平安時代

薬子の変(平城太上天皇の変)と天皇と上皇の関係

歴ブロ

794年に都を平安京に遷都した桓武天皇は、806年に崩御し平城天皇が即位するのですが、病のためわずか3年で嵯峨天皇に譲位します。この平城天皇の病の原因と言うのが、早良親王と伊予親王の怨霊と言われています。

早良親王は、平城天皇の代わりに天皇になるべく人物でしたが政変により命を落とし、平城天皇がこの時に天皇となりました。一方で、伊予親王も桓武天皇の息子で早良親王の次に天皇になる人物でしたが、平城天皇に排除されることになります。

この平城天皇の治世3年間、何もしてないかと言うとそうでもなく平安京遷都や東北遠征で疲弊した民を安らげるように官僚制度改革や経済の復興を熱心に行っていましたが、早良・伊予親王の怨霊を恐れるあまり譲位に至ったようです。

この譲位劇が後に桓武天皇のその妻・藤原式家出身の乙牟漏(おとむろ)の息子である平城太上天皇当時既に譲位され天皇に就いていた嵯峨天皇との間での平城京への遷都を巡る対立である、【薬子の変(※平城太上天皇の変)】へと向かっていくことになります。

歴ぴよ
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※2003年以前は、どの教科書でも「薬子の変」の呼び名が一般的でした。現在は、「平城太上天皇の変」と呼ばれることが多いようですが、薬子の変の方が書きやすいのでこちらで統一します。

今回はそんな薬子の変についてまとめてありますが、個人的な見解も結構書かれてあるのでご注意ください。

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薬子の変・平城太上天皇の変とは?

薬子の変』とは、桓武天皇の妻・藤原式家出身の乙牟漏(おとむろ)の息子である平城太上天皇(平城上皇)と当時既に譲位され天皇に就いていた嵯峨天皇との間での平城京への遷都を巡る対立だったと言われています。この時、所謂「二所朝廷」と言われる状態に陥り、政治的な混乱がおきました。

平城太上天皇(上皇)の平城京へ帰還

平城太上天皇は嵯峨天皇に譲位後、側近たちを引き連れ平城京へ戻ることにしました。

これは、以前から寵愛していた藤原薬子や身内が自身の出身である藤原式家と深い繋がりがある平城京に戻りたかったのでは?とされています。

また、平城天皇は病気が原因で天皇の地位から退き弟に譲位しています。弟が皇太弟となっていたのは桓武天皇の強い意向があったためと言われており、既に皇子がいた平城天皇にとって神野親王(嵯峨天皇)を皇太弟とするのは不本意だったのかもしれません。

平城京にもだった上皇の体調が戻るに従い藤原薬子は、平城天皇の側近として再び権勢を振るうため、平城上皇を再び天皇としようと画策します。

歴ぴよ
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※ここでは薬子が画策したように書きましたが、一説によると平城上皇が画策したとも言われています。

藤原薬子とはどんな人??

藤原薬子は暗殺された藤原種継の娘で、兄に藤原仲成の式家出身の女性です。幼少の長女が桓武天皇の皇太子である安殿親王(後の平城天皇)の宮女となったのに伴って本人も宮中に上がります。その際、娘を差し置き自身が安殿親王と深い仲になったと言われています。

式家は桓武天皇に優遇されていた家でした。

桓武天皇が渡来系氏族の母親を持ち、様々な反応がある中での即位だったにも関わらず強力に後押ししたのが式家の祖・藤原宇合の八男、藤原百川だった関係からの優遇でした。藤原百川が死去した後は、藤原式家の年長者・種継が重用されるようになります。紆余曲折があって種継を責任者として奈良の都から引っ越そう!となった末の長岡京への遷都なのですが…

この遷都の反対派によって種継が暗殺されることになりました。

桓武天皇周辺の摩訶不思議な出来事

藤原種継の暗殺以降、長岡京にいた桓武天皇の周りでは様々な不可思議なことが起こります。

長岡京の不思議事件

  • 786年  藤原百川の妻で、藤原良継の娘である諸姉が死去(式家)
  • 788年  諸姉の娘で桓武天皇の太后となる旅子が死去(式家)
  • 789年  桓武天皇の母・高野新笠が死去
  • 790年  桓武天皇の皇后となる乙牟漏(おとむろ)が死去(式家)坂上又子死去
  • 794年  安殿親王の妻・藤原帯子死去(式家)

東宮での女官たちの死が不自然に多く、当時の人々は早良親王の祟りだとされ、長岡京への遷都の中断も余儀なくされるほどの影響を与えました。

それにしても随分偏っていると思いませんか?

