‐Wikipedia より
ということなので、市民皆兵でギッチギチに固められたスパルタの政治体制から民主政が生まれるとも思えませんね。
そんなアテナイをはじめとするギリシアのポリスで生まれた民主政への歩みを見ていきましょう。
民主政が生まれる前のギリシアの状況を見てみよう
民主政の生まれる前のギリシアのポリスは地中海や黒海沿岸に広がり、交易活動が活発に行われるようになっていました。
そうなると、農作物を作っている平民の中からも余った作物を売って経済的に豊かになる者たちが出はじめます。
ポリスのはじまりを思い出してほしいのですが、元々要塞が始まりです。ギリシアの成年男子は平民でもあり兵士でもあり、武具は自費で用意していました。周囲の文化も発展し金属の輸入が増えるにつれて値段も安くなったことで、平民であっても手が届くようになったのです。
多くの平民が機能の優れた武具・防具を買えるようになり、それまで主力だった貴族による騎馬隊よりも平民の重装歩兵部隊が主力となっていきます。
経済力と武力を持っている者の発言力が増す
のは古今東西よくあることでして、古代ギリシアもその例に漏れませんでした。ポリスのように国防が政治の重要課題だった国家では尚更です。
以上のような経緯から、参政権を主張して平民は貴族と対立。民主政への一歩を踏み出したのです。
アテナイでの民主政
アテナイでは海上交易を活かして富裕層が多く誕生し、市民の発言権が増していた状況だったということで、典型的な形で民主政が出現します。
- 紀元前7世紀 : ドラコンという人が法律を成文化し、秩序の維持を法によって制定
- 紀元前6世紀初頭 : ソロンが貴族と平民の調停者として改革を行う
このソロンはアテナイを古代ギリシアの代表的なポリスとして発展させたと言っても過言ない程の経済通でした。奴隷の仕事で見下されがちだった手工芸の価値を上げ、アテナイをライバル都市とは別の商業権で勝負させ人々が集まりやすい都市にさせます。
ギリシア七賢人の一人ソロンの改革を見てみよう
ソロンは経済面での改革だけでなく
血統ではなく、財産額の大小によって市民の参政権を定め(財産政治)、また負債を帳消しにし、以後、借財を追った市民を奴隷として売ることを禁止した(債務奴隷の禁止)
詳説世界史B(山川出版社)より
以上のような改革も行っています。この改革からアテナイの市民たちは財産という制限はあるものの参政権を得ることに成功したのです。もちろん負債を帳消しにしたってことで貴族からの反対は根強かったそう。
※ちなみにアテナイでは債務奴隷が禁止されたのであって、奴隷自体が禁止されていたわけではありません。非ギリシア系の奴隷は(特にペルシア戦争以降)かなりの人数が輸入されています
参政権を持つようになったアテナイの平民ですが、元々の貴族による少数支配に対して強い反発心を持っていたのは変わりませんでした。貴族に対する不満を持ち続けたのです。ソロンは最終的に平民の支持を基盤とした独裁政治を行いはじめたペイシストラトスによって亡命に追いやられてしまいます。
これらの改革を実際に行い、僭主政治のいく末を見ているなど先見の明を持っていたためソロンはギリシアの優れた為政者として七賢人の一人に名を連ねています。
アテナイでの僭主政治のはじまり
平民たちが持ち続けた不満をまとめ上げたのがペイシストラトスという人物です。ペイシストラトスは大衆の支持により非合法に政権を奪い、貴族による合議政を抑えるために独裁的権力をふるうようになります。
いわゆる僭主による僭主政治のはじまりです。
古代の政治思想家からメタクソに言われている僭主政治ですが、平民の支持を必要としたため必ずしも過酷な支配体制になった訳じゃなかったようです。もちろん暴君になった例もあります。
そういった先のことを見越してソロンは多くの市民に
「やめた方が良い」
と僭主として政権を握ろうとしているペイシストラトスに対抗するよう訴えましたが平民たちは受け入れませんでした。
ソロンの危惧をよそに、後世アリストテレスに
「ペイシストラトスの時代こそアテナイの全盛時代であった」
と称されるほど繁栄します。ペイシストラトスは平民たちを本気で救いたいと思っていたのでしょうね。この時期に保護された中小農民は保護され、平民層の力は充実しました。
ところが、僭主となったペイシストラトスの息子の代に僭主政治の悪い部分が出てしまい、息子が暴君と化すことに。
…と言われていますけど、実を言うと詳しい経緯は分かっていません。
- 貴族側からの反撃を潰すために抑圧的な政治となった
- アテナイ内部の反対勢力だけでなく、古代ギリシア内のライバル・スパルタがアテナイを混乱させるのに一枚噛んでいた
なんて話もあります。
詳細は分かってませんが、とにかく抑圧的な体制を嫌った者達によりペイシストラトスの息子は追放され僭主政治は幕を閉じることとなったのです。
僭主政治の問題点を痛感したアテナイ市民は僭主が出てくることを警戒。紀元前508年にアテナイの指導者となったクレイステネスが改革を行います。
クレイステネスによる改革とは??
クレイステネスはアテナイの政治の根幹となる10部族制を創設しました。元々、旧来の血縁に基づく4部族制を変更したのです。
血縁に基づく
ということでピンときた方もいることでしょう。4部族制は貴族の権力基盤となっている制度でした。この4部族制を変えることで民主政にグッと近づくこととなります。
10部族制は
地縁共同体である区(デーモス)を基礎とする
という制度で、
地域ごとに平等な諮問機関を創設する
のを前提に作られた制度です。行政・軍事上の区分単位として用いられています。
地域ごとの平等な諮問機関とは、10ある地区ごとに50名ずつ選出された代表者計500名で話し合う 500人評議会 のことで、最高議決機関「民会(エクレシア)」で議論する議案を審議する役割を持っています。
なお、20歳以上じゃないと発言権に制限があったと考えられていますが、民会にはアテナイ市民権を持つ18歳以上の男子なら誰でも参加可能でした。
この民主政の基礎部分を制定しつつ、クレイステネスは陶片追放(オストラキスモス)も行っています。こうして確実にアテナイは民主政へと歩んでいったのです。