江戸幕府の老中制の移り変わり 其の二
以前の記事では、徳川家康から吉宗くらいまでの時代を書いていきましたが、其の二では江戸の三大改革期の老中制から書いていきたいと思います。
江戸の三大改革時代の老中
徳川宗家から分かれた分家の紀州藩から将軍を継いだ8代将軍・吉宗は、譜代大名を見渡して人事を行う必要があったと思われますが、実際にはどのような手腕で老中たちとの関係を築いていったのでしょうか?
徳川吉宗~家重・家治の時代の老中制
8代将軍吉宗は、先代将軍のころの老中たちを中心とした譜代大名たちの支持を得て将軍になりました。そのため、吉宗が将軍就任当時は老中・土屋政直、井上正岑、阿部正喬、久世重之、戸田忠真をそのまま留任させました。
いわゆる【援立の臣】と言われる彼らは、将軍・吉宗よりそれなりに物を言える立場になっていました。
吉宗治世の前半は、援立の臣に気を使いおとなしくしていましたが、1717年に阿部正喬が、1718年に土屋政直が辞任。1720年には久世重之、1722年に井上正岑が死去します。
5人の内、高齢で大人しかった戸田忠真が残ったところで、徳川吉宗の改革が始ま異ります。
まずは、老中の集団合議制を否定し、それを将軍から勘定所への指揮命令系統の中に組み込むことが狙いだった勝手掛老中制の復活をさせます。側用人制度同様に、従来の門閥勢力からみれば面白くない制度だったようで、援立の臣たちに禁止をさせられていました。
その勝手掛老中には、水野忠之が任命されました。
この水野家は徳川家康の母於大の実家であった事から譜代の名門でした。しかも、家康生誕の地である岡崎を知行していたことから、他の譜代大名たちは水野忠之の就任に文句は言えなかったと言えます。
ちなみに、天保の改革を行った水野忠邦は、忠之の6代後の子孫です。
吉宗サイドから見れば、側用人に頼ることができない以上、改革の実施には、老中をラインの中に組み込まなければならないのは、必然の要求となります。実質的には、残りの老中・戸田忠真の解任と言う意味だけの作業でしたが、今後の改革を断行するにはとても大切な作業でした。
こうして、水野忠之を中心に据えて徳川吉宗の改革が始まっていきます。
側用人制の廃止と御側御用取次
吉宗は、側用人の役職を廃止し側衆の中から、御側御用取次と言う役職を新設しました。
将軍と老中の間を取り次ぐ役で若年寄よりも下位に位置する役職ですが、紀州藩以来の吉宗側近が任じられていることから、側用人と同様の機能と権力を保持していました。
吉宗が死去し完全な9代将軍・家重政権になると、若年寄の大岡忠光が側用人として任じられ、吉宗が配した側用人制が復活しました。
老中・田沼意次の登場
10代家治の将軍時代は、基本的に父・家重を世襲した体制だったが、高齢化の波には逆らえず、先代からの老中が次々と交代する事になりました。
家治政権が12年たったころ、1772年に側用人で老中格だった、田沼意次が老中に昇進しました。賄賂政治を横行させた意次が誕生した瞬間でした。
寛政の改革期の老中・松平定信
11代将軍家斉は、15歳の時に将軍となったので、代わりに幕政をけん引する者が必要でした。そこで、白羽の矢が立ったのが、吉宗の孫である松平定信でした。
定信は、老中首座に任命され、将軍の後見人の座にも就き、寛政の改革を推進しました
家斉が成人すると、政権をきちんと戻し在位50年の長期政権となりました。
老中首座とは、常時4~5人いた老中の筆頭者であった考えられています。大老が置かれていないときは、実質幕府で一番の最高職とされています。
老中の出世コース変化
余談ですが松平定信が引退するころの1793年に、太田資愛が老中に抜擢されました。
太田家は、室町時代に江戸城を築いた太田道灌の子孫でした。
太田資愛は、将軍がとても見込んでいたようで、若年寄の勝手掛に任命されるなどの人材だったようです。50歳を過ぎた頃に病を得て辞職を申し出たが受け入れらず、病が良くなった頃を見計らって老中に任じられたようです。