桓武天皇の母は高齢のため仕方がありませんが、当時40歳くらいの諸姉、他の女性たちは30代で、藤原帯子に至っては20代とも言われています。この短期間に亡くなったのは式家の女性が目立っています。785年に藤原種継が暗殺された後から種継と縁の深い式家の人間が次々と亡くなっているのです。

昔だから疫病でないかと思う所もありますが、史料を見てみると、785年に東宮にはあまり影響のない周防国で飢疫があったくらいです。790年には京畿内で痘瘡の記述が見られることから天然痘が流行ったのが分かりますが、時期としては少し遅くずれています。

「昔だから早死になんじゃ…」というにしても長岡京への遷都自体を取りやめる程なので、当時の人たちも何かしら思うところがあったと思われます。

このことから短期間に式家の女官達が次々と亡くなる理由になり得ないことが分かります。

では他殺でしょうか?

彼女らの暗殺をしてメリットを得られる人間を考えると、やはり南家と北家あたりがあやしいという事になります。(京家は一線から引いて文化的な方面で活躍していきます)

桓武天皇の多くの妃たち

桓武天皇は、非常に多くの妃がおり、その人数なんと20人以上。

この中には当然、式家の者も北家の者も南家の者もおりました。そんな大所帯を纏めていたといわれるのが786年に尚蔵(くらのかみ)となった橘真都賀(たちばなのまつが)です。

実はこの人物は、橘諸兄の姪っ子であり奈良麻呂の変を起こした橘奈良麻呂と従兄の関係に当たります。橘諸兄の最盛期を直接目で見て、尚且つ奈良麻呂の変で実家が衰退していくのを生で感じていた人です。そして、この真都賀は恵美押勝を輩出した南家の出身である藤原是公を夫としています。

藤原是公は774年に参議になって以降順調に出世。特に779年山部親王時代の桓武天皇の皇太子の世話係となった後…更にその桓武天皇が781年に即位してからは、それまでの左右大臣や大納言が亡くなったこともあって一気に是公が昇進していきました。是公らの息子の一人、雄友もかなりの勢いで785年以降出世していってます。

長岡京の不思議事件…彼女なら十分に動機も結果も満たしているように見えますし、何しろ時期もピッタリと一致。橘真都賀は容疑者?として十分にあり得る人物だと思われます。彼女本人でなくても近い人物とか。

とにかく、南家の関係者がまとめている場所で式家の者たちが次々と亡くなっている状況は式家の者の目からはどのように映るのでしょうか??

藤原薬子の動機

藤原薬子から見れば、自分たち式家の者が南家の者たちに葬られ、政治の中心が南家中心になって行くように見えたのではないでしょうか?娘を入内させるだけでなく、安殿親王を取り込み、南家の者を牽制する動機となったのではないでしょうか??

手段が手段なので桓武天皇から嫌われて東宮を追い出されることになりましたが…

今まで出てこなかった薬子の夫ですが、彼の名は藤原縄主。彼は800年に安殿親王(桓武天皇の息子、後の平城天皇)の春宮大夫となっています。安殿親王が26歳頃のことです。

安殿親王が20歳前後の時に不倫関係になったということなので、その後の任となったことが伺えます(きついですね)。こういうのが積み重なって桓武天皇と息子の安殿親王との仲が悪化していったのでしょう。

ところが、邪魔される程に盛り上がるのが人情と言うもの。806年、桓武天皇が崩御し安殿親王が平城天皇として即位すると、すぐさま薬子を東宮に戻して縄主を九州へ太宰帥として送り込みます。

