藤原道長で栄華を誇った藤原氏とは?
平安時代の中で最も有名と言っても差し支えのない人物・藤原道長ですが、道長について調べる前に藤原氏の歴史を簡単に調べ直していきます。何しろ飛鳥時代から頻繁に出てくる藤原氏です。
道長を語るうえでどうしても藤原氏の出自は避けて通れません。
藤原氏の誕生
藤原氏は飛鳥時代の645年にあった乙巳の変【蘇我氏宗家が滅亡した事件】の中心人物の一人、中臣鎌足が609年の死の直前に天智天皇(元・中大兄皇子)から藤原姓を賜ったことから始まります。
乙巳の変が起こった背景としてはこれ以前の朝廷内での力関係が神事・祭祀に関係する大伴氏や物部氏に分があり、それを牽制する目的が朝廷側にはあって蘇我氏が成長。蘇我氏は渡来人との関係が深い豪族で、次第に大伴氏・物部氏の勢力は落ち着いてきたものの今度は蘇我氏の勢力がかなり強くなっていた、という点があげられます。
当時の朝鮮半島にあった国・百済から伝来した仏教(百済は当時近隣諸国と関係悪化していたため、日本を引き込む手段の一つとして仏教を伝えたと考えられる)と蘇我氏が結びついたこともあり、仏教伝来以前から神事に携っていた中臣氏も蘇我氏とは仏教受容の問題では反対側の立場です。加えて、外交政策の方針にも違いがあったようで、ここらへんの裏事情が乙巳の変へと繋がっていったと思われます。
藤原鎌足から不比等へ
藤原氏の名を受け継いだのは鎌足の次男の不比等(長男は出家)。その際、他の従兄弟らは当初の中臣姓を名乗って祭祀を担当しており、明確に藤原氏と中臣氏は区別されることに。
この鎌足の次男・藤原不比等には四人の息子がおり、この兄弟たちがそれぞれ『藤原南家(以下藤原は略)』『北家』『式家』『京家』を興しました。
その後は『京家』を除く藤原氏や橘氏等の他の氏族との間で勢力争いが繰り広げられていきます。
京家は早世者が多く、子女が少なかったため振るわず。文化・芸術的な面で有為な人物を多数輩出
807年には伊予親王の変で南家が、810年には薬子の変で式家の勢力が衰えると、809年から在位していた嵯峨天皇の信任を得た藤原冬嗣(ふゆつぐ)以降は『北家』が台頭する事になりました。なお、この冬嗣は皇室と姻戚関係を結んでおり摂関政治の礎を築いた人物とも言えるでしょう。
そして、冬嗣の息子・良房が臣下で初めて摂政につき、その後を継いだ基経は関白として政治の実権を握ると(=摂関政治と呼ぶ)以後は藤原氏の氏長者として忠平、実頼、伊尹、兼通・・・と続いていきます。兼通の代では道長の祖父であり兼通の弟でもある兼家との確執が表面化しており、この辺りの時期から徐々に氏長者を巡る諍いが目立つように。
兼家の息子の代でも流行り病や糖尿病での病死が絡んだこともあって、普通なら氏長者に就くことのない五男・道長もしっかりと藤原氏の氏長者候補の一人に入ることとなります。
とにかく飛鳥時代より前から続く豪族で、天智天皇時代にはじまったのが藤原氏です。長い時代を経て何度も勢力争いを繰り広げ朝廷内での強力な地盤を築いてきたことが分かるかと思います。
そんな藤原氏出身だからこその逸話があったり周囲の人物や人柄…様々なものが後世にまで記録として残されています。そこら辺も含めた道長像を今後書いていこうと思います。