蹴聖と呼ばれた蹴鞠の達人・藤原成通の伝説と八咫烏
サッカーは、明治時代に海軍兵学校生の余暇としてイギリスの軍人さんから伝えられたとされ、当時は蹴球と呼ばれていました。
日本にも蹴鞠と言われる球技が行われていました。平安時代に貴族の間で流行し、多くの蹴鞠の達人を排出し、室町時代には武家のたしなみとして将軍も行ったとされています。
各時代に多数の蹴鞠名人を排出しましたが、中でも平安時代の公卿・藤原成通(なりみち)は、稀代の名人と言われ、蹴鞠書でも蹴聖と呼ばれています。
今回は、蹴鞠界で超有名な達人・藤原成通の蹴鞠伝説について書いてみたいと思います。
蹴聖・藤原成通の出世街道
藤原成通は、藤原北家の流れを汲む公卿で祖父は白河上皇の側近として右大臣まで登り詰めた家柄でした。成通は鳥羽天皇・崇徳天皇・近衛天皇の下で忠勤を励み、第四子ながらも順調に昇進を果たし、鳥羽天皇の時に左近衛の少将・中将を経て参議に進み、崇徳天皇の時代には、従三位に叙され、権中納言と侍従を兼務しました。
そして、近衛天皇の時に正二位に叙され大納言に任ぜられました。
容姿端麗・多彩多芸、有識故実にも通じており、何をしても抜群で天に二物も三物も与えたとはこの人の事を言うのかもしれません。平安貴族なので詩や和歌は当たり前ですが、笛や郢曲にも抜群の才があったというのは、その多芸ぶりが伺えます。
郢曲とは、春秋戦国時代の楚の国の都・郢の人が歌が上手く、そこで歌われた歌を郢曲と呼んだそうです。
また、馬術の達人だったようで、彼の凛々しい乗馬姿は、宮中の女官たちを魅了し、まさに文武両道の人物だったようです。
幼少期の藤原成通は病弱だった!?
文武両道の成通でしたが、幼少期はホッソリとした体形で病気がちだったとされています。
9歳の時には、一定日時に発作する熱病である癪を患っていました。発作が起こると、熱で体が震えたそうです。父・宗通は、修験者を呼び毎日のように祈祷をして成通の病を治そうとしていました。
この時代の病には、信頼すべき修験者による祈祷が主な治療方法だったのです。しかし、祈祷の甲斐が無く、父は修験者をひっかえとっかえに祈祷を繰り返したと言います。
ところがある日、成通が父に向かい「これだけ次々よ修験者を変えるのは義理に欠くので、これまで世話になっていた修験者で結構です。幸い、私の病は命に関わるものではないので、あまりご心配なさらぬように…」と言ったそうです。
このように成通は、とても心の優しい人情家として書かれていることが多く、実際に鳥羽天皇、崇徳天皇、近衛天皇の歴代に仕えて順調に出世したのは、この人柄がなすものだったのではないかと思います。
藤原成通の蹴鞠の精霊伝説
健康維持のために成通は、貴族で流行っていた蹴鞠を取り入れ、いつも練習をしていました。雨の日は、宮殿の大広間に入って密かに練習をしていました。
成通は蹴鞠上達のために千日にわたって毎日蹴鞠の練習を行うという誓いを立てました。
そして、誓いを成就した日の夜、彼の夢に3匹の猿の姿をした鞠の精霊が現れました。
それぞれ名前が夏安林(アリ)、春陽花(ヤウ)、桃園(オウ)で、鞠を蹴る際の掛声になったと言われています。この3匹の猿は蹴鞠の守護神として現在、大津の平野神社と京都市の白峯神宮内に祭られています。
こうした努力の結果、ついに蹴鞠の名人と呼ばれるまでになりました。
ある時は、従者十人ばかりを並べて坐らせ成通はその肩の上を走って、見事に蹴鞠の技を披露しました。この時、成通はその坊主頭を踏んで走り過ぎ皆々驚いたのですが、踏まれた坊様は「笠が頭にあるくらいしか感じなかった」といったそうです。
別の逸話では、父・藤原宗通に従って清水寺に参籠した時、舞台の高欄を沓を履いて渡りながら鞠を蹴ろうと思いついて、西から東へ蹴鞠して渡り、さらにまた西へ帰られたので、見る者の目を驚かし、色を失わせたとあります。
この時ばかりは父もご立腹で、1か月ほど謹慎をさせました。
清水の舞台でリフティングをするのですから、父が怒るのは当然です。しかし、成通は蹴鞠の精霊に出会い、その加護を受けていたと言うのですから、身の軽さなどは超人的なモノがったのかもしれませんね。
蹴鞠以外にも、ある蹴鞠の会で天候により一時中止していた際に、即興の和歌を低声で歌うと寺から一人の少女が現れて
この寺に狂女がいて、お薬も医師の治療も何の効力もなく、皆々困り果てておりましたところ、あなた様の朗詠されたみ歌をお聞きして、狂態がぴたりとやみ、只今正体もなく熟睡いたしております。これはあなたさまの和歌とお声に感応したからであろうと思いますので、もう一度あなたさまの美しいお声を狂女に聞かせていただきたく存じます。
と嘆願され成通は、二つ返事で引き受けると寺に入りその女の前で歌いました。
孰(いず)れの仏の願いより
千手の誓いぞたのもしき
枯れし草木もたちまちに
花咲き実るときくれば
その狂女はこの歌を聞くや、起き上がって泣くかと思えば本来の心に立ち返り、この場に居合わせた人々は、感嘆して「成通卿の妙技ここに極まる」と言ったそうです。
さらに、成通の乳母が瘧を病んで修験者の祈祷も効なくひさしく悩んでいると聞き、成通卿みずから見舞いにいった話が伝えられています。
八咫烏とサッカーと藤原成通
藤原成通は、蹴鞠上達祈願のために熊野詣を50回以上行ったことが知られています。
『古今著聞集』には、妙技「うしろ鞠」を熊野の大神の前で奉納したとの記録があります。
サッカー日本代表のエンブレムは、三本足の烏として知られる八咫烏(やたがらす)であることはよく知られていますが、この八咫烏は、藤原成通も詣でた熊野本宮大社のご祭神である家津美御子大神のお仕えと考えられています。
また、八咫烏は賀茂御祖神社のご祭神である賀茂建角身命の化身とも考えられていることから、「蹴鞠はじめ」行事のある賀茂御祖神社ともゆかり深いものとして知られています。
神武天皇の東征の際には、高皇産霊尊の命によって遣わされ、熊野国から大和国の橿原の地へと神武天皇を導いたとの伝承も八咫烏にはあります。
残念ながら、2020年の東京オリンピックはコロナウイルスの影響で延期となりましたが、コロナが終結し2021年の大会では、八咫烏と藤原成通にあやかりサッカー日本代表の勝利を願いたいと思います。