そして、翌年の807年。それまで南家に良いようにされてきたこともあって、式家の中心的な存在となっていた仲成・薬子兄妹の謀略(とされる)により、伊予親王(桓武天皇の第三皇子とされる)とその母親で南家出身の藤原吉子が処罰され、自殺。大納言となっていた藤原雄友も流罪に処され南家の勢力は一気に衰退します。

病弱な平城天皇を支えたことで平城天皇と薬子の結びつきは益々強くなったそうです。

しかし、結局病気を理由に弟の嵯峨天皇に譲位し前回話したように嵯峨天皇の側には北家がいたので、式家としては面白くありません。こんな経緯から薬子の変へとつながっていくのでした。

皇族と藤原氏の関係

続いては『薬子の変』と関連しそうな皇族対藤原氏で起こった事件を時代を遡って見てみます。

長屋王の変あたりは年代的に古すぎな気もしますが、藤原氏と皇親による争いの先駆けなので触れておきます。

【729年】長屋王の変(皇族vs.藤原氏の先駆け的事件<聖武朝>
藤原氏から史上初の皇后(光明皇后)誕生。以前は皇族関係者のみが皇后だった
⇒ 藤原氏の台頭

【737年】流行り病により長屋王の変の首謀者・藤原四兄弟※が死去 <聖武朝>
⇒ 皇族の 橘諸兄が台頭 していく※ 藤原四兄弟は、それぞれ式家・南家・北家・京家を開いた祖

【740年】 藤原広嗣の乱 (広嗣=藤原式家の出身)<聖武朝>
= 橘諸兄政権との確執か?反藤原体制に反発する乱とも言われている
⇒ 官軍により広嗣側が鎮圧される、式家が一時的に衰退

【757年】 橘奈良麻呂の乱<孝謙朝>
= 光明皇后(孝謙天皇の母)と藤原仲麻呂(藤原南家)の台頭に橘諸兄の息子が危機感を抱いた結果、乱を起こしたと言われている

【764年】恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱<淳仁朝>
= 藤原仲麻呂が光明皇后の崩御により後ろ盾をなくした+ 孝謙太上天皇と道鏡の台頭が原因と言われている
⇒ 仲麻呂が最大の後見だった淳仁天皇が追放され、孝謙太上天皇が称徳天皇として重祚。道鏡が台頭

【769年】道鏡への皇位継承を和気清麻呂が阻止<称徳朝>
※清麻呂を支えた人物に藤原百川(式家)の存在があった

【770年】称徳天皇の崩御により道鏡が退けられ、百川らが光仁天皇を推す

【772年】 光仁天皇の皇后が呪詛による大逆をはかったとして地位を廃される<光仁朝>
= 藤原百川(式家)と百川擁する山部親王(後の桓武天皇)による陰謀か?
⇒ 山部親王が皇太子に立てられる※百川が山部親王の才能にほれ込んだためと言われている

【781年】桓武天皇の即位<桓武朝>
= 百川は即位前に死去。年長者の種継が重用される(極端な重用だった形跡なし)

【785年】 藤原種継の暗殺 (藤原式家の出身)<桓武朝>
= 長岡京への遷都に対する反発が原因?

上記を見ていくと皇族と式家、南家らで権力争いしている様子が見て取れます。

恵美押勝の乱では、藤原仲麻呂(=恵美押勝)の一族の殆どが処罰の対象となっていて南家の勢力は桓武天皇が即位(781年)前まで一時期衰退しています。そこを百川が少しずつ引き戻しているような形ですね。

ところが、橘奈良麻呂や藤原種継の関係者はそのまま朝廷の中枢部に留まることになります。藤原種継は被害者ですし、橘奈良麻呂の乱では、その後の朝敵ともなる藤原仲麻呂の台頭を阻もうとしたのだから当然です。

