大化の改新と律令国家の形成<645-710年>
飛鳥時代後期から平安時代初期にかけて日本は律令国家でした。
律令国家とは【全ての国民と国土は、天皇の支配を受ける】としており、天皇を中心とした中央集権を目指した政治体制の事を指します。
中大兄皇子達が乙巳の変により蘇我入鹿・蝦夷親子を滅ぼし、645年の政治改革である大化の改新によって律令政治が始まったとされていましたが、最近では大化の改新後徐々に中央政権化が進んでいったとされています。
701年に、日本初の律令法典でもある大宝律令が施行されました。これによって、日本という国の名前が定められて、藤原京から平城京へ都を移して、本格的な律令都市が建設されることになります。
また、律令制での税の徴収に役に立つ戸籍が作られ、貨幣の鋳造、度量衡※の制定などが行われました。
※度量衡(どりょうこう)は色々なモノの単位の事。
こうした律令制度が整備される中で各地方に作られたのが国府と呼ばれる都市なのですが、後で説明していきます。
律令国家への道のり
朝鮮半島では、唐と新羅が結んで660年には百済を668年には高句麗を滅ぼしました。
これに伴い倭の国(日本)では百済復興の支援のため663年に大軍を派遣し、唐と新羅と戦いますが、敗れてしまいます【白村江の戦い】。
その後、朝鮮半島は新羅による統治が確立し統一しました。
百済からの亡命した人たちが太宰府の北方に招き入れ、対馬から大和にかけて朝鮮式の山城が築かれ、半島からの攻撃に備えました。
667年には、中大兄皇子が天智天皇となり、670年には戸籍である庚午年籍を作成しました。天智天皇が亡くなると、次期天皇の皇位継承をめぐり【壬申の乱】が起き、戦いに勝利した天武天皇が即位しまいした。
壬申の乱と大化の改新・乙巳の変の詳しい経緯は、こちらでまとめましたので参考にしてください。
この頃から、大王に代わり【天皇】という称号が用いられるようになりました。
675年に天武天皇は、中央集権を強化するために、有力豪族による領国支配をやめ、官人の位階や昇進の制度を定めて官僚制の元を作りました。684年には、八色の姓を定めて豪族たちの天皇を中心とした身分秩序に編成しました。
その後、貨幣の鋳造や律令・腰の編纂や藤原京の建設を始めましたが。志半ばで亡くなってしまいます。天武天皇の皇后が持統天皇として引継ぎ、689年には、飛鳥浄御原令を施行し、翌年には戸籍を整備し民衆の把握に努めました。
律令国家となった後の文化とは・・・?
7世紀~8世紀初頭の天武・持統天皇時代は、新羅から伝えられた唐初期の文化の影響を強く受けていて、仏教文化を基調としている文化を白鳳文化と言います。
天武天皇によって、大官大寺・薬師寺が作り始められるなど、仏教の興隆は国家的プロジェクトでした。地方の豪族たちもこぞって寺院を建立し、倭の国では空前の仏教ブームに沸きました。
仏像も、興福寺仏頭などのおおらかな顔をした作品が多く、絵画では法隆寺金剛堂壁画などが有名です。また、豪族たちは中国的教養を学ぶようになり、漢詩文を作るようになる一方で、和歌の形式もこの時整えられました。
国府は地方行政の中心地だった
国府は、政治を司る国庁を中心に官衙(かんが)、倉庫、工房などが置かれ、地方を統括する官庁都市でした。この頃の産業の中心は農業であったため、商工業はまだ小規模なもので、一般市民の居住エリアはあまり大きくなかったようです。
国府には、仏教を布教するために『国分寺』『国分尼寺』や様々な神々を祀った総社などが設置されていました。国府の設置場所には、当時の官道であった駅路沿い、特に分岐点に置かれることが多かったそうです。また、都との通信には馬が使われており、旅をする官人のための馬を用意した馬屋である、駅家も付近にあったようです。
国府の位置で現在知られている場所では、静岡県静岡市、京都府府中市、滋賀県大津市、鳥取県鳥取市、岡山県岡山市などにあったとされています。これらの場所の多くが交通の要所であり、いまも地方都市として栄えていることが分かります。
当時国府があった地域には、地名に『府』が付くことが多いそうで、東京西部にある【府中】は旧武蔵国府の名残とも言われています。
国府の中心となる国庁の構造は、長方形の壁の中に南向きに正殿、その左右には脇殿があり、平城京がモデルとなっているそうです。施設の中には、造船所船や染織工房もあったそうです。
国府は、地方行政の頂点であり、国司と呼ばれる高級官僚が中央から派遣されて、その下に地方豪族たち働いていました。しかし、9世紀~10世紀には律令制が崩壊して、その後は国司に一任されることになり、その権力が増大していくことになります。
これが地方の混乱を招き、武士階級を生むきっかけになったとも言われています。
国府内の施設と仕事
施設名 | 役割 |
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国庁 | 朝廷・国司・地方豪族と言う上下関係を確認する儀礼・饗宴の場所。研究から、文章行政も行われていたとされています。 |
国士舘 | 守を始めとする四等官の宿舎。交易や客人をもてなす場でもありました。平安時代になると、儀礼や執務にも使われました。 |
曹司 | 国府の下で、実務を執り行う役人たちの宿舎。多くの部署に分かれていたようです。 |
国府厨 | 国府の官人たちのための食事を作る場所。 |
倉庫群 | 正倉院とも呼ばれる国の倉庫で、米などが蓄えられています。 |
駅家・国府津 | 陸上・水上それぞれの交通の拠点で休息や物資の補給ができるようになっています。 |
国分寺・尼寺 | 聖武天皇が国家鎮護の一環として国ごとに置かせた国立の寺。 |
国府の仕事は、租税の管理や警察業務他、水陸の交通の拠点の維持管理も含まれていました。派遣される官僚も単身赴任が多かったようで、宿舎や食事を作る施設も兼ね備えていました。
民衆の税負担
律令国家での民衆は、戸籍・計帳で管理されており、一定の単位で口分田を支給し、税が課せられました。家屋やその周囲の土地の売買は認められていましたが、口分田は売却できず、死者の口分田は6年ごとの班年に収公されました。【班田収授法】
民衆には、祖・調・庸の税を課せられました。
祖は、口分田など収穫から3%程度の作物を納めるもので、調・庸は各地の特産品の絹や布、糸などが中央政府の納められました。さらに、雑繇は、国司の命令によって公共工事などを行う労役で、60日を限度に行われました。
成人男性には、兵役もあり各地の軍団で訓練を受けていました。
※2022年7月17日 更新