色々な歴史

歴代幕府の創設者たちのほとんどが清和天皇の子孫だった!?

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清和天皇像 wikipediaより

 

858年から876年まで在位していたのが清和天皇

清和天皇は子沢山で、そのうちの子孫が臣籍降下したことで清和源氏へと続いていったと言われています(清和天皇ではなく息子の陽成天皇から続く血筋が清和源氏とする説もあります)

幕府は基本この清和天皇の子孫が立ち上げたと言われているので、家系図を見ていこうと思います。

 

幕府創設者の大元・清和天皇の家系図を見てみよう

 

武士が新興勢力として本格的に注目され始めたのは義家の時代。河内源氏の祖である頼信の孫にあたり、義家は八幡太郎とも呼ばれていました。

 

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源義朝(頼朝の父)平治の乱で没落すると、新田家の祖である義重平家へ接近。一方の足利義康の息子(義重が平家へ接近する頃には既に義康は死亡)は、平家と敵対していた八条院の蔵人として近侍していました。

この時の新田家と足利家の立場の違いが頼朝挙兵の際にも表れており、幕府を開いて以降の待遇の差にも繋がっていきます

 

頼朝挙兵の際に共に活躍していた御家人の中で北条氏が、頼朝の死後から頭角を現し始めると足利氏は北条氏と姻戚関係を結んで鎌倉幕府内での地位を獲得。それに対し、新田氏は源氏の中でも八幡太郎と近い血縁に当たるとして敬意を受けているにも関わらず低い地位に甘んじるようになりました。義貞まで時代が下ると無位無官です。

時代が変わり、鎌倉幕府に綻びが出始めると多くの武士たちが抵抗し始めます。幕府に不満を抱いていた後醍醐天皇という天皇がいたこともあって更に倒幕運動は広がります。

 

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足利尊氏と新田義貞

 

新田義貞の場合、無位無官という事情もあって鎌倉幕府に対抗します。

一方の足利尊氏が鎌倉幕府を裏切った理由はハッキリとしていません。が、当時は悪党が活発に動いていたり反乱があったりと非常に混迷を極めている中、実質幕府トップのはずの北条得宗家当主が病弱でお飾り状態。後継者争いまで始まっている状態を見て「幕府に先はない」と見限ったのが真相ではないか?と考えております。足利当主にしては珍しく北条出身の母や妻がいないことも功を奏しました。

 

倒幕が成功すると 後醍醐天皇 が政治を行うようになりました。いわゆる 建武の新政 です。この建武の新政は、公家中心の政治であり時代にそぐわないもので武家を中心に不満が募っていきます。

建武の新政に反対する武士層が『源氏の棟梁』として担いだのは人望のある 足利尊氏 でした。

鎌倉幕府倒幕の際に活躍されたとされるのが足利尊氏楠木正成新田義貞です。

建武の新政に反対した層に担がれた尊氏が反後醍醐天皇派に行ったのも、悪党出身で幕府に反抗していた立場の楠木正成が後醍醐天皇の政治に味方したのも理解できますが、新田義貞は元々武家の名門出身なのにどうして武家政治を嫌った後醍醐天皇についていったのか非常に見えにくい。

それが、上の家系図を見てみると何となく「尊氏へのライバル心がそうさせたのか?」と見えてくる気がします。

 

加えて、新田義貞の性格も大きいと思われます。

というのも、新田義貞には後醍醐天皇を裏切った足利尊氏との戦いで不利になり逃れている最中に川を渡らねばならなくなって新田軍で橋を築いた際

「築きあげた橋を壊した方が良い」と進言する部下に対して

「橋を切り落としてまで逃げたとあっては恥だ」として橋を壊さず

 部下を最初に逃がして自分が最後に渡った

という逸話が残っています。どうにも義貞は名誉を重んじる傾向があったようです。後醍醐天皇を裏切ることは朝敵になるのと同義ですから、義貞にとっては裏切りなどあり得ない事だったのかもしれません。

 

尊氏は朝敵にならないよう後醍醐天皇の誕生で両統迭立の約束を反故にされた天皇を立て新しく開いた朝廷(北朝)を支援し、室町幕府 を開きます。それに対抗して後醍醐天皇も別に朝廷(南朝)を開きました。

結局武士の力なくしてどうにかできる時代でもありませんでしたから、室町幕府と北朝が有利になり、紆余曲折を経て南北朝も北朝有利なままで統一。

 

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ところが、鎌倉時代の末期辺りから貨幣経済が本格的に浸透して時代が変化。時代が変化して出自が怪しい者がのし上がれるようになると、下剋上の下地が広がって戦国時代へ突入します。

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江戸幕府を創設した徳川家康も源氏出身!?

 

平和な時代だと自分の家にあった出来事などをメモした書がそれなりに出てくるのですが、混乱を極めた最中っていうのは結構いい加減。誕生年・没年等それなりの家柄の人たちであっても割と雑ってことが出てきます。下剋上が広がりはじめた戦国時代初期だけでなく南北朝の動乱や関東を統治する鎌倉府と幕府の間での争乱などが続いたわけで、後の年代の人が家系図をいじることはできなくはない状況です。

その家系図をいじったのでは?と言われているのが 徳川家康

見ての通り室町以前の幕府の創設者は河内源氏の家系から出ていて、確実に天皇家の血筋をひいています。

家康以前の天下人・豊臣秀吉の場合、明らかに源氏出身とは言えない身分のため征夷大将軍につけず『関白』という力技で政権の長につきましたから、家康はその秀吉が成し得なかった征夷大将軍につきたくて家系図をいじったのか?と考えてしまいそうですが、実はそうではありません。

 

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家康の場合は元々三河の国人土豪出身である程度知られた存在で、家康の祖父の時代すでに新田氏の後裔・世良田氏出身だと称しています。三河は南朝方の残党が多く逃れた土地で、松平氏以外にも南朝方の武将の末裔と名乗る者が数多くいたとか。家康の祖父もその一人だったのだろうと見られているのです。

時代は流れ、家康が三河を統一した頃のこと。足利氏や吉良氏といった超名門の領地が点在する土地だったため、三河守護はまだ空位のままでした。

お隣の遠江・駿河にいる旧主の今川氏は衰えてはいますが、北東には武田信玄が健在。三河統治に正当性を持たせ確実なものにしたい家康は、権威付けのために三河守の任官を希望します(実質朝廷から購入しようとした)が、祖父が自称した世良田氏には「三河守を叙任した前例はない」として断られてしまいます。

 

本来、武家の叙任には征夷大将軍による推挙が必要とされていますが、ちょうど三河守を希望した時期は、前将軍である足利義輝が「将軍を傀儡にしたい」と考えていた松永久秀や三好三人衆らによって討たれたことから(=永禄の変)征夷大将軍の地位が空いている時期と一致。

そこで家康は公家と武家との仲介人である山科言継(=公家)と公家の頂点にいた近衛前久と相談しながら、古い文献や書物をかき集め『世良田義季』(新田家の祖・義重の4男)という人物が『得川』を名乗っていたこと、新田系の『得川』氏が『藤原』姓を名乗っていたことまで突き止めていきます。

そんな特殊な状況のため、『征夷大将軍からの推挙』という形ではなく『公家の一門である藤原氏』とした方が叙任に有利に働くということで『家康個人が徳川に復姓する』という名目で徳川姓を名乗るようになったのです。同時に藤原を本姓とするように。本来ならこんな怪しさ満点の案件が通るわけがないのですが、事前に公家のお偉いさんにも話をつけていたのでどうにか希望が通りました。

 

これ以降、他の松平氏と差別化をはかり家臣団を一致団結させたいときには徳川姓を強調し、官位奏請の藤原が優位になりそうな場面ではしっかり藤原を強調しています。もちろん征夷大将軍就任の際には源氏であるという正当性を強調して巧みに使い分けていたのが実情のようです。

室町時代以降の混乱とスポンサーである幕府や朝廷の財政難からアルバイトをする公家がいたために『徳川』家康が生まれたと言えるのではないでしょうか。

幕府創設者だけでなく、他にも清和源氏からは多くの有名どころの山名氏や明智氏、土岐氏に武田氏などを排出しています。戦国時代によく耳にする名前ばかりですので、気になる方は調べてみると面白いと思います。

 

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歴ブロ
歴史好きが高じて、日本史・世界史を社会人になってから始めました。史実を調べるのも好きですが、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。いずれ歴史能力検定を受ける予定。どうぞよろしくお願いします。