800年以前は北家が一切出てきていないのが分かります。北家が出てくるのは、嵯峨天皇の即位辺りからになります。

北家が関わった事件と言えば、807年に起きた 伊予親王の変 でしょう。

北家の藤原宗成が伊予親王に謀反を勧めたとされますが、宗成本人は伊予親王が謀反の言い出しっぺだと自白。結局、宗成本人は流刑に処されて伊予親王母子は冤罪なのに自害に追い込まれます。伊予親王の外戚である南家の中心人物も刑に処され、大幅に南家の勢力が削がれることになりました。

裏では式家の藤原仲成・薬子によって唆されて起こったとも言われています。式家は一切痛みを受けず、皇親・南家・北家の人間を追いやっているのが分かりますね。

では、何故ここまで式家の人たちが主に南家の人たちを追い出しにかかったか?というと、単なる権力欲の為だけとは言い切れません。

式家は歴史の表舞台に出ている政治家達を追いやっていますが、見えないところで式家の人たちも追いやられているのです。式家なりの防衛策だったのかもしれません。

薬子の変(平城上天皇の変)

嵯峨天皇が即位した1年後の810年9月に平城上皇による平城京遷都の詔勅を出したことで事件が起こります。平城京へ造営使を派遣するようにと上皇からの勅命で、嵯峨天皇は坂上田村麻呂を派遣するように見せかけ、平城天皇の様子を探らせました。

ここで少し話がそれますが、詔勅とは天皇が出す物でしたが、当時は上皇も同じ効力をもつ詔勅を出すことが出来たそうです。

平城上皇の詔勅があってから4日後に、嵯峨天皇は平城京遷都を拒否し平城上皇と戦う事を決意します。あらかじめ、平城上皇が逃走しないよう関所などの封鎖を命じ、平城京に送り込んだ坂上田村麻呂に対しても平城上皇を平城京内に抑え込むよう指示を出します。

平城上皇と藤原薬子は東国で兵を集め反撃に出ようとしますが時すでに遅く、嵯峨天皇に関所を押さえられ坂上田村麻呂に逃亡を阻止され、降伏することになりました。

天皇復帰を絶たれた平城天皇と藤原薬子。上皇は、出家し政界から離れ、藤原薬子は自害し自ら命を絶ちました。

こうして、嵯峨天皇の冷静な判断で薬子の変は幕を閉じることになります。

天皇復帰の希望を絶たれた平城上皇とその側近の藤原薬子。平城上皇は出家し政界から離れ、藤原薬子は自らその命を絶ちます。

薬子の変以降の政治体制の変化

薬子の変は、嵯峨天皇の迅速な動きにより嵯峨天皇の勝利で決着しました。

平城太上天皇は自ら出家藤原薬子は服毒自殺をはかり、薬子の兄・藤原仲成は射殺されます。この事件以降藤原式家は一気に衰退します。

そこで出てきたのが藤原北家

これまでは南家・式家に比べると目立っていませんでしたが、ここから北家優位の時代に突入します。貴族間の力関係もさることながら政治体制にも大きな影響を与えることになりました。

蔵人頭

まずは天皇の命令を上皇に漏らさずに、且つ、速やかに太政官に伝えるための蔵人頭という役職が出来ました。蔵人頭は2人、この蔵人頭が属するのは蔵人所という役所です。とにかく、これを機に蔵人所に属する蔵人が天皇の側近として重要な任務を果すようになります。

つまりは秘書のような役割という事になりますが、この役割は元々内侍司の長官である尚侍が請け負っていました。内侍司は女官のみで構成された部署になります。

薬子の変以前は、この尚侍には譲位したはずの太上天皇の置き土産として藤原薬子が就いていました。上皇と天皇との関係を考えると尚侍を無下にすることも出来ず、だからと言って勅を出しても上皇に筒抜け状態。

上皇と天皇が対立すると、通常業務にも支障をきたすようになります。また、上皇が尚侍を通じて直接太政官に命を出す事も可能です。最近、平城太上天皇の変と呼ばれるようになったのはこの辺りが理由です。

この蔵人頭には、巨勢野足(こせののたり)嵯峨天皇の春宮太夫だった藤原冬嗣が就いています。基本的には四位(地位を示しています)の者と近衛(六衛府の1つ、近衛府)の官人がなることになっています。

検非違使

さて、もう一つ忘れてはならない職があります。これが検非違使(けびいし)です。816年にできた平安京内の警察に当たる職になりますが、既に似たような職種を思い出しませんか?そう、六衛府です。

※大宝律令で制定されていたのは元々五衛府でしたが、様々な継承問題などを通じて権力者の都合の良いように改造してきた経緯があります。途中八衛府になったりしてますが、嵯峨天皇の時には六衛府に落ち着きました。

平安時代の前、奈良時代の後期には兵の質の低下が問題になっています。この質の低下は元々農民達に対して酷使しすぎたことが原因の一つです。ところが、この六衛府の中にも農民出身の者達が一部にいたという事実があります。

そして桓武天皇の時代には忘れてはならないのが、軍団制の廃止と健児制の開始です。元々五畿七道それぞれの国の軍団に属する優秀な人物を集めた五衛府でしたが、設置した当初とは状況がだいぶ変わってきており、そのままの制度では立ち行かなくなってきたことが伺えます。

そんなわけで出来た検非違使ですが、後に裁判も行うなど京の治安や統治に欠かせない職となっていきます。

こうなると六衛府がお役御免になりそうなものですが、これまでとは違う任務にも関わるようになりました。その任務と言うのが、この蔵人所と六衛府(特に近衛府)の共通点・雅楽です。

検非違使と呼ばれる京内の警備専門職ができ藤原氏を中心とした貴族政治が行わるのに伴い、六衛府で高い地位(大将や中将など)に就くのが栄誉と見做されるようになりました。天皇や貴族達も音楽を嗜む様になったこともあって馬芸や楽舞などにも関わるようになってきます。

六衛府の中でも特に左右近衛府、そして後に蔵人所の下に置かれることになる大歌所。この二つが雅楽と深い関わりを持っています。

嵯峨天皇の821年の内裏式において雅楽は宮中行事に欠かせないものとして扱うことになったようですし、嵯峨天皇が新しい職務として六衛府に図らったのかな?とも考えられますね。

ちなみに尚侍についてはかなり地位が低下する事になったようです。

天皇制の転換期

薬子の変自体は、とても地味なんですが天皇制の在り方と言う観点では歴史的な事件で、その根本にあるのは、天皇と上皇の2重権力構造でした。

天照大神の子孫である天皇は、神格化され日本のトップに君臨し続けているので、天皇が譲位して上皇となっても、天照大神の子孫であることには変わりはありません。そのため、天皇も上皇も絶大な権力を持っており、度々天皇と対立をしていくのです。

飛鳥時代の皇極上皇と孝徳天皇や奈良時代の孝謙上皇と淳仁天皇などもありました。

そして、今回の薬子の変も本来天皇が最高権力者なのに上皇もそれと同等の力を有しているがために起こった事件でした。

そこで、事件後に嵯峨天皇は、天皇に権力を一本化するために動きます。

嵯峨天皇は、平城上皇が作り上げた平城京の政務機能をすべて廃止し、嵯峨天皇は譲位後、隠居することで政務から離れ、最高権力者は天皇のみであることを自ら知らしめました。

本来ならば、法で規定すればよいのですが、天皇や上皇は法を超越した存在のため法の規定にはなりませんでした。

こうして、薬師の変をキッカケに天皇と上皇の関係が明確化され、数百年に渡り国が乱れた原因の一つを解決する事になり、天皇制の転換期としてこの事件は位置づけられています。

長い記事でしたが、読んでくれてありがとうございました。

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歴史好きが高じて日本史・世界史を社会人になってから勉強し始めました。基本的には、自分たちが理解しやすいようにまとめてあります。 日本史を主に歴ぴよが、世界史は歴ぶろが担当し2人体制で運営しています。史実を調べるだけじゃなく、漫画・ゲーム・小説も楽しんでます。 いつか歴史能力検定を受けたいな。 どうぞよろしくお願いします。
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