同じ年に、若年寄・安藤信成が老中に昇進したことにより、老中までの出世コースが少し変わってきました。家光のころは、側近の六人衆から老中が抜擢されましたが、その後は寺社奉行や京都所司代を経て昇進するコースでした。
吉宗以降も同様に、若年寄止まりの者が多かった中、家治の治世になると若年寄から側用人を経て老中になるものが出てきて、若年寄経験者が老中になる事例が多くなってきました。
これは、政務が複雑化し勝手掛だけではなく、全般的に老中の補佐をする若年寄の職務が重要になって来たのではないかと考えられています。
幕府の権威が失墜し老中制が崩壊
天保の改革を行った水野忠邦は、家斉の大御所政権を支えた人材を一掃し、自派の老中を集めこれまでの幕府には見られなかった強権的な政権でしたが、改革は失敗に終わりました。
この強硬路線が幕府の権威を失墜させ、老中体制そのものの弱体化をさせました。さらに、黒船来航と言う国難が襲い、最年少老中首座・阿部正弘の幕府の対応から、安政の大獄や文久の幕政改革を経て幕府も老中制も崩壊します。
天保の改革
大御所家斉が死去すると、水野忠邦は大御所政治を推奨していた老中たちを罷免しました。
忠邦のライバル老中を一掃したところで、自身の派閥の人間を老中に据え、幕府の政治改革に正当性を持たせ、天保の改革が実行されました。改革は、贅沢を禁止と倹約強制、株仲間の解散、海防強化などを進めて、江戸と大阪周辺の旗本領を幕府直轄地にする上知令を出しました。
こうした強硬路線で日本全国が混乱した状況を見かねた12代将軍・徳川家慶は、水野忠邦を罷免させました。
ペリー来航と軟弱な老中体制
水野忠邦が辞任した後に、阿部正弘が老中首座に就任しました。
この阿部体制は、首座である正弘自身が若いため威信に欠け、他の老中の経験不足も拍車にかけた軟弱政権でした。そこに、未曽有の国難ペリー来航に直面したのですから、老中達の頼みの綱は将軍・家慶の権威でした。しかし、家慶は黒船来航直後の没してしまうのです。
そこで、将軍になったのが、体が弱く言語も明晰ではなかった家定が就任した事で、幕府の体制がさらに弱体化しました。そんな状況では、阿部正弘がこれまでの慣行を破り、開国の是非を外様大名や旗本に意見を聞くのも無理はありませんでした。
大老・井伊直弼の登場と大老の権力
1858年に彦根藩・井伊直弼が大老の内命を受けました。
他の幕閣たちは、松平慶永を大老に押していましたが、将軍家定の強い意向で井伊直弼が大老になったそうです。
この頃、将軍家では、継嗣問題が起こっており紀州藩主・徳川慶福を推す井伊直弼派と御三卿の徳川慶喜を推す一橋派とで対立していました。現職の家定は、徳川慶福を考えていたようですが、一橋派は、朝廷に働きかけて慶喜の時期将軍を実現しようとしていました。
そんな状況下の中で井伊直弼は、世論の反対を押し切って日米友好通商条約の調印をし、翌日には、反対派の堀田正睦と松平忠固の老中解任を申し付けました。
こうして直弼は、足場を固めて思うように権勢をふるうのですが、それに異を唱えたのが御三家の尾張藩主・徳川慶怒と水戸藩主・徳川斉昭でした。両藩主と井伊直弼が会談を行いましたが話はまとまらず、両藩主が直弼に一蹴される形で会談は破談となりました。
その翌日に、直弼は時期将軍は慶福にすると言う事を公にし、時期将軍をして江戸城に入城しました。一方で、松平慶永と徳川両藩主たちは、直弼により謹慎処分を受けてました。
これまで、大老は老中制の上に乗っているだけのお飾り的な存在でしたが、御三家や老中達の対応を考えると、権力を行使すればこのような力を持ちうる役職だと思い知られた出来事ではありました。
こうして意のままに、権勢を振るっていく井伊直弼ですが、これらの出来事が大老暗殺と言う前代未聞の大事件のきっかけになって行くのでありました。