江戸幕府の老中制の移り変わり 其の一
徳川家康が江戸幕府を開いたのち、全国の大名に自身の意向を伝達する【年寄】を置きました。この年寄りが後の老中となるのですが、その初代年寄(老中)が本多正信と大久保忠隣の二人でした。
家康が健在していた頃の年寄制は、私たちがよく知っている老中制とは程遠い機関ではありましたが、三代将軍・家光のころには老中制の原型が垣間見れます。
徳川家康の大御所政権と2代目将軍・秀忠
徳川政権樹立後、【年寄】として、政治の中枢に君臨し各大名家に家康の意向を伝えたのは、本多正信と大久保忠隣で、この頃は老中と言う名の役職はなかったが、実質的には初代老中として幕府の政務を取り仕切っていました。
1605年に徳川家康は秀忠に将軍職を継がせると、自身は駿府の地で政治の実権を握りました。秀忠独自の政権ができたのは、家康の死後7年ほどでした。
秀忠政権になると、幕府の指示が必ず年寄(当時は4人)による連署奉書で出されるようになりました。基本的には、4人の年寄が連署することが必要だったとされています。
これが、徳川幕府の老中制の原形が確立されたと考えられています。
秀忠が将軍を家光に譲り大御所となりますが、秀忠は将軍との意見が割れないように、将軍の地位は尊重しまいた。そのため、年寄連署奉書には、秀忠・家光の許可が出ている旨を書き、当時の年寄りたちが署名していました。
老中と言えば、現在でいうところの内閣総理大臣だと言われますが、この時期は内閣官房長官的な立場であったようです。責任者としてではなく、将軍の意思取次に当たる存在として年寄は行動していました。
要するに、よく出てくる幕府の意思と言うより、将軍の意思と言う意味合いが大きかったのです。
徳川幕府の老中制の完成
三代将軍・家光の時代になると、【年寄】と言う名称から【老中】と言う呼び方が確立されました。大御所・秀忠が1632年に没して、家光が政治を取り仕切るようになると、老中の職務を規定した法令を出しました。
家光は、権力が一人の年寄に集中しないように、どんな事でも3人の老中で合議したうえで披露するように命じます。
1633年には、松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛・三浦正次・太田資宗・阿部重次が将軍の小姓として召し抱えられました。この6人を【六人衆】呼ばれ、後の老中を補佐し旗本支配にあたる【若年寄】の起源となりました。
秀忠死後の家光新政権では、六人衆より堀田正盛・松平信綱・阿部忠秋が老中として日常の政務を処理することになり、井伊直孝・土井利勝・酒井忠勝の3名が大老※として重大な案件に関わるようにとされました。※この頃は大老と言う言葉を使用していなかった。
徳川家康から家光までの老中の主たる職務は、将軍と大名の取次役で、政治能力と言うより将軍の意向をよく知るものが適任でした。3代までの幕府の権力は将軍が全権握っており、政務を掌握していたからこそ、側近型老中が適任だったとされています。
そういった意味では、3代までの老中は政治組織としてはまだ未熟だったとも言えます。
若年寄の誕生
4代将軍・家綱の時代になっても側近型老中は続いていました。
しかし、1662年に松平信綱が病に伏し、阿部忠秋も高齢になってきたことから、老中を補佐する役職が必要になりました。かつての六人衆たちは、3人が老中となり残りは職を解かれたりと人数を減らし消滅していました。
そのため、この機能を復活させるべく、側衆の人間に旗本支配を命じ加増し【若年寄】と名を変えて復活させました。
側近老中から官僚老中へ
初代・家康~4代・家綱までの老中は、側近型の老中でありましたが、5代・綱吉の代になると側用人と言われた柳沢吉保が登場します。
これを機に江戸時代的な老中制が成立することになります。
大老の地位
大老は、幕府一番の役職ですが、就任に伴い朝廷から従四位少将の官職をもらう事が許されます。従四位侍従が老中の官位であることから、はっきりと大老のほうが上と言う事になります。
少将に任じられると言うのは、国持ち大名家と譜代大名筆頭の井伊家と並ぶ地位で、その上には御三家と前田家・伊達家・毛利家などくらいしかいないくらいの地位を得ること出来ました。
官位については、こちらで少し触れているので参考に…↓↓↓
大老の職務は、基本的に日常の政務には関わらず、大局的な見地から幕政に関わるようにとされています。その大老と呼ばれる最初の人間は酒井忠清で、それまで老中としてやって来たが、より高い地位から幕政に関わるように命じられました事から始まりました。
1695年には、彦根藩主・井伊直興が大老に任じられ、在任中には第7代将軍・家継の継嗣問題や江島生島事件などに対処しています。直興以降、最後の大老まで彦根藩主・井伊家から排出されることになります。
側用人政治
徳川綱吉の側用人と言えば柳沢吉保ですが、実は吉保以外にも16名の側用人がいました。
側用人は、5代将軍・綱吉によって創設された将軍と老中の取次をする役職でした。綱吉は、支流から将軍になったので、徳川宗家の政治機関である幕府の老中の人事を尊重せざる得ず、自らの意思を伝達するために側用人を置きました。
中でも、柳沢吉保は、老中を凌ぐ権力を持ち、最終的には15万石に加増され、少将まで上り詰め大老格までになりました。6代将軍・家宣、7代将軍・家継も間部詮房が側用人として重用されたことから、側用人政治といいます。
8代将軍・吉宗は、譜代大名尊重の立場から側用人を廃止しましたが、御側御用取次を置いて老中との取次役を置きました。9代将軍・家重は、言語不明瞭であったことから、側用人を復活させ、10代将軍・家治の時代には、田沼意次が側用人となり後に老中も兼ねて幕政に関わるようになりました。
これ以降、側用人は幕府官僚組織に組み込まれ若年寄り以上老中以下役職として、老中へ昇進するための一役職として機能することになります。
だいぶ話が長くなり、読むのが疲れてくると思うので、今回はここで切りたいと思います。
次回の記事では、江戸の三大改革期から幕府崩壊までの老中制について書いていきたいと